リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

本年のオカルト他1件(人間に向かっての祈り)

2018-01-06 15:57:31 | オカルト(途中から)
 こんにちは。お正月休みはいかが? 今年は11連休の会社もあるんだって、すごいねえ。そんなにどうすんだろ、もう会社に戻れないんじゃ。私は6連休くらいでいいや。それ以上休んだことないし。今かんけいないけど。
 
 初詣でとか行きました? 私は近くの神社系へ。最近は知ったかぶりのマニュアル世代が多くて、賽銭箱の隣に手の叩き方とか書いてあって不愉快。おめえは神様か(ただの兼業会社員だろう)、って気がするのは中高年だけか。教えてあげよう。お祈りっていうのは心でするもんだよ。
 ところで正月なので、例によってオカルト。
 ふと思えば、苦しみも苦しみからの脱却の祈りも、みんな人間たちがこさえた仕業ですよね。もちろん、戦争やその類の苦しみも、飢饉の苦しみも同様。神様も仏様も誰も戦争なんてしろとは言わない。人間が勝手にしている。飢饉ったって、そりゃ自然の結果じゃあない。人間のこさえたものだ。ウソ? じゃあなんで飢饉で死なないやつがザラにいるんだ。100年前、松方デフレで飢え死にした人をよそ目に見て、今だってわれわれ子孫は生きているんだから。
 あるいは、なんで祈る? 自分の親や、あるいは時には上の上の支配者の人間が助けてくれた経験があるからです。親も人間、支配者も人間。みんな人間の世界をぐるぐる回っているだけ。
 神様が人間並みであれば、「知らねえよ、そんなもん」と発言して当然です。「なにやってんの、手を合わせて。おりゃ領主でもアベでもないよ。お願いする相手を間違えてるよ。かわいそうなやつは究極的に助けてやるんだからだいじょぶだよ。苦しい? そんなこと、お前らで何とかしろよ。お前らの世界だぞ」
 私など心が狭いので、このくらいの応対とかしか思い浮かびませんね。
 神様に直談判したら、「俺ら、お前ら人間のおかげで、豚や牛や鶏からの陳情がひっきりなしだよ。子供が生まれるはしからいなくなっちまう、あれは人間に殺されたんでしょうか? って。お前らのことなんか知らねえよ。頭良いんだから自分たちでなんとかしろよ。じゃあね。バイバイ」とかいわれて当然。そう思いませんか、宗教家の方々。
 だからなんだって、って、現世利益のお願いは間違いだって。宗教自体はいいよ、信じようが信じまいがどっちだって。でも宗教家も現世のことは自分たちでなんとかするしかない。神様はそういってますよ、とわたしゃ思うね。自分たちのことは自分たちのこと。
 それとは別に、お祈りは心でするんだよ。2度手を叩いて頭を2度下げるだあ? 幼稚園児かね。お祈りは自分の存在について、他者の存在について、感謝したり、お任せしたりするんだよ。それは神の領域だからね。ほら、おいら、すごいだろ? プロテスタント以上。本質的だね。だってそれしかないじゃん。
 というわけで、分かったら宗教家、キミ。吾が隊列に加わって呉れ給え。

 でさ、これだけではいかにもテーマが特殊。わたしは基本ふつうの人間なので、つけたり。
 次回論究の世界資本主義(いつも題が変化してるよね。テーマがでかいのさ)。で共産主義社会論をするので(ほんとでかくて)、疎外論を(図書館が正月休みで)ネットで見たら、神奈川大学旧教授の沢田幸治氏が『類的存在と人間的解放の「完成」』ていって、類的存在=社会的存在論の論陣を張っていました。類的存在論っていうのは文章上は、唯物論的な認識=存在理論 にすぎないんだけれども、昔はよく「人間の望ましい共生社会的あり方」って意味で使ってたものです。で、沢田先生は、「実際そういう理解が正しい」というわけ。ま、マルクスがどう言おうといいんだけど、そしたら、神奈川大学の後輩教授のはずの山口拓美という人が、これを全面否定してるのがおかしかった。沢田先生が福島大学から引っこ抜いてきた人っぽいのにねえ。
 別な話、ネット情報の見てお得度は、神奈川、専修、立命館、福島の各大学が四天王だね。
 元に戻って、人間の共生社会的本質というのは、実はすでに隈理論が明らかにしております。共生のないアナキズムなんて自家撞着(じかどうちゃく)だかんね。
 「人は自分のことしか考えない」なんて、中学生までだとよくいうじゃん。
 ほんと子供だよね。
 実は「人は自分のことなんか考えない」。ご飯食べさせてもらっている子供にはわかんないんだよね。
 人は他人のことしか考えない。もちろん生きている人間は食べ物が優先だけれど、さて生きていけると思ったときには考えるのは他人だけなのです。自分のことなんか考える必要はない。もう生きてるんだから、「生きてるけどじゃあ何を行動しようか」、っていったら人間は他人のことを考えるしかない、これが人類の逃れようもない存在形式です。
 逃れようもないことを、存在形式として「取り返す」んだみたいな論陣を張っちゃあいかん。といって、その本質的形式を「そんなものは疎外とは関係ない」、と論じてもいかん。この形式は本質なんだからね。
 疎外の論議が存在するというのであれば、それはこの形式の内実にある。ま、理屈だよね。
 なお、そっから先の展開はあっちこっちで書きました、わかりにくいけどね。
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