リベルテールの社会学

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「古代資本主義」と近代資本主義(その2)

2018-12-26 15:32:57 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。本日は前回の続き。本来の「資本主義」と「古代資本主義」なるものを分かつ決定的差異の第2、「支配権力にとっての産業資本の威力」。これじゃ文学的ですか。ともかく続きなので全面的にそればっかです。

 「古代資本主義を支える商人資本には社会システムを変革する能力はない。彼らに出来るのは商業差益による自国での自己の剰余物資の豊富化だけだ。しかし、近代資本主義の本体である産業資本は、世界を変革する」ということです。まあ世界史でご存知のとおりなのでこれで終わってもいいのですが、「そんなものは偶然の出来事だ」とかいわれてもいやなので展開します。
  
 さて、「そもそも」論からします。
 まず、支配は地域的には点です。大きな点が近くの点を破り配下にする。そうして点と点のネットワークができる。しかし人民はその間にこぼれているに過ぎません。大和朝廷が日立の国を攻めて従属させた、といっても、大和朝廷は常陸国の人民の一人も知りません。では常陸の「国主」職なら人民のことを知っているか、というと、そんなはずもない。(現代の)石岡市のボスは兵隊を出してくれる近隣の村々の村長ならよく知っているでしょうが、国境の(現代の)大熊町内の村長を知っているかどうかも怪しいものです。ましてや貢納を取り立てるあてもない弱小部落のことなど、地図もないのに支配者が知れるはずもない。「常陸国府」はあっても「常陸国」など日本古代には実はないのです。しかし、それで充分なのです。各地区の「点」が周りを支配し、その「点」のネットワークが存在すれば、大和朝廷は日本のボスです。この、支配は武力だけでは「点」にしか作用しない、というのは社会への重要な認識なのでご記憶のほどを。

 というわけで、話を全歴史過程に戻します。
 支配者は「国」など「点」があればよい。同様に商人資本も「点」さえあれば良い。「市場」ですね。築地があれば、全国の網元にとって、川崎市内の魚屋の配置などどうでもよい。築地で全部売り払えればそれでOK。
 点でよいのが商人資本。彼らは差額利益を構成するための拠点があればよい。
 つまり、資本主義以前支配者体制と商人資本は、点を確保しさえすればよい、という意味で並行して存続しているのです。
  
 しかし、資本主義は、産業資本は、それではならない。面の確保が必要なのです。
 第1に、その面から労働力を醸出させ、第2に、その労働力から生ずる価値を実現してくれる商品を購入する人々を、面で賄(まかな)わなければならないのです。
 同様に、産業資本を飼っている国家支配者も、後付けでこの要因が入ると面が支配できなければ結局自分の地位が保てないのだから困る。こうして両者は、自己の生理的存在の存続のために搾取を実行する資本を力を合わせて確保せざるをえない。労働力と資源物資と、土地です。
 もう一度いえば商人資本はそんなものは興味がない。歴史的一時の現実には産業資本とダブる商人資本も一部には存在するでしょうが、実効性はない。そのときの支配者には不要だからです。
 こうして産業資本の自生国ではそれ自体で統一国家が生ずる。統一国家は「国民」レベルでの権力的実力と身分あるいは差別の崩壊のための重要な必要条件です。
 
 さて面的支配の拡充は、それにはとどまらない。この「面」は資本主義と国家権力によって引き伸ばすことができる。これが資本主義的帝国主義です。
 彼らは「外国」を自らのものにし、そこでの労働力と資源物資と土地を入手する。世界分割後の帝国主義は、このうち土地を入手しそこなっているように見えますが、常に拡大の期を狙っているのは、世界各地の入植・併合の事例の示すとおりです。 
 この意義は、
 第1に、当該侵略国家内の階級関係の変成ないし再構築です。すなわち労働者の労働貴族化です。国内産業において賃金を最低線まで下げられた一部労働者や、最低限より少し上で経済的キツさを語るべき次の層の一部労働者も、国内賃金は低賃金でも、(上部階層は買いはしないが)当該国内において低賃金生産輸入物資を購入することが出来ます。当該物資は質は悪くとも、「気の持ちよう」の範囲内には収まる。かくて最低層労働者だからといってわざわざこの世を変えるまでの動機は生じない。 
 第2に、それまでの共同体的生産関係を分裂させ、人民を巻き込んで、全ての地域を相互依存化する。この第2の点は、人間の自由の進展を加速化します。
 地域の構成員の相互扶助のためには、地域内の行為共同性が不可欠です。そのための前提は、地域内行為者の経済的(土台的)相互依存です、すなわち、さしあたり個人の自由について不満が残るにせよ、資本主義的統一国家か、あるいは、既に経済的相互依存のある地域としての国家化あるいはアソシエーション化の2択です。
 植民地後進国内の面の構成は、支配権力から行政組織の形成が行われます。この過程で、それまでの共同体支配の破壊が行われ、残った支配モザイクの破片によって、共同体組織の再編が行われる。それまでの「自治」組織の再構成です。この過程は旧来支配力の減少ですから、その結果被支配人民の自由が増えるわけですが、それ以上に産業資本の侵略過程が共同体支配に壊滅的打撃を与える。都市との交流、すなわち被支配人民を拘束する共同体の生理的幽閉からの解放です。
 
 他方、人民による新しい消費物資志向は、もちろん物質信仰でそれまでの共同体文化をもろくするわけですが、それに伴って、人々に「それらの交易に従事する職」が認知されます。この職につけば、同時に貨幣経済の担い手として消費物資の入手も容易になる。どうせ余計者として遇される成人男性にとって、なぜ、共同体支配の下で鬱屈している必要があるでしょうか。かくて都市は膨張し、人民の自由も増大します。
 都市は点としてしか掌握されませんが、個々に終結する人民の心的地域は「面」です。さらにその後、現実的にそれ以外の周辺村落の人民の、都市を介した具体的なネットワークが成立する。
  
 これらの植民国家と産業資本の侵略により、植民地には将来の国民国家の条件が与えられる。植民地支配の組織が堅く組んであればあるだけ、独立後の統一性を得ることが出来る。
 
 まるで褒めているようですが、研究学徒が褒めようが貶(けな)そうが、歴史過程は存在する。そしてもちろん、歴史過程で本当に重要なものは資本主義の進展度でも自由の進展度でもないのです。そんなものは豚にでも食わせればいい。本当に重要なものは、そこで生きた人間が何を意図し具体的な行為を為し、その個人の行為がいかに人間の歴史上の自由を進め、あるいは阻んだか(はばんだ)か、ということです。歴史はその客観的把握と「個人の意図と歴史の連関」とのどちらを欠いても不毛です。
 だから、こんな片方だけの記述自体は不毛なんだけどね。でもこの客観過程の把握なしに人間行為の歴史的意味がつかめる、と思うことも間違いなのですよ。
 
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