リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

滝沢克己への好意的修正(その2)

2018-12-15 10:52:12 | その他
 こんにちは。東京地方も突然寒くなってしまいました。体感気温は真冬。でも朝の最低気温は真冬にはさらにあと数度下がります。通勤の方はごくろうさまです。
 
 さてニュースは、「カローラが3ナンバーに」。何言ってんだ、って、それこそ戦後50年、ずうっと残っているチープな高級車、軽自動車を除いて下から2番目に安いレベルでそこそこな質を提供する、という日本自動車会の誇りであるあのカローラが、ブルジョワの3ナンバーに! 3ナンバーって「でかい」って意味だけだけど。わたし的には自分の文章内で、セルシオと比較して貧乏人の車の比喩で使ってたので、もう昔の本は意味不明になるし。賢明な若人は自動車など買わないから爺仕様になるんだろうね。高齢者はみなさんお金持ちで結構なことさね、オレはまだ50歳だ? はい、じゅうぶん高齢者。戦後は遠くなりにけり。この流行言葉さえ遠いね。
 
 ニュース話題は、社会的影響では辺野古埋め立てなんだろうけど(辺野古、MS-IMEで変換されるほど影響があるんだ。IMEの基体はアホなくせに)、わたしゃ左翼なんで言っても意味ないので。けど、県単位で反対しているのに強行とは地方自治の否定だね。それでいいのかね民主主義信奉者の諸君は。
  
 次はちっこいけどおったまげの社会情報。東京に西東京市、という市があって、ま、田舎の合併村だけど、そこの「図書館の駐輪場を有料化するという前代未聞の計画」「共産党市議団が、市議会では唯一、値上げ・有料化計画に反対」(赤旗)
 駐車場じゃないぜ、バス代も出ない人間が使う駐輪場。びっくりぎょうてん、どんな脳天パーの市だろうか。この市にはグーグル地図上、駅前スーパーのある駅なんか1駅(半)しかないから貧乏なんだろうけど、市長の月給99万円、ボーナス500万円だぜ。たこ。まあそんな住民しかいないんだろうけど。共産党議員も定数の15%じゃね。
 (と、共産党もこんなとこで応援されてるとはご存知あるまい)
 なお、図書館法上、図書館は無料で開放しなければなりません。ま、法の趣旨だけどね。法を作った戦後も遠くなろうとしている。
 
 次。漫画の代わりに借りた田川建三「キリスト教思想への招待」。相変わらず合理的な論で心良い。
 しかし驚いたことにあの狂犬のような人がすっかり丸くなって、ああもう68歳(執筆時)だったんだね。これなら昨今の喧嘩を知らない若人でも読めそう、教養のためお薦めです。若人が『批判的主体の形成』(1971)なんて読んだら驚いてひっくり返っちゃうからね。
 もっとも田川が「古代資本主義」を資本主義だ、と言い張る箇所はいただけない。言い張るだけならまだしも定義の問題ともいえるが、「それは違う」という経済学者を本書で根拠もなく馬鹿にしているのはブーメランだぜ。これじゃ江戸時代後期も資本主義だ、って話だ。本人はそれでよかろうが、何の意味もない。本件は山のように批判展開してもいいのですが、本日は先週の続きがあるのでパス。山になるし。来週でもやろうか。田川の良い点は日常行為の合理性追求であって、社会科学に関わる点ではないのでご注意。

 さて、役に立つ情報がないね。前回の続き、オタク系だけど、別に難しくないので行ってみましょうか。
 
 本題は【原点における「歴史」の認知】 
(その2)ったって(その1)の題と違う、というわけだけど、何しろ題に字数制限があるもので。
 
 前回は、「神が我とともにある」と心に決めると必ずいわゆる「良心」が発生すると言って、その意義について話したところ。宗教教義は全部デマだけど、「神が我とともにある」と思うかどうかだけはただの決断、というわけで。で、そこにもうひとつ発生するものがあります。「個人における歴史観念」です。これによって、人生に豊かな意味が生ずる。「私が死んでも彼がいる」「彼女が死んでも私がいる」。死んだ彼らの生は引き継がれ、私の生も引き継がれる、という認知関係の成立です。
 
 人は、誰でも死というものの存在にたじろぎながら、その事実を受け入れざるを得ない、かと思われます。さてそこで、その人が神がいると思えば、この死の認知はそのままでは終わりません。人間は、基本、納得してないし。かくて、宗教はその将来に、「神の審判」だの「極楽と地獄」、要するに「あの世」を組み込んで成立します。要は、死をなんとか合理的にする、というわけです。
 いわゆる宗教でなくとも、神は心に共にある、と思った場合、死の認知は、宗教と同じく、「既にその概念の中に将来を組み入れた」事実認知とならざるをえません。これが個人の内部に生ずる歴史観念です。
 自分は歴史の中で生きている、という自覚。
 ”友よ 君の涙 君の汗が 友よ むくわれる その日が来る”(牧師・岡林信康)。(わたしゃ自称左翼もクリスチャンも信じていない)
 それこそが被支配人民と同じく生きているというイデオローグ、すなわち俗流唯物史観の果たした歴史的役割なのです。
 
 (ちょっと余談) ところがやりすぎたんだね。世界では人民を率いる前衛が一番偉い、と、めいっぱい学的組織で権力をふるってしまうもんだから、「ちょっと待てよ、本当に生きて歴史を作ってきたのは被支配人民だぜ」とアンチテーゼが起きる。網野史観だね。まあアンチテーゼの出現理由はいくらでもあるが社会的にはそれがどう社会の本流となるか、というわけで。あちこち起源のこれが、俗流唯物史観と権力が組み合わさった諸国(アメリカはもとから埒外(らちがい))では全世界的に勃発するわけで、しかも起きただけではすまない、国家の武力減少と資本主義の緊張の激化で、すっかり学術組織の主流を取られてしまう。網野はマルクス主義に立ったアンチテーゼだったのだけれど、アンチテーゼにジンテーゼができるヒマもない。ジンテーゼは極東国日本の一在野の一社会学徒が『「上部構造」の社会学』で確立はしたが、この時代、上部構造である学会の流行は、学者の賞賛しか求めることはなくなった。テーゼのないアンチテーゼに意味はない。かくて、歴史学は無意味の巣となった。ま、ドキュメンタリ-テレビ番組は意味などなくても面白いからね。しかし、じゃあドキュメンタリを見て終わる一生に意味があるか、といえば、神は「意味などない」とのたまうわけだ。見るだけで、自分の行為に関わらないからね。というわけで、もう歴史学も人材不足でおしまいさ。年寄りがこたつで読んでくれるかどうかが最後の糧秣(りょうまつ=食料とマグサ)のゆくえ。歴史学者は自分の仕事の人間的意義をちょっとは考えたらどうかと思いますが、ここまでは余談。
 
 元に戻って、俗流唯物史観にも、人々に人生の意味を提示するという大きな役割があったんだ、ということですが、そうしたことを考えさせるきっかけは、神(であれ仏であれ)が自分と共にあれば、必然的に生ずる、というわけです。(その1)と同じ。それは宗教教義の如何を問わない。キリスト教であれ仏教であれ同じ。ただ、神(あるいは仏)がいることにするか、いないことにするか、この2択の個人内の決断の結果です。 
 
 役に立たない? でもさ、若人は、こういう感覚はわかんないでしょ? 私は若いときわかんなかったなあ。何しろ居並ぶ左翼理論家が、みんな「歴史」「歴史」ってわめくのさ。実存主義者さえ「人間は歴史内存在だ」とか言うのさ。ほんと意図不明。だけど、みんな年寄りか、クリスチャンか、マルキストだったんだね。そう思うと不思議さが解けませんか?

(P.S. ただ、滝沢克己はこんなことは思っていない。彼は「明日が来るなんて幻想だ」派。ね、前回も言いましたが他人にお勧めにくい人間。要は彼は本質的に西田幾多郎の正統の弟子なのですよ。正義を聞くのも無駄、キリスト教を聞くのも無駄。西田と同じ存在論的無の哲学なのだから。瞬間と永遠の哲学。「正統な弟子」と「正統の弟子」の違いってわかりますか? 「正統な弟子」は権威に裏付けられた外見。「正統の弟子」とは、「知らないだろうが彼こそ、他にはいない本当の弟子」の意。)


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