伊勢崎市議会議員 多田稔(ただ みのる)の明日へのブログ

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42歳を過ぎたら体は保証期限切れ

2017-03-29 17:15:36 | Weblog
生物学者・本川達雄さんの「人間にとって寿命とはなにか」を読みました。
「42歳を過ぎたら体は保証期限切れ」は、本の帯にかいてあります。
目がかすんだり、膝が痛くなるのは当然だったのです。

日本は人類史上かつてない超高齢社会になりました。
平均寿命が80歳を超えるという状態は、
「生物」としての人間にとって、どのような意味があるのか。
生物として予定されている寿命を大幅に超えているなら、
どのような社会制度や、心の持ち方が良いのだろうか。

医療による延命や、福祉制度も、
生物学的な観点から見たら、どのような対応が妥当なのか。

こんな疑問からこの本を手に取りました。
著者の本川さんは
「ゾウの時間、ネズミの時間」の名著が有名です。

さて「人間にとって寿命とはなにか」の内容紹介にもどります。
詳しくは本書でご確認ください。
読む前に私が期待した記述は本の4分の1くらいで、
あとは良い意味で予想外の展開でした。
では、はじまり、はじまり。



(生物多様性)

地球上にはさまざまな生物がいて、
それらが食べたり、食べられたり、いろいろ複雑につながって
生態系を形成しています。

人間が記録しているのは190万種ほどですが、
全体では1000万~3000万の生物がいると言われています。
しかし人間の活動の影響でものすごい速さで種が絶滅しています。

絶滅の速度は1日に1種。多めの推測では100種。
これは恐竜絶滅時を上回る大変な速度。
今世紀の終わりまでに種の半分が絶滅してしまうとまで心配されています。

  生物学者エドワード・ウイルソンの警告
 
  生物多様性について、私が最も繰り返し投げかけてきた問いは、
 『もし一定以上の数の種が姿を消したら、生態系は破壊され、
  その後すぐに他の大部分の種も絶滅するのではないか?』というものだ。
  いまのところ、この問いに対して可能な答えは「その可能性はある」だけだ。
  しかし、本当の答えがわかったときはもう遅いだろう。
  それは、ひとつの惑星で一度しかできない実験なのだ。

環境保護の重大さがわかりますね。



(私とはなんでしょう)

きたー!私が最近考えている心の問題です。

  物質としての「私」は、結構あいまい。
  毎日ふるい細胞は壊され、新しい細胞に置き換わっています。
  食べ物も食べるし、排せつもするし、成長も老化もする。
  境界がけっこうあいまいなのです。

  デカルトは「われ考える、ゆえにわれあり」と言いましたが、
  私とは「考えるもの」であると捉えると、
  脳以外は全部機械に置き換えてもOKということになってしまいます。

  身体というあいまいさを回避するのが、利己的遺伝子説。
  遺伝子を私とみなす西洋的な考え方。

  仏教では、心は体とともにあり、体は死ぬのだから
  私はずっとあることはできず、それは妄想・無我だと考えます。

  西田系哲学者の上田閑照さんは、
  「私は、私ならずして、私である」と説きます。
  自分へのこだわりを捨てて外部へ目を開くと、
  実態とされていた我は幻として空解されるが、
  同時に自分を取り巻く全関係の唯一の結節点として我がよみがえる
  という考え方です。

  結局、私の持ち物、家族、友人、コミュニティーなど、
  これらは皆「私」。そういうものがみな一緒になって
  「私」を作っています。

  私たちは「役割」を生きています。
  職場、家庭、地域の中などに。
  役割を一つ失えば、それだけ私は小さくなります。

  適応した環境は「私」にとって大切な財産であり、
  私の一部と捉えてよいでしょう。
  血のつながったご先祖様も、子孫も私です。
  「私」は、空間的にも時間的にも広がっています。



(好き好き至上主義 原発 年金)

  現代人は好きなことを追及することに至上の価値をおいている。
  「好き好き至上主義(選好充足功利主義)」は、
  好きなもので世界を塗りつぶすので、多様性とは相性が悪い。

  自分に都合の良いものや情報だけ周りに集め、
  相手の都合の良い面だけを見て世界観を構築すると、
  非常に薄っぺらい世界となり、自分自身も薄っぺらくなる。

  原発は便利な消耗品として扱うには、あまりにも重い存在。
  相当の覚悟を持ってつきあうべき。
 (本川氏は原発は必要悪と考えますが、多田は廃止すべきと思います)
  事故を起こさない技術はありません。事故が起きる確率を下げ、
  事故が起こっても大惨事にならないように備えるのが
  技術の陰の部分に備える誠実な対応のはず。
  しかし原発を建設するために「事故は絶対に起きません」と言ってきた。

人間の寿命の本なのに、
「好き好き至上主義」のテーマから原発の話が出てきました。
その次は、いきなり「年金」の話題。
なんという本なのでしょう。

  年金の制度がいずれ破たんするのは、
  何十年も前からわかっていたのに、
  そういう嫌な面は見ないことにして、もらえるものはもらって
  そのまま逃げようというのが、今までの年寄りの生き方です。
  これなども、まことに薄っぺらな生き方だと、
  次世代から指弾されても仕方がないでしょう。





(ゾウの時間、ネズミの時間)

  およそ動物の寿命は体の大きさに比例します。
  ゾウのような体の大きな動物は心臓がゆっくり動いて長生きです。
  ネズミなどの小さな動物は小さな心臓が速く動いて早く死にます。

  別々のできごとのように思えますが不思議なことに、
  大きな動物も小さな動物も共通して
  心臓が15億回脈打つと寿命となり死ぬのです。

  生きていることは、エネルギーを消費しているということ。
  体重が重い大きな動物ほど、体重1㎏あたりのエネルギー消費は少なく、
  活動はゆっくりになっています。

  動物の、時間とエネルギー消費量を掛け算すると
  体重によらず一定値になります。
  ゾウとネズミの寿命はかなり違いますが、
  どちらも心臓が1回打つ時間に2ジュールのエネルギーを使っています。

  一生の間には、どちらも30億ジュールのエネルギーを使います。
  ただしゾウは70年かけて消費し、ネズミは2~3ねんで消費します。
  ゾウはほんの少しエネルギーをつかいながらとろとろ行動し、
  ネズミはものすごくエネルギーを使いながら炎のような人生を駆け抜けます。

  古典物理学では、万物に対して時間の速さは一定と仮定しますが、
  生物によって生きているエネルギー消費の密度が違いますから、
  生物により時間の長さが違うと考えるべきでしょう。

  エネルギーを使うほど生物の生きている時間が早くなります。
  これは社会生活にも当てはまるでしょう。
  交通機関や電話やコンピュータを使うことで、
  人力よりも早く仕事ができて時間短縮になる。

  消費とはお金を出して時間を買うことでしょう。
  車とガソリンを買えば時間が早くなり、同じ24時間内に
  さまざまなことができるようになります。

  電気を買えば、夜でも仕事ができて、
  インターネットで情報が即座に入手できます。
  エネルギーを使えば不活発な時間を活発な早い時間に変えられるのです。

  エネルギーで見ると現代人の生活時間の速さは
  縄文時代の30倍の速さです。
  人間の体の時計の速さは昔のままなのに、
  社会の時計がこれほど早くなって
  体は無理なくついていけるのでしょうか。

  日本はこれほど豊かなのに、幸福度は低く、
  通勤電車では疲れた顔をして、
  子どもたちに目の輝きはありません。
  その原因は社会の時間と体の時間のギャップにあると
  本川さんは考えています。

  

(人間の寿命)

縄文時代  31歳
室町時代  33歳
江戸時代  45歳
明治時代  43歳
昭和22年 52歳(還暦まで生きられない)
平成26年 男80.5歳、女86.8歳

戦国時代の織田信長は、人生50年と歌ったようですが、
つい最近の昭和22年でも、人生50年だったんですね。
いかに現在の状況がすごいことなのか。



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