リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

命題を構成する定義と社会科学との関係(その2)

2019-01-12 11:17:07 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。勤務パーソンはもう仕事モードでしょうね。新春寒いですが、家の近くの蝋梅は咲き始めました。その隣の紅梅もちゃんとつぼみが付いてます。春なんですよ。
 と、言ったら、東京地方、雪が降ってきました。
 
 さて、前回飛び入り記事もあって気が飛んで、ブログ用のメモがほとんどない。今見直したネット赤旗の見出しもとくに問題がない。
 くだらないのにこんなのも。
 「紅白出場の「純烈」友井雄亮が謝罪 交際女性へのDV報道受けて「心から深く反省」」(文春オンライン)。これはどうでもいいのですが、独り言:(純烈? 知らん。グループの写真? ああ、知らんがこいつだな)。記事:「左から2番目が今回の主人公・友井雄亮」。独り言:(ほらあたった)。いい年になると人間なんて写真見ただけで分かる。
 
 次、「扶桑社が発行する「週刊SPA!」の昨年12月18日発売号で、性交渉をしやすい女子学生が通う大学として実名でランキングした記事をめぐり、掲載された全5大学が9日までに、ホームページ(HP)などで同社に抗議した。「女性の名誉と尊厳を著しく傷つけ、安全を脅かす」などとしている。」(朝日新聞)。そしたらもう相当大きな問題になって。
 昔は扶桑社のような赤雑誌が女性差別をするなんて常識だったけど、ね。(注:「赤雑誌」は日本語で、左翼雑誌でも赤文字系でもありません、低級な興味本位の雑誌のことです、が、もう誰も知らないか)こういう問題視が今の全ジャーナリズムが持つ「まともさ」なのか、扶桑社の類いのヨタ出版が赤雑誌を脱却してまともなジャーナリズムとみなされるようになったのか、どっちかしら。まあ扶桑社も謝ったってゆうからヨタも「マトモなジャーナリズム」のエリート意識を持ったということだね。ウヨク御用達だから一流雑誌か。
 
 まともなニュースが商業新聞で隠されているところ、B派OBブログから。まあどこでもまともな人間はいます。
 なんでも住友商事系のバナナ事業者「スミフル」(=住友フルーツ)というのがあって、フィリピンバナナの3割を仕切ってるんだって。そこで「偽装請負」による違法な雇用体制が長年継続してたから「労働者らはその問題を司法に訴え、2017年には最高裁で勝利し」たんだけど「スミフルの現地法人は最高裁の判決も無視して、 労働者らはいまだに非正規のままです。団体交渉にも応じていません。 労働者らはその不条理に怒り、ストライキの形で抗議をしました。すると突然ストライキに参加した組合員を狙って 何者かによる銃撃事件が複数起き、組合事務所・住宅が放火される事件も起きています。 そして、声を上げ続ける労働者らは事実上解雇されています。」
 なんだと。で、「アジア太平洋資料センター」とかの主催の報告会があるというのだけれど(ここは共産党を出たリベラルNPO)、そこで「本報告会は一部スウェーデン国際開発協力庁(SiDA)の助成を受けて開催いたします。」んだってさ。スウェーデン国家だって。日本は情けないね。100年経ってもエコノミックアニマル。
 (を検索してたら出てきた管理職ユニオンの設楽清嗣さんは幸嗣さんのお兄さん?)
 ま、いいんだけど、こういうニュースは日本の庶民のところには来ないよね、スウェーデンにはいくのに。今回のように意識のある方々の間で収束してしまう。なんでかねえ。こういうのは社会学専攻学徒の半分を擁するだろうマスメディア関係学で、庶民につながる道を切り開いたらいいと思うのですが。私のアタマはもう時間ないのでしないけど。下請けの力仕事なら手伝ってあげるよ。
 
 というわけで、特に問題もないので、本題はオタクの前回の続き。
 前回は人間のコトバを使用する論理学は、これを解しようとする行為者たる人間にとっては政治的イデオロギーであることをいいました。また言外に、「それなら」と人間の言葉を排して記号に当てはめたとしても、それは人間には無意味であることを匂わせましたが、これは言外ではありました。若きラッセルのような記号論理学のことです。日本語(や英語)を使うと余計な情報が伝わるので、まずは論理の形式を記号で伝えよう、とする。私もこれが本当の形式論理学だとは思いますが、しかし社会科学には無効だ、というわけです。人間の言葉を使わない人間間の情報伝達は、社会科学には無意味です。
 さて、その続きで、派生的に定義の自由さとその結果の社会科学的迷惑について。マルクス+アリストテレスと隈。
 以下は単純に馬鹿か利口かという問題に見えますが、そうでもない。
 
 さて、突然ですが、人の認識は同等でないものを同等とします。「自然界にリンゴが2個ある」なんてことはありません。「1個のリンゴAと他の1個のリンゴBが存在する」のです。しかし人間はこの2者の差を帳消しにし、しかも空間的に1センチであれ離れた別のものを重ね合わせて「同じリンゴが2個」と言い、かつ、思います。
 他方人間は、連続しているものも分断して2個ともします。空気は地球において1であるはずですが、でも「ここの空気は悪い」なんていいます。こういうケースはすべて、人間の行為の都合です。もちろんそれで多くの場合実用的ですが、しかしいつもではない。論理学を標榜するなら、この事情を形式化しなければ理論家には使えない。
 ま、そういうことで、この事情はいつも実用的ではないのです。
 問題は、その行為の都合により、本来は発見できるはずのものも一緒くたになって交合して一つにされてしまうことです。この場合、ボーっとしていると人間には発見できない。
 この合わさってしまった概念を解きほぐすのは、現実の人間の姿の凝視です。あるいは具体的には、自分の知らない状況に面している人々に関する言語情報への既存の概念の適用であり、そこに生じた、それがどんな微かなものであれ、齟齬の気づきです。それは自分で作った理論体系を脳内でいじっているだけの「理論家」には、決して気づけないものなのです。
 というわけで、例。
 人の中には、自分の右手の中のものが他人の右手の中のものと取り替えられると、これを「交換」と呼びたがる人がいます。そこには何の規定性もない。現象論です。論理学です。「1+1-1=1。両者に同じ算式が適用されるから両者は同等である」。ばかいっちゃいけない。あるいは馬鹿だからしょうがない。
 名前を言えば、マルクスが資本論「商品の等価形態」で前提として引用するアリストテレスです。『交換は同等性なしにはありえないが、同等性は較量可能性なしにはありえない』と(長谷部訳)。「そのとおりじゃないか」って? 誰がそれを「交換」て決めたんだよお。てめえで決めておいて「それしかありえない」だのと、だから馬鹿だというんだ。
 社会科学はそうではありません。なぜ自分と他人とで取り替えられる現象が生ずるのか、当事者たちはこれを回避することができないのか。それが必然であるとすれば「その規定因子は何か」、ここまで進んでようやく社会科学が始まるのです。(売買が交換ではないことは先に話しました、紋切り型ですが。2018.11.3.付け)
 
 と、これは別に2人の批判ではありません。わたしゃ権威のおかげで食っていける学者連中とは違います。そんな人生の無駄はしない(もっとも、2人のストレス解消の悪口ではあります。ストレス解消は大事)。そうではなくて、自分への諌め。謙虚だねえ。先日、別の概念を使って書き物をしていたところ、多少概念をまとめすぎてたケースを発見。ま、理論というのはそういうものですので、皆様方もあまり驕(おご)られぬよう。お前とは違う? ま、そういうことで。
 
 こんな話、役に立たない? そりゃ新聞を読むぶんにはいらないけどねえ。
 しかしさあ、貴兄も新聞の「我が国の利益」や「日産の利益」や老害評論家が言う「われわれ」なんて言葉は、「アベの利益」であり「ゴーンの利益」であり「70過ぎの年寄り」であると読み替えてるでしょ? ボーっとしてると言葉通りに「そうか」なんて思っちゃう。庶民もいつも気をつけなきゃいけない事情ではありまする。
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