リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「古代資本主義」と近代資本主義(その1)

2018-12-22 10:54:15 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。東京地方、ここ2、3日青空でよかったです。冬はせめて青い空にお日様が照ってて欲しいよね。東京育ちには雪国は大変。

 さて、本日はニュースなし。未発言はなんにもないし。
 そういえば、昔鳩山由紀夫が偉そうに「普天間は、最低でも県外」とかいったのはなんなんだろうと思ってたけれど、宮崎の自衛隊新田原基地とかちょっと分けてあげようと思ったんじゃないのかね、広いし。鳩山が自民党の真似してふんぞりかえって明言しないからつぶれちまったんだよね。どうせ実質野党なんだから、バーンといえばいいのに。共産党ならそうするな。どうせ実現しないし。で、普天間には航空自衛隊が行けばいいのさ。って言った瞬間に左右から轟々たる非難。売国奴のウヨクまで反対しそうじゃないか。結局、根性のない奴は負ける。
 ま、ただの感想。
 そういえば根性話でこんなのがあり。「ISの攻撃で論文未完は許せない 教授がイラクに傭兵派遣し学生救出」(テレグラフ)。文字通りの話。ハロッタ・トゥルネル(シャーロット・ターナーさんだね)教授が傭兵を雇って博士課程の教え子を救い出した、という。いい根性だね。世の主査教授諸君に伝えたいよ。わたしゃ関係ないけど。
 
 で、世間話。
 ネット遊びしてて、なんだかの施設の企画案でふと目に映った名称「プレック研究所」。あれ、プレックじゃん。ここは学生のときの2番目の通勤アルバイト先。1番目の通勤バイトが金融会社でなんか雰囲気がギスギスしてたのに比べて、とても優雅に仕事してて、こういうとこいいなあ、と。自治体広報やガイドブックなんか切り張りして、なんかパンフ作りのバイトでした。今wiki見たらその頃は出来たばっかでみんなが若かったみたいね。ただ問題は六本木の近くで昼ごはんをみんなで喫茶店で食べるのでバイト代が減って困ったこと。昔の食事は高かったから。
 いやそれだけ。懐かしかったので。

 風呂場の白熱電球が切れて、前買っておいた新しい電球をいれたけど、つかない。あれ切れてるのか、と台所で使ったら点く。おやおやソケットが壊れたか、面倒だな、とあれこれ入れ替えてみると、点く電球がある。え~~、、
 というわけで、本日のためになるブログ、YAZAWAの白熱電球はソケットと相性があるのでご注意。ASAHIの電球がお奨め。
 うちはLEDにする? 風呂場なんかの照明は覆いがついてるのでLEDは気をつけてね。密閉型のでないと危ないそうだよ。

 さて、本日は、前回言った田川建三の「古代だって資本主義はある。それがわかんない奴は馬鹿」認識の、どっちが馬鹿だ、論。ま、べつに本気じゃないす。彼はもともとそういう人間だから本気では相手しません。それと、以下はマルクスの説ではないので誤解されぬよう。誰の説だって、隈栄二郎先生。わたしです。アダム・スミス直系の道徳的労働価値説。スミスさんより道徳的だけどね。
  
1「商業」の一般規定
 さて、まず「商業」とは何でしょうか。
 先月のこのブログでいったように(「売買と交換と贈与(その1)」)、売買と交換は違います。さらに、売買行為と商業は違うのです。「なんで違うんだよう、売り買いが商業じゃねえか」といわれても困ります。同じなら売り買いといえばいいのであって、今の問題は「商業」です。売り買いは、歴史上、必要物資を手に入れる方策のひとつ、と言う以上のものではありません。商業はそれによって生きる商人のなすわざであり、その商人の存在規定こそが本質なのです。
 さて、まず一般論から端的にいいましょう。商業とは収奪階層と被収奪階層の間に起こる労働力の争奪交渉です。
 労働力の争奪とはすごいでしょう。カネがあれば米が買える、着物が買える。それが争奪? そうです。そもそもカネがあればものが入手できるなんてそんなことを誰が決めたのでしょうか。神様? いえ、余剰労働力の収奪者です。

2 資本主義に見える資本主義以前の商業発展社会の規定因子
 余剰労働力は、支配社会においてはこの大部は、支配権力に徴税され、あるいは徴発されます。この労働力は支配階級のものとして、交換過程で使用される、つまり支配階級は自分の好きなものを入手するときにこの労働力(ないし労働力の成果)を使用するわけです。たとえば家が欲しけりゃ建築労働者に米を渡し、舶来の衣装が欲しければ海外の絹の生産現場に米を渡す。この使用時に、交換労働手数料として交換労働者=商人に実入りが入る。この実入りは元を正せば被支配人民の労働であり、この交換過程が商業です。
 この交換の時間経過上、支配者の剰余物資が多量である場合には、これが高じて支配者の事務担当者や商人それ自身も珍奇物品で身辺を飾って支配者の真似をする。これが資本主義以前の商業です。
 ここでの確認事項は、全ての商品的富の根本は、(農産物等という農民等による)労働であり、その存在の歴史的必須要件は、支配権力だ、ということです。

3 これに対して資本主義社会での商品経済とはなにか
 さて、農業生産力の増大は、これによってぜいたく品の生産に従事する人間の食い扶持の増大=従事人員の増を引き起こします。経済史の本によると、穀物・酪農品・羊毛原料・羊毛製品、その他ビロード・ガラス・陶器・木材・ニシンその他、です。ところが時代の変遷は、農民に余剰購買力までつけてしまいます。それはそれで使ってしまうのですから農民の貧しさはさほど変わりません=徴税も思うように進まないのですが、ともかく農民の米は支配者を通じずに商人の手に渡りますので、ぜいたく品労働者は商人が自前で手に入れた剰余労働から養われるようになります。かたや支配者は儲けた商人から徴税できればよいのですが、儲けの高に合わせた徴税は技術的に無理だ、でもぜいたく品生産物は欲しい、かくて支配者は常に借金漬けとなる。というのが歴史過程です。この結果、商人のところに剰余労働力が溜まる。
 ここが転換点です。
 初期商人は、支配者から授かった私的所有権を武器にして、資本家として、必需品の生産を行った。これが資本家の存在的歴史の当初です。資本家は、珍奇なものを集めて支配者からカネを受け取る代わりに、自前でカネを作る算段をしたのです。必需品を手軽に生産して、これを全人民に売ることにより支配者の代わりに労働者から金を受け取る。もっとも受け取るのではなく、搾取ないし収奪するわけですが。
 と、これが原則。論理派生的に、いままでのぜいたく品が必需品になっても同じです。小麦や毛製品は、先進地域では遠からず必需品になりました。あるいは後進国の鉄道導入については、鉄が必需品です。ポイントは、必需品はそれだけで剰余価値生産の資格を持つ、というところです。山のように生産されたガラスのコップは、その代わりに得る労働成果がなければ埋立地に直行するしかないところ、代わりに綿のシャツが必需品的に存在していれば、カネの介在により、不等価交換できる、つまり資本家の利潤となるわけです。
 実は資本主義とは、支配権力者が、商業的枠組みのまま、労働者の処分権を商人に与えただけの姿なのです。

 商業的枠組み? 聞いたことがない? こんな規定が意味を持つのはなぜか。 資本主義においては労働の収奪は、剰余価値の収奪ではなく、利潤の獲得として現象します。これが直接の収奪方式と違う理由は、当然に、その方式、すなわちいったん意義のない労働をさせて、その生産物をカネに変えるという媒介方式の故です。
 ここで行為者である人間が持ちうる意義は、誰にとってもありません。労働は虚しく、生産計画は賭けです。売れなければそんなものはクズ同然、これは商品化というよりも「商業化」の必然というものです。
 そもそも「賃金」は生産過程では完結していないのです。商品が売れて初めて賃金は実体化する。それが労働価値なのです。労働価値は商品が売れない限り、空手形となる。労働が実現すればその所有者であるプチ支配者はそれを享受すればいい、しかし、より安く売らない限り、社会に飽和した必需品の労働価値は実現しないのです。そこに、天才エンゲルスが当然だが強調した、資本主義の動因の主要因としての「競争」が成立することになるのです。「競争」は決して本質の派生形態ではありません。それこそが資本主義という労働の収奪機構の原動力なのです。この1国内的資本主義の原動力の根幹が必然化すること、それが本来の「資本主義」と「古代資本主義」なるものを分かつ第1の決定的差異なのです。

 ポイントの第1はこう。ポイントにしては長いけれどしょうがない。
 さて、第2は、って、長すぎだよね。次も初聞きな話なので混乱させそうで、また来週。

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