リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

再度、「階級構造」について

2019-09-21 16:06:11 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。もう赤とんぼが飛ぶ季節で、暑さ寒さも彼岸まで。台風は終わりませんけど。
 こちら方面では稲城市の稲城長沼に稲城梨という名物のでかい梨があるのですが、直売所でギフト用に送ろうとすると渋い顔をするようです。台風にやられてきれいなご贈答用は数が間に合わないようで。直売所も訳あり品ばかりだとか。まあいつもより3割安いのでこちらは悪くはないですが。

 当方、去年から引き続いたなんやかやの所持雑事が、昨日でようやくほとんど結着しました。長い1年半、(おかげで)何もできなかったし。と思うとこれからなんでもできそうな。ほんとかね。
 もう実家も無くなってしまいました。悪いことや嫌なことや思い出したくないことや、いろんなことがあったけれど、東京の一角でもまあ故郷ならぬふるさとだから、そこそこ茫漠として解放されております。子供の頃を思い出して嬉しい人はそれだけで幸せというものです。
 
 さて、ニュース。
 「「ココアシガレット」が人気再燃」(日経トレンド)
 すいません。見出ししか読んでません。2000字以上の記事は読まないと言うルールがありまして。ともかく、ココアシガレットまだあったのか、というわけで。
 子供の頃、50円が限度の遠足のお菓子は、チューブ・チョコレートとこれ。美味しいわけではないと思うのですが、心が豊かになって。隣のやつにも、苦情を言われないし。
 注をつけておくと、昔はお菓子を買えるのはお祭り(100円)と遠足のときだけでした。じっさいはお祭りで買うのはお面と吹き矢くらいでしたが。

 次、「触法難民、開けぬ未来 仮放免でも毎月出頭、職にも就けず…産経新聞387」
 「国内には現在、戦争などのため祖国を離れた難民が1万1千人以上定住する。難民の中には罪を犯したことで在留資格を剥奪され、就労許可を得られずに働けないまま日本に留まり続ける人も少なくない。祖国に居場所がない彼らは、強制送還を拒否したことで入国管理局に長期間収容され、仮放免になったとしても社会保障は一切受けられない。在留資格を得るための明確な規定は定められておらず、制度のはざまで苦しむ難民への支援のあり方が問われている。」(木下未希)
 えええええ。驚愕。
 なんだ知らなかったのか、って、そりゃ知らんけど違う、産経新聞だよ、産経新聞。
 こんな私のブログでさえ取り上げないことを木下未希氏と神戸支局の編集長は、偉い。社内で偉くなろうとしてないとこは最低限客観的に偉い。
 私の後輩も産経新聞就職して、名誉を重んじたのでしょうが、こういっちゃなんだけど傍流を歩いて(同い年なので)退職されたと思いますが、産経も腐っても新聞社、社員にはまともな人もいるんだ。
 私も泣いてばっかりいてはいけないね。
 「おめえなんかいじめっ子じゃねえか」って、バカだね、いじめっ子はいつも泣いてんだよ。 、、、かわいくねえ、
 
 本題です。堅い領域にちょっと一足踏み込んで。
 ちょっと学術っぽい装いを凝らそうかと、ネットで階級関係の新しい参考文献を探していて、当たり前ながらそんなものはありゃあしない。脳内セット済みの古い文献ばかり。橋本健二とか角田修一とか、絶対20歳現在でマルキストだったと感想するのだけれど、今はマルキズムなどほっぽらかして現象論的な(うわっつらの)社会学を標榜してしまって、ほんとやってらんねえ、という感想で。20歳じゃあ現象的な前衛論しか理解は無理だったでしょうからしょうがないといえばしょうがないが(あくまで感想、本人たちのことなど知りません)。
 というわけで、若きマルキストさんあてに階級の唯物論的意義をお教えしようかと。若くないと難しくてわかんないからね。ま、ウサ晴らしチックに。
 
 以前『身分制度と階級構造』(2018-12-01)でお話しましたが、階級構造というのは不可視のものです。これに対して可視の階級のことを「身分」といってきたわけです。
 なんだけど、以前は題を失敗しまして「身分制度」と無規定的に「制度」まで入れちゃったので、これは誤り。
 制度化しない階級現象がある。それがマルキストもお好みの変革的階級です。
 
 述べましたように、不可視の階級は、可視の階級(身分)を現象させます。
 この基盤は、階級の持つ規定性によって作り上げられた、生理的状況と権力状況です。生理的な条件と、支配権力と対抗権力に基づく賞賛と優越により形成された行為共同性が、人間を二つの社会的集合体に合同させるわけです。
 もう少し内実を述べますと、不可視の階級とは(ただの)規定性であり、そこに定義される人間が生きていくときに、彼が必然的に受ける権力とその権力への彼の人間としての対応原理、その時の複数の彼の間の彼の対応原理、これが可視の階級の本体なのです。
 逆にいえば、可視の階級を構成する人間から彼の「人間外の」束縛性を抽象したものが、不可視の階級性であるはずのものです。もっとも実際は、現実の集合性と古典派経済を思考する人間の頭脳との合作ですが。かつ、可視の階級の重要さは、これから将来に現象する階級についてですので、「今誰らのことを言っているのか」といわれても困ります。
 
 端的に言えば、「実証的な」社会学者が専売特許のようにいう「社会階層」とは、個人の行為共同性認識のことです。ある社会的な上下に関わる基準の下で、その概念的な構成員の大部分に明確に意識され区分された行為共同性がある場合、それを「社会階級」と呼ぶわけです。
 この区分性は、それがあるからといって他の行為共同性に影響を及ぼすとは限りませんい。イギリスの労働者階級は、やはり、意識の中でグレイト・ブリテンの国民でもあるでしょう。ただし、その社会階級という上下の区分性のために、差別の意識が必ず生ずる事態です。
 ここで、どの範囲の人民を採ってその行為共同性のどの点の共通性で括るのか、それは個別の社会学者の趣味に従うものです。たとえば、多くの場合、華族というありうる社会階層は除外されるでしょう。現行憲法以前であれば華族と呼ばれるはずの一連の人々は特徴的に自分たちの行為共同性を持つはずですが、彼らが標本内に交じっていてもそれを評価した研究はついぞ知りません。まあどうであれ、現象論にそれ以上の期待をしてはいけません。問題は、なぜその現象が起こるか、だけです。
 ここで、行為の理論は隈理論ですから、この現象は当然「社会階層」ではなく、無色透明な「行為共同性」という言葉を使って叙述されるわけです。 
 これは言葉の入れ替えではありません。行き当たりばったりの基礎理論のない「社会階層」なる操作概念を、根拠の規定性が存在する行為共同性という言葉に置き換えることで、その時代的な変更理由も、これからの変更予想も、第三者に理解できるものとして作れるのです。
 「無色透明」とは、上部構造に属するカテゴリーを排している、という意味です。そこには宗教も民族も文化も生活様式も地域社会の相互関係もありません。生理性の条件と、社会的人間の条件たる行為の原理と原則。この2通りしか分析用具がない社会科学の理論を、「唯物論」といいます。
 若きマルキストと、流行らないのでやめた昔マルキストだった方、以後ご認識を。
 
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