リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

後進国の緩衝的役割

2019-06-21 13:54:19 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。みなさまお元気? おや今日は金曜日? じつはもう暑さが迫っているので(=勉強がさらにできなくなるので)、この土・日の用を無くして空き日にして、次回作の制作過程を1ランク上げないと、とちょっと危機感を覚えたところ。
 
 このごろは梅雨の中休みだそうで、休むほど雲は働いたのかとも思いますが、関東山沿いではそこそこ降ってダム貯水量は不満なさそうです。香川が足りなそうですね。まあ雨が降らなければ暮らすには便利で、お勤めの方の土・日の洗濯も1日かければ乾きそうだし。今どきって、晴れさえすれば、東北地方や1千メートル級地域は景色が良いはずだし。ただ、毎日のことですが雷にご注意。
   
 さて、ニュース。
 大戸屋、値上げで危機だって。昼定食900円越えたら山手線内ならよくても郊外じゃ出さ(せ)ねえよ。なんか、勘違いだねえ。人気商売は一人親方じゃだめだよ。
 
 ついで、中嶋よしふみとかいうフィナンシャルプラナーが小池書記長を罵倒してました。「麻生は70歳以上だから年金を貰っている」といったのが間違いとか。というよりそもそも国会議員は年金制度を何も分かっていない、とまでいっている。本人のツイッターに残っているようです。しかし残念ながら、本人も分かっていないようです。支給停止要件に歳費が加わったのは平成27年からで、平成27年現在75歳の麻生は厚生年金を貰っていたのは間違いない。しかも中嶋氏が思っているような支給停止には「収入は何でも」入るわけではないのです。歳費とボーナスです。(被保険者であれば総報酬月額相当額。当該制度以外の収入、たとえば家賃収入がいくらあろうが問題はない)。その他にも自己申請制がどうのとかといっているが悪口にもならない。そんな話は前提過ぎて「注釈」というものだ。フィナンシャルプラナーとかって付き合いはありませんが、こんな知識でいいのね、と初めて知りました。
 この程度の知識で、麻生ならいざ知らず、専門家の小池を罵倒するなど、身の程知らずもいいところ。もっとも、制度改正を失念した小池氏もサルが木から落ちたわけで、一生勉強だね。「年金制度(も税制も社会保障制度も)をいじってはだめ。人民が分からない制度は支配者のごまかし」という私の主張が分かったことでしょう。

 というわけで普通の方にはまた来週。
 今日はとくに相手を選ぶ本題です。自分でも面白くないし、今日も長い。一度長くすると、テーマが派生しちゃうんでまずいですね。

 前回の『まだ世界には矛盾のしわ寄せができる後進国が控えているので「気をつければ済む」』という話。わかんないよね。で、面白くなくても追加しときます。
 もちろんこんなことは社会学ではありませんが、なにせ世間に労働価値論の評論がありませんので、マルキストのために枯れ木も山で書いといてあげようかというのもあります。

 なぜ国家が複数あると矛盾がしわ寄せできるか。
 第1に、もちろん過剰生産物資のハケ口です。(これにより企業は生産を続けられる)
 第2に、その分の自国生産労働者の賃金受領による国内大衆の購買力の保全です。(これにより大衆は自分は買わなくとも別の「もっと良いもの」を買える)
 第3に、もちろん、過剰な資本は他国へ振り向けられ、貸し付けられ、自国で爆発することを妨げる、というのもあります。(これにより企業は儲け仕事を続けられる)
 第4に、平均的な労働時間に縛られることがなくなります。生産工程の一部に他国が関われば、その工程部分の賃金に当たる費用は、ブラックボックスで結果だけの問題ですから。(これにより企業は儲け、国内労働者の賃金は下がらない)
 第5に、他国の傀儡企業は、その規模が小さいうちは、それをあえて存続させる必要はない。下請け、孫請けの尻尾きりと同じですね。(これにより国内企業は安全である)
 第6に、儲けだけの回収をするための企業では(資本投下の利益だけでよければ)、その儲けをあえて生産の高度化に振り向ける必要はない場合も多い。国内企業と同一の競争土俵にあるわけではないからです。イコール、カネは役員の私有財産化してもよい、ということです。(これにより役員報酬は取り放題である) 
 第7に、儲けは、実際には金融資産として、金融資産の処理をする業態に撒布されます。金融会社等の社員等の生活賃金となるわけです。(銀行、証券、保険、不動産へめぐりめぐっていき、当該関連労働者も潤う。ここが潤うと、労働市場の市場性により、本来の製造業賃金の平均的な労働時間単価に潤いの影響を与える。ふつうはその結果製造業商品の価格が上がるわけだが、後進国が控えていると、この買戻しメカニズムによる生産価格上昇が機能する必要が減少する。値段を上げれば後進国商品に流れるだけであり、そもそも第3次産業人口が多ければ、その他の要因のほうが大きい)。 
 第8に、その他のサービス産業は、これへの購買投入が生活の最低線として制度化され、労働者賃金の最低限を構成することにより、自国の産業の一角を確保することになります。(原理的には賃金は人民が総体として買う被生産物資の生産価格と同額である。) 
 第9に、こうして先進国製造業は高度技術産業以外はつぶれ、労働者の自由時間は、食物娯楽とIT娯楽、さらに物資の入手それ自体に伴う娯楽に限られていく。「面白ければいい」「すぐ手に入んなきゃいやだ」。こうして第3次産業へのみ向かう産業の進展は、運輸流通業への労働力の移転を生じ、さらにこの労働者構成を高める。
 
 というわけで先週の近経諸君との「賭け」問題が出てきます。買い戻し賃金で有効需要を喚起できますか? いいやできはしない。今の有効需要喚起は、帝国主義体制において、余った金をどう賃金に押し戻せるか、という虚しい試みです。もちろん基本、売れればいい、買えればいい、の話だから、買えてるうちは何とかなる、これが現在。もっとも買える先が安いユニクロ、コンビニスイーツでは心もとないけれど、まあそういうことです。ではそこから先に有効需要が、というよりは「購買のカネ」が作れるか。近経の方たちは資本家の払う先を当てにしてるんでしょうが、このとおり、資本家のカネの行く先はない。近経の方が寄付もしてくれないので圧倒的多数の人民は「相変わらず」、あるいは今まで運の良かった方は「思いもよらず」、「需要」なるものを実現するカネなどない。この賭けは私の勝ちです。
 
 さて、この先進国事情に対して、裏の後進国の事情を見てみましょう。先進国がおかげさまで「儲けて」いる一方、後進国はどうなっているか。 
 ここで本稿の意図は理屈の整序ですので、「後進国」とは、武力的強制や収奪を前提とした植民地のことではありません。経済学者のほとんど全部が口をそろえて言う「交換」により取引が成立していることになっている諸「後進国」のことです。
 
1 「経済的」側面
 人民の労働の賃金価格は、労働者人民が購入せざるを得ない必需・準必需品的消費物の総生産価値と同じです。したがって、後進国の労働者賃金は低く抑えることができ、かつ、企業競争の中でそこに決まらざるを得ません。後進国は先進国を儲けさせて、自分たちは貧困に喘いでいる、という評価も出ます。しかし、一方、「それは公平な貿易の結果だ」といえないことでもありません。「商品取引は適法な交換に過ぎない」というわけです。
 
2 支配・被支配の側面 
 しかし、それに対しては世界の前提があります。この「労働者人民」は、当該国民国家の「国民」である、という前提であり、その事実に対する先進国人民のシステム的無視が含まれている、ということです。
 「システム的無視」とは何か。マルキストは知らないというでしょうが、商品取引とはただの交換ではなく「商品」取引を貫徹する「支配と被支配」の事実だ、ということへのほっかむりです。
 人民の味方の顔をしたマルキストが知らない事実はこうです。
 1国内では、貧困な人民一般、だれもが生活に最低の消費物資分の賃金しかもらえない人民一般に対して、自由に労働者の剰余労働分を散財できる資本家と支配者がいる。
 と同様に、そんな一国民国家内の人民一般、平等な人民一般に対して、「自由に」人民の労働力を浪費する輩が、先進国の資本家であり支配者なのであり、さらに同時に、先進国人民なのである。これです。
 理屈はそうでしょ? 儲けを後進国からの儲けを自分らのために使っちゃうんだから。儲けとは、後進国賃金労働者の労働の、返してやらない結果です。
 そもそも資本主義社会とは経済システムのことではないのです。政治支配者が資本主義システムを支配に組み込んだ社会のことなのです。したがって、たとえ人民一般にとっての主要な経済システムが自給自足経済であろうと、後進国は資本主義社会なのです。
 
3 倫理的側面
 ただし、「それはまずい。先進国は後進国を搾取している」と言って、マルキストがいくら資本家を非難したところで、って今じゃ誰も非難などしませんが、それは論拠のない感傷に過ぎません。そんな論理は元からない、彼らにとって搾取は資本家だけがするものです。
 さらにまた、我々のような論拠を持ったところで、行為の動機は資本家と後進国支配者と後進国人民に止まることを、誤解がないように注意しておかなければなりません。我々先進国人民が責任を持つことではないのです。一部口先だけの「左翼」評論家は「搾取のお陰をこうむる我々の責任だ」といいたがるものですが、そんなやつがちょっとでも責任を負った姿など見たことがありません。せいざい自分のカネになる評論書きと、アリバイ的なデモ参加のみです。そんなアリバイデモで何が変わるでしょうか、何も変わりません。それより、「俺は責任を取るから後進国人民の被搾取生産物は消費しない」といって地べたに座り込んだらどうでしょうか。お望みどおりすぐ死ぬでしょう。
 われわれ人民は、「資本主義は優秀だから腐朽などしない」などとブルジョワのプロパガンダの真似をして評論を売るのでない限り、自己の場所において闘えばよいし、それしかできないのです。昔、黒寛がよく言ったとおりです。
 だいたい、そんな客観主義の「倫理」では、悪いのはそうした労働者になる後進国人民になってしまいます。村人が先進国商品を拒否し、彼らが共同体拘束を嫌がらずおとなしく村共同体に止まれば、困るのは資本家と後進国支配者だけで、他には誰も困りはしないのだから。いまどきのブルジョワ諸君なら、プチブル歴史家と一緒に、「彼らもメリットを享受したのだ」と合唱する、あるいは既にしているでしょう。まあそれは、歴史を要望どおりに意味づける歴史家の特権だともいえます。
 しかし、行為理論に基づく主体的な社会科学はそうではない。世界は行為者の自己の自由を求める行為の企てにより、進むべくして進む。そんなものを客観的に価値づける根拠などはありません。世界は客観的にではなく、主体的に、価値づけられるのです。後進国人民は、先進国の最下層の人民と同様に生きている。プチブル以上のカネ的自由を持つ人民個人には、どちらもほおっておけない存在です。しかして、この世界は変わらなければなりません。価値とはそういう主体的立場しか持たぬものであり、倫理とは、自己のその価値の下に行為することなのです。「そんなことに何の意味がある?」? そんなことは他人に聞いてもしょうがない。それが「自己の持つ価値」ということ、それ自体なのです。

 こうして日本はもう最終完成型であり、日本に残るのは、先進国と後進国の労働力価値の平準化に伴う不可視の労働力価値の減であり、それをまともに食らう人民と、あくまで労働力価値を懐に入れたい資本家層との貧富の2極化しかないのです。
 
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