リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

プレ資本主義から後進国資本主義へ(その2)

2024-09-22 16:55:29 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。東京地方、今日は涼しい。涼しいとすべてにやる気がでるから不思議。ただほんのちょっとおなかが悪い。
 能登はあんまりですねえ、、これで心が折れないわけがないだろうと、わたしは心が弱いので。折れたらどうなるのかしら、、神様のご加護をおいのりいたします。

 今日は昨日の続き。「来週」ではありません。ふつうのみなさまには、あしたいいことがありますように。

 では、前商品社会とは何か。都市労働者の視点からご説明します。
 まずは、「商品社会」とは何か。それは資本主義社会のことです。

     そもそもから始まっちゃいますから、ふつうのかたは来週ね。

1 商品社会とは
 マルキストが「商品」が資本主義社会の基本要素とかいうから、商品があれば資本主義やら商品経済やら市場社会だ、などと短絡される、これはなにも短絡する者のせいではありません。すべてを無規定的に使うからそういう目にあう。
 資本主義社会とは、宇野の言う通り、「資本によってその経済を処理する社会である」(経済原論p.19)。「資本によって生産過程が把握されると始めて(ママ)、必ず商品となる生産物が生産されることにもなるのである」(同p.20)。
 
 さてしかし、資本というモノはありません。それはあるシステムの集約です。どんな? モノを支配者の許可により消費しうるシステムです。ここではモノは本来、支配者の所有品なのです。
 支配者が許可を与えるにはモノの見分けがつかなければなりません。そのモノの生産過程には労働者の労働がある。この労働により生産させることに限って費やされるカネの呼び名が「資本」であり、そこでできたモノが商品なのです。
 そこでは、モノとは売ろうとしてそろえてあるモノです。この呼び名が「商品」です。
 商品は消費物資ではありません。労働者はこれ(商品)を消費してはならないのです。ただしカネを使えばよい。
 誰が決めたのか? 国家支配者です。なぜそんなことが決められるのか? 法律で所有権を決めたからです。 それは決して資本家が決めたのではない。
 商品とは「支配権力が定めた(カネと交換するという)方法による消費が許可された物品」のことです。つづめていえば「消費許可品」です。

 さて、それではなぜ資本主義的時代にそんな画期的なことがおきるのか。 
 その要因は、「人民にとっての」余剰消費物資の製作力の大きさです。ここで生産力と言わないのは、無意味な哲学的生産力論議に巻き込まれたくないからです。今焦点となっているのは、あくまで純粋な物質生産力です。
 しかし、一方、「余剰」であるということは、余剰が生まれる農業生産力とそこから生まれる余剰物資の行先の特定を確認しています。

 端的に言えば、いくら人民が労働しようと、奢侈品は支配者の命で作れるし作らされるでしょうが、便宜品を作ることはできないのです。そんな暇があったら、国家支配者の賞賛と優越を充足するために、周辺の国家支配者の持ち物のような奢侈品を作らされるのです。
 端的ですが、そういう意味です。
 さてそれは「余剰」でしょうか? 学者にとっては余剰でしょうが、しかし人民にとってはそれは生命と引き換えの必須物資製作です。
 
 しかして、ここで必要なのが、何らかの要因による消費物資製作力の増大と、奢侈品からの国家支配者の相対的な欲求の減少です。ここで人民の便宜品欲求について考慮する必要はありません。労働人民にとって、便宜品は普遍的欲求対象です。 
 ざっと具体性を付け加えておけば、たとえば第1に、機械力の創成、第2に国家支配者の国家意識の増大にともなう人民の肉体力への対応、要するに反乱防止、であることは歴史が述べるとおりです。

 ああ長い。長いうえに初聞きでしょ? ま、しょうがない。
 つぎはわかりやすいでしょう。

2 前商品社会から後進国資本主義へ 
 ここからが本題。
 ここで、後進国においては必要な機械力は先進国の資本が転化します。反乱防止はそもそも後進国家の国家支配を入手する過程で必須です。
 
 プレ資本主義から資本主義への第1段階は、生産共同体における共同性の崩壊です。
 都市=工業的生産力の上昇によるモノの放出に対して、今までの共同体から、「相対的な」カネ基準が低下する。工場労働者であれば年に300万円収入されるのに、農村労働者では200万しか入らない、という意味です。ここで、生産共同体から出る人間は、被扶養観念がなくなる。日々あやうい工場労働者の生計を支えたはずの生産共同体は、せいぜいが、「実家・親類縁者」の意味しかもたなくなります。

 この時点で、都市労働者にとってそれまでの賞賛と優越の参照枠であった生産共同体は消滅します。彼の行く先は都市に限定され、彼の賞賛と優越は同じ都市に住む、あるいは会う、労働者諸氏に移行する。
 これが第2段階の始まりです。都市から逃げる場所が「実家」しかなくなった労働者は、先進国労働者の代わりに「産業予備軍」の要件を備え、資本家は労働者の賃金をいいように操作します。この過程で生産「実家」と都市労働者の両者が貧窮に陥った時、私も言い飽きたし読者諸氏も聞き飽きた、しかしマルクスはいわなかった、資本主義的疎外が彼のものとなる、はずです。
 
 ただし、もっと悪いことに、小後進国の場合、それは徹底されない。資本主義的生産は既にその他の大中後進国の発展によって過剰になっているからです。小後進国の労働は、あくまで自国の消費物生産と特殊資源的生産に特化されなければならない。これは半面、生産共同体の存在の、生計維持人民への必要性が残るということです。この時点で、産業化によってその必要性をクリアできない農業生産力しかなくなっていれば、何かの資本が剰余労働力を吸収するまでは、その剰余労働力はカラシニコフ銃へも向かうでしょう。内戦です。

 なお、ここでは生産共同体員からのモノとしての収奪の増加は考慮に入れません。
 モノとしての収奪の増加がないとは、今まで150キロで済んだ税はこれからも150キロで済む、という意味です。 

 と、「2」は、われながら簡潔でわかりやすい。半歩譲って、わかりにくくとも簡潔だ。広辞苑のよう。こういうのを「わかってる」というんだね。
 ま、書けば礼儀は果たしました。


 
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