リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「経済学批判」の必須要件

2024-10-12 17:36:46 | 賃金・価値・権力
 こんにちは、今日はお休み? いい気候になってきました。キンモクセイがまだ堅い蕾なのが残念ですがコスモスが風に揺られて、アゲハや黄蝶が飛び回っております。
 (ほんとは2,3週間前、マンションの外廊下でモクセイの匂いを嗅いだんだけれど、どっかのお宅の消臭剤?)
 問題は、秋の花粉症が始まったのか、画面を見てると鼻水が。もっとも窓をあけてうたたねするせいかもしれませんが。
 
 さて、世間では
 「ノーベル平和賞に日本被団協 被爆者の全国組織」(中国新聞)
 どうせ ”核戦争はまずいよ” なんちゅう政治家たちのダシ。そりゃ悪いことじゃないさ、って冷たい? わたしの世間は人物を選んで作っております、ああいう広島人はテレビで見たくない。
 なお、ほんとは広島人はいい人が多いです。
 
 しかし原爆ドームを残した人(たち)は慧眼だなあ、、あーだこーだ言う人々が絶対いたと思うけどね。
 
 次、テレビ朝日のネット宣伝に
「【池上解説】なぜ?景気良くなくても税収過去最高…「過去最高」で分かる今の日本」
 というのがあって、調べたら法人税の税収が、23年度は22年度より1兆円も上がってたよ。米代は2倍だっていうのに会社は儲かってやがんのさあ。しかし、内実はみなさまのお骨折りのおかげです。資本家に代わっておつかれさま、といっておきます。

 そう、コメ、いよいよ予備がなくなって、買いました。茨城産コシヒカリ、ってスーパーのだから2,3等品、5kg 3580円。1カ月前3780円だったから、まあ改善。しかし去年は新潟産コシヒカリ1680円で売ってたよ、安売りの白濁米だけど。
 まあわたしゃよっぽどでないとコメの味なんかわかんないから。
 
 「袴田さんの無罪確定 再審で検察が上訴権放棄―逮捕から58年、戦後5例目」(時事通信)
 「畝本直美検事総長は8日、談話を発表し、控訴しないことを表明。「到底承服できず、控訴して上級審の判断を仰ぐべき判決だ」と反論しつつ、」
 偉そうになんだこいつら。いつだってインチキしてきたやつらが一人前に怒りを表現するんじゃない。因果応報、自業自得。当該被告の有罪無罪は知らないが、てめえらが呼んだ結末だ。70年前狭山で何をした。ほんとにこの検察官連中は、自分の死の床で自分の人生を振り返れるのかねえ、、、、

 そう、今日は機嫌が悪い。まだメモがどんどんあるのはなんのストレスかねえ、、、もう書かないけど。

 本題です。次回作について、これは文章構成以前の内容構制。
 
 「経済学批判」は「経済学」を批判すればそれでよいというものではありません。過去50年前黒田寛一が気づいたように、経済学批判は今現在の労働者について、その現状と同時に未来への道標を築くものです。ところで、マルクスの「経済学」なるものにはそんな潜在力はありません。
 そこの欠陥は次の2つ。
 第1は、マルクスのエリート視点の経済学論議。そんなものは労働者とは「何一つ」関係がない、ということを批判しなければなりません。
 そんな学者にしかわからぬ世界は、日々生きる我々と関係があるはずもない。歴史的には関係があった? それは労働者を知るエンゲルスが、「これは資本家を攻撃している本だよ」と嘘をついて宣伝してくれたおかげでです。
 本件についてはその基本視点を今年5月以降、このブログでも書きました(「概念的把握」作業の問題点(その1)以下)。
 
 さて、ここからが本題である2つ目です。
 およそ人民の行為は歴史的なものです。ところで、歴史的現実において人民の行為を決めるものは、身体的諸条件に係る要素を除けば、賞賛と優越、すなわち、行為共同性のレベルなのです。
 ところでこれも誰もが気づくけれども畏れ多くて言えない問題で、マルクスの「経済学」なるものには歴史性が皆無です。こんなもんが人民の役に立つはずがない。
 このため並みいる左翼評論家は、経済学解説とは別に、何の根拠もない階級闘争論を付け加えていったものです。
 ところが残念ながら、人民が現状を分析する際には「階級」のレベルまで降りて行っても用をなさないのです。そんなもん、評論家をやめてサラリーマンA氏になってみたらいつでもわかる。
 
 じゃあどうしろ、と?
 現実の諸人民の行動は、彼の行為共同性によって決まる。これは旧来だと、便宜的に「階級意識」とよばれてきたものとかぶります。
 指摘した階級意識とは客観的な「階級」でも、階級が持つはずの傾向性たる「階級性」でもありません。結果的に現実に現れるため左翼論者が誤って指摘する、人間行為の潜在的規定性のことです。
 ただし、社会科学上現象するこの事象の本体は、ブルジョワジーなりプロレタリアートなりの規定にかかわらず生ずる規定性です。すなわち、行為共同性の別称です。
 人間行為者が、他者の行為を我がもののごとく考え共同的な行為の要素と成すには、種々の歴史的な、あるいは少々は自然的な、規定性を含んだ諸環境の中での将来が自己と一致している、と認知しうる集合性が必要なのです。この賞賛と優越が、身体的利害を超えた場合の人間の行為を規定する。すなわち、行為者視点から展開すれば、ここからの叙述が、科学としての歴史性、すでに述べた説明によれば「ある事象の時系列的変化」の規定性として、人間行為者に使われるのです。(2018.10.06)

 そしてもう1点。前は関心が一般記述であったため書き漏れていました(その成果は拙著『資本主義と支配システム』です)。
 歴史を引き継ぐもの、つまり、自分が生きていたわけでもない10年前の状況が自分に関知する要素、それがその時代、10年前に制度化された行為パターンで引き継がれる行為共同性です。
 歴史が問題になるところ、常に現在を越えた意味で行為者を規定するものが行為共同性なのです。
 こちらは外部から見る一般論では通り過ぎる、主体性の問題ですが。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« もう秋 | トップ | 今日はちょこっと »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賃金・価値・権力」カテゴリの最新記事