リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

滝沢克己への好意的修正

2018-12-08 11:34:53 | その他
 こんにちは。日々気温が乱高下する東京地方ですが、トータルとしては暖かいもよう。
 最近、暮れに忙しい職業を知りました。税理士と古本屋。税理士はそんなものでしょうが、古本屋さんも大掃除で本を大量に片付けるから出張だらけなんだそうで。風情のある話ですが、古本屋も少なくなってね、目黒区なんか10軒足らず。それでもいいほう。150万人都市川崎市に至っては全店舗数8件。ブックオフは別だけどね。ここに引っ越す前に行ってた古本屋も今年ウェルパーク・ドラッグストアになってしまった。
 
 さて、本日のニュース。
 「水道法改正法案成立」。えーー! 常に事前コメントを心がけているのに、どこに隠れてやがった。しかも審議なしで可決だと。アベ、やりたい放題だな。
「事業の運営権を民間企業に売却する「コンセッション方式」を導入」(産経)だとさ。
だから、どうやって利潤出すんだって。人減らしと水処理の手抜きしかないだろうが。そんな水飲めるか。俺らミネラルウォーターなんか買う金ないぞ。とまで書いたら、水道料金、値段を上げるそうな。あ、さいですか。
 しかし公明党はどういうつもりなんだ。そんな経営に片足突っ込んだ人間なら誰だって知ってることもお経読んでると分からないのか。
 片足突っ込んだ、っちゅうのは私ね。でも「片足」っていうのは、アタマのことだよ。アタマは突っ込まないと組織と話が合わなくて排除されるからね。その結論を実行するかどうかが残りの片足さ。私は残りの片足を踏み出したことはないぜ。
 そんなの左翼なら当然? いやいやいや。若人にはもう一回リフレインしておかないといけないね。「いやいやいや」。
 というわけで本日の若人に役に立つブログ。就職しても経営に突っ込むのはアタマだけ、を心がけましょう。
 そんな標語なんの役に立つんだ、って、そりゃ良心というもののありようの知識だね。良心のない人間は、ただの資本家だよ。もちろんそれがいい人はこのブログには決して来てはないからね。ここに来るぐらいの人はだいじょぶ、これからも良心は失わないはずのところ、両足は突っ込まないように、という老爺心。その一方、隈は片足だけは突っ込むことを期待するよ。年寄ると悪い社会でも子供がなんとかうまく生きてって欲しい気になるから。

 というわけで、あとのニュースは、ついで。
 「低所得者を対象に保険料を最大9割軽減している特例措置を、来年10月にも廃止する方向で検討に入った。年金収入が年168万円以下の高齢者約740万人が対象になる。法令で定める軽減幅は7割だが、現在は税金を使ってさらに安くしている。」(共同)
 試算しましょう。9割減額は基礎年金収入のみの家庭だから、老夫婦2人で160万円で生活している農家は、1人8000円、2人で年額16000円の保険料増で、消費税が8%から(10%ではなく)11%に上がったのと同じことになります。賛成の方は御覚悟を。公明党も助けてくれません、
 と、このくらいには事前報告をするのがいつもなんだけどなあ。
 なお、記事の見出しが「医療費軽減廃止」とありますがこれは「保険料」のこと。医療費ではありません。

 次、「防衛省は、陸海空3自衛隊を一元的に指揮する「統合作戦室」(仮称)を設置する方針を固めた」(産経)。まあ上ばっか見てる口先野郎では戦争ができないと気づいたんでしょうね。現場と密着した人間が偉くない組織はつぶれる。国会(議員)が良い例だ。
 
 さて、今日の本題。滝沢克己のインマヌエル。宗教の話なので、興味のない方は、また来週。もう気温は平年並みで落ち着く(=寒いまま)のようです。お風邪など召しませぬよう。
 
 で、昔、滝沢克己という哲学的(・クリスチャン的)宗教者がいまして、良心的な上に、行為主体の主体性をよく理解している人なので、敬意を持って遇するわけですが、(なので「好意的修正」は「行為」の誤変換ではありません)、借りた本の後ろの出版社PRに田川建三批判本があるというので面白そうなので借りてみました。題:「聖書のイエスと現代の人間-田川建三「イエスという男」の触発による-」。中身:う~~む、なんだかねえ、という感じ。これだから滝沢は普通の人には勧められない。
 話は変わるようですが、滝沢克己をウィキペディアで引くと、大変優れたまとめが書いてあります。彼は神と人間は下記のような3つの関係にあると考えた、そうです。 
 ・不可分 神がこの世界でまぎれもなく働いている。
 ・不可同 人間と神は同等ではありえず、神の前では人間は無に等しい。
 ・不可逆 神は絶対的主権を持っており、神から人間への啓示はあっても人間が自分の意志で神へと至ることはできない。
 えらい、よくそう断言できました。私がウィキペディアを褒めるのはこの10年で2回目でしょうか、このまとめはとてもよい、といっても本当かどうかは知りませんが。なにしろ彼の著書は、読んでいくとすぐに聖書に紛れ込んで、どうみたってクリシチャン主義。 
 ところで上記まとめの3点は別に宗教ではありません。「神がいるとしたら」の論理的あるいは合理的結論です。まあ、神がいるなんて主張だから宗教でもいいや。で、彼氏、なんでも「唯一普遍の宗教」を唱えたそうな。ところが、「それで終わればいいのに」、結局キリスト教にいってしまうんだよね。だから、そっから先はわれわれ一人ひとりには関係がない。
 ところで、問題は「それで終わ」ってよいか、という点で。
 
 「論理的結論であるのなら、それは論理じゃね? 論理など人間の生に意味があるはずもない、=行為論的意義があるはずないしょ。それで終わったら意味ゼロ」という、いかにももっともに聞こえる疑問があるでしょ?
 ところがそれは違うんだなあ。神がいる、と言った瞬間に、同時に行為の正しさという概念が生ずる。まあ良心だね。崇高なものからの賞賛、強いものへの畏怖、なんだっていいのですが、次の将来の行為には「正しさ」が関わらざるをえない、ということになる。かくて、人は各人の各人にとっての正しさの下で、それに従うかどうかは別として、自分の生を生きることになる。
 めでたしめでたし。
 キリスト教であれ仏教であれ、そんなものは誰かが勝手に作ったものだ。うそだと思ったらカトリックの教義の変遷といったら舌が千枚あっても足りない。同じくプロテスタントのセクトの多さといったら新左翼なんか逃げ出すほど。どれか一つが正しいということはその他の全部は神の名を騙って(かたって)人民を惑わす、神をも恐れぬバチ当たり共だ。もちろん実はその全部が神の名を騙っているのだが。それ以外に論理があるのか?
 さて、それではならない。人が神の名を騙らずに神とともにあるためには、宗教教義ではなく自己の命ずるままに行為をしなければならないのだ。自己には、神が出現した瞬間に、原点が発生する。
 ほら、そこでとどまれば、滝沢の正しさのままに「唯一普遍の宗教」が発生している。
 
 というわけでさ、滝沢が田川建三とやりあうだとかは、ただの趣味の論評合戦。「あの雲は羊の群れに見える」「バカだね、あの雲はイワシの群れだよ」。それだけの話。もちろんヒトは他人とバカ話をするのが楽しいからね。
 再度、めでたしめでたし。
 
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