リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

市民社会論

2008-07-06 22:15:22 | 歴史への視角
 夏ですね。
 アジサイの花には茶色い枯れ色がめだちはじめた今日この頃、昨日気づいたら向かいの垣根に白い花、
クチナシです。今年はちょっと遅く咲きました。
 ここに来てからは、こんな変わった花が。オオスカシバという巨大な蛾のイモムシが好きなんだそうです。
 こちらの垣根にはアベリアがあって、これは大人になったオオスカシバの食べ物。
 オオスカシバって、少年ジェットの「紅さそり」の帽子みたいな、って誰も知らねえよ。

 とゆうわけで「領有法則の転回」
 なんのこっちゃ。

 ここんとこ裏ではなかなか理論活動が進んでおりまして、それだけは気分よく。
 でも、皆様に伝えるほど役に立つ話ではありません上に、他には面白いこともないので、半分憂さ晴らしのテーマです。
 私と同じように、ここんとこ面白くない人は、みないでくださいね。


 で、西欧市民革命を確認しようと今週図書館で10冊借りた本中2冊に入ってるのがこの「領有法則の転回」。こんなこけおどしの掛け声はどうでもいいんですけどね、こういうのが好きな(マルクス主義者の)人たちの一致点がありまして、『正しい個人所有を取り戻し、本当の「市民社会」を形成しよう』みたいなところですね。 意味は私には聞かないで下さい。
 いつもお世話になるウィキペディアさんには、「領有法則」はなかったですが、「市民社会」はありますので、貼り付けますと

「上述のグラムシの見解は先見的であったといえる。こうした状況下で市民的自由を確保するためには、従来の共産党・労働組合を主体にした一極型の運動ではなく、日常にまで官僚制やマスメディアを通じて干渉をはかる国家権力に対して、市民の日常生活にかかわる諸団体がネットワークを結んで多極的な抵抗運動を展開すべきだという考えが形成されていった。」

みたいなところで、ま、かっこよいですな、響きは。

 ただ、現実は、「小市民は私有財産を持っている。これを否定することは出来ないし、結局、おれらの運動につきあってくれるのはそんな人たちだからから、これを前提に運動しよう」 というところです。
「領有法則」っていうのは、「個人の所有が資本の所有になってしまっているメカニズム」を指すようで、いえ、なにいってんだか、理解不能な言葉ですけどね。その所有をとり返そう、っていう算段ですね。

 ただですね、私有財産(私的所有)が良くて、資本家の何が悪いんですか?
 根性が悪い? そりゃお互い様でしょ。 意味不明なんだよなあ。やっかみとしか思えませんね。
 労働者を搾取してる? そりゃ資本主義なんだし。何がいいたいのかなあ。
 儲けのとりすぎ? そりゃ悪いですよね。じゃあ、国家で統制しますぜ、私有財産の統制を。
 ぜんぜんわからない。何を言ってるか理解できる可能性はただ一つ。
 発言者はただのプチブルで、言いたいことを言っているだけ。なんでも人のせい。自分のことは棚上げ。

 いや、巷でマルキストでカネを貰えるのは大学教師だけですからね。それもいいことなのかもしれませんが、一方で、そんなこといってんならマルキストなんか存在理由ないやと思うのもありますね。誰があんたらの本を読む(読める)んだね。
 一方、アナーキストなんてどうやったって生活できないんですからね。

 で、ほんとはですね、違うんですよ。
「上述のグラムシの見解は、、、」とかあるでしょ。これはイタリアの共同体運動を指しているんです。所有問題なんかではない。
 イタリアには、アナーキズムの伝統があって、都市労働者が近隣の仲間同士で生活している、その仲間でなんでもやりたい、『共産党の運動はやだぜ、「おれら」は「おれら」でやるから』という基盤があったわけです。だからウィキペディアにあるように、共産党じゃない、統一組合でもない、ましてや国家でもない運動、を語ることが過去には現実的だったわけです(グラムシという人は、70年前に死んだ人です)。
 で、ひるがえって日本。
 そんなもんねえがな。イタリアでさえ消えかけているものを、日本で増殖させようなどと、アホかね。
 アナーキストがいうんだから間違いない。
 日本のどの「市民」なる社会層が自分以外の要求を掲げるんだ? しかも幽霊のような無基盤の要求を。

 そりゃどの国でも「良心的な人々」という「カテゴリー」はあるわさ。マルキストが言う「市民」とは、そんな社会的には無規定の「良心的人間」のことに過ぎない。早い話があなたのことです。
 大変ですねえ、あなたも。期待されてますよ。

*************

 と、翌日見ると不親切ですねえ。こりゃ、憂さ晴らしだな。そうなんだけど。
で解説。

1 領有法則の転回というのは、マルクス主義的に、2ケあって、
(1)マルクスが無理やり「労働者は労働ではなく労働力を売るんだ」といってしまった手前、どこかで搾取を見つけなければいけなくなってむりやりこさえた資本論中の幽霊過程であること。私は、過去ブログでお分かりのように、こんなアホ臭い衒学論議(学問の系譜を引き継ぐことで権威を自分にも引っ張り込もうと無理やりつじつま合わせすること)に興味はない。
(2)もう一つは、これまた過去ブログで興味がないといった、中年マルクスの資本論準備論文(経済学批判要綱)について、これをひねまわして、その歴史発展理論のなかに領有法則なるスローガンを落とし込むこと。論理だてて書けばすぐに批判してやるのに書いてる本人もわからないから意味不明で、こちらはさらに頭にくること。

2 で、問題は(2)の人々だ。この人々が市民社会を花束のように持ち上げる。しかし、
(1)「市民社会」は理想社会であるわけがないこと。それはだれでも知ってる資本主義社会であること。ましてや私的所有を金科玉条にしつつ、でも自分は左翼でござい、などという顔をするやつの本は、すぐチリ紙交換のお世話になって当然。
(2)運動としての市民社会論、というのもあって、市民が運動をするのがエラい、という話だ。これと領有法則の転回(「本当の私的所有へ」みたいなかっこつけ。「本当のこと」なら不可侵だと思ったら大間違いだ。)とどこがつながるのかというと、だから、個人主義礼賛さ。ああ、資本主義成立後200年、ブルジョワジーに言い古された個人主義! 人間、何の進歩もない。

  それに対し、仲間の社会と、同じ仲間同士主義。これがアナーキズムです。


 とゆうことを *** の前でいったんだけど、そう読めない?? うむ、かえって難しいか。

コメント
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