熊本熊的日常

日常生活についての雑記

仏の顔

2014年01月22日 | Weblog

普段より少し早く家を出て、出勤前に上野の国立博物館に立ち寄る。先日、人間国宝展を妻とふたりで観に行ったのだが、帰ってきてから「やっぱり図録を買えばよかった」などと言い出したので、館内のショップで買い求めた。その展覧会を観たときは図録を買うつもりが全くなかったので、見もしなかった。改めて手にするとそのボリュームに驚かされる。今回の人間国宝展には団体指定と和紙漉き以外の全員の作品が出品されている。会場構成は平成館の2階がもう亡くなっている人の作品で1階に現役の人たちの作品となっている。単に作品の写真を並べただけの図録では日本伝統工芸展のそれと似たようなものになるが、さすがにそれでは芸が無いと思ったのか思わなかったのか、特に現役コーナーは人となりを描写しようとするかのような文章が綴られていて、読んでいて楽しい。

図録はともかく、今日は東洋館を観た。何年か前に改装工事があったが、工事の後に眺めて回るのは初めてだ。建物に入ってすぐの展示は中国の仏像。南北朝時代から唐代にかけての石仏や仏頭が並ぶ。展示室に入るとすぐに見上げるような菩薩立像と向かい合う。照明の当て方や仏像の配置といった工夫の所為もあるのだろうが、仏像の顔というのはいいものだなと思う。単に顔ではなく「お顔」である。人間というのはこういう人相になるように生きなければいけないのではないか。どんな悪人も死ねば仏になるという。そうであってもなくてもけっこうなことだが、肝心なのは生きている今をどうするかということだ。生計を立てるのは容易なことではない。かといって、目先の損得にばかりこだわっていると視野は狭窄し思考は矮小になる。そういうときの顔は畜生と変わらないのではないか。類は友を呼ぶというが、畜生は畜生と交わるようになり、畜生の世界から抜けられなくなる、ということになるのだろう。厳しい時こそ遠くを見て位置や方角をしっかりと把握しておかないと人間としての矜持を保つことはできまい。無常の世界に位置も方角もあるものかと思わないこともないのだが、死んで仏になるよりも仏のようになって死んだほうが形が良い。目の前にある仏像のような顔になるにはどうしたらよいのか、目の前に立つ人に安心感を与えるような佇まいになるにはどのような心持ちになればよいのか、というようなことを考えながら生きていけば、少しはましな人生になるのだろうか。

 


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