リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

短歌とはいえ文学もある

2017-12-02 16:05:27 | その他
 こんにちは。師走ですね。12月、暮です。どういっても一緒。なんとか1年が終わりそうで、ほっとしませんか?
 昨晩は、勤めてたときの人たちと8ヶ月ぶりに会って忘年会。8ヶ月の合間なんてなんてこともありませんが、人の人生はそれなりに色々あるんですよね、当たり前ですが。飲み会は好きじゃないけど、人とは1年に1回は会いたいね。飲まない会があるとすれば、そりゃ息が詰まっていやですけど。(なに、要するに飲み会が好きなんだろう、って、そこが酒好き的に微妙なところで)
 
 さて、最近はニュースが作れなくてテレビも困ってるようですね。意味不明の相撲話ばかり。相撲っていつからそんなにメジャーになったんだ? まあ相撲の悪口じゃなくて、朝も夜もその類いのマイナーな題材ばかり。あちら(テレビ)は生活がかかっているので大変です。
 
 きょうはなんとか他人の悪口は避けようと、いうことで、努力。
 先週の朝日新聞、雲嶋聆という短歌作者に、短歌は「純粋読者のいない斜陽文芸」だ、といわれて怒って投評した大辻隆弘という短歌作者の話。
 少し説明すると雲嶋という人がいうには、今の短歌は短歌作者がお互いに見てるだけでほんとの読者はいない、って、その通りの話。
 そしたら大辻という人は、”歌集を見るだけの純粋読者はいらない。歌は実作者同士で楽しむものだ”とのこと、すごい、ケツまくっちまって。作者がそんな根性だから短歌なんか第二芸術なのにね。
 こういうのはいきつくところ技術論。文学は技術などでどうにもならんということが同好員会には分からない。まあ、いいんだけどね。俳句だってそうだし。というか、俳句はそこに意義がある詩形だけれども、短歌も俳句になりたいようだ。でも名前は変えて欲しいね。短歌はやめて老人歌とか道楽歌とか。図書分類も「文学」の911はやめて、790(諸芸. 娯楽)に分類を作ってもらうのがよい。もっとも文学でもない現代短歌は図書館にはおいてないけどね。だって、誰も読まないんだもんね。
 というわけで、もろ悪口。しょうがないね、ほんとのことを言ってるだけだし。
 わたしは、短歌の味方なのですよ。文学たる短歌のね。
 私だって文学なら読むことは読むのさ。図書館にある(短歌コーナーの)河野裕子や永田和宏や寺山修司や、ちょっと落ちるけど道浦母都子とか。文学だからね。文学は技術ではないんだ。
 たとえば「サラダ記念日」。そんなもんより技術が確かなものになった今の俵万智のほうが、大辻先生にはよっぽど満足だ、という理屈だよね。
 普通の人はそんな馬鹿な話があるか、と思う。そういう普通の感性がないところに住むのが同好員というわけだ。左翼に対する過激派セクトみたいなものだ。戦争を内乱へ。いくら冗談だとは言え、ふつうはそんな人間たちとは付き合いたくないわな。え? 冗談じゃない?
 ともかくも、どんなに稚拙だろうが、時代の感性を捉えた「サラダ記念日」は、柔軟な感性の持ち主には、普遍的に立派な日本文学なのだ。その時代にその感性とともに登場した俵万智の勝利とはいえる、が、それ自体は才能ではないのだからいつまでも続くわけではない、ともいえる。若き道浦にしても同様。しょうがないね。
 ただ、両名の名は残らないかもしれないが、「サラダ記念日」(俵)と「無援の抒情」(道浦)は、文学史上に残る。それは短歌作者の好みの問題ではないのだ。
 
 まあ、まずは、技術論とかいってる人と文学とは、住む世界が違う。お互いやり過ごすしかなかろうに。
 わたしはわたしの琴線にふれる歌を、のみ、認めます。
 
 なお、論者の見本をあげておきましょうか。
 
   雲嶋
   
     あきかぜに秋桜ゆれて思ひ出は真夏の雨のにほひを醸しぬ
     一面にひろごる緑のまぶしくてふつと目をとづ 八月の景

   大辻
   
     畦道を歩める猫の横腹が伸び縮みして夕陽に当たる
     父のなき息子となりて花桃のひえびえと咲く白に逢ひたり
       (読みカッコ付きの歌が多すぎて選びづらい)


 で、おまえは努力してないって? いやいや。ぼろくそにいうしかない人のことを載せるのをやめた、ってことで(それが努力)。少しマシな大江という人と、村岡某という人(左翼系と、マルキスト)。まあなんでもアンチモデル、日本語でなんていったっけ、反なんとか。、、、やっと思い出した、反面教師。

コメント
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