秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

追憶 おじいちゃんの涙

2009年09月13日 | Weblog
《 拝啓ご無沙汰いたしました 唐津方面十七 八 九日雪ふりました 祖谷も雪がつもって居ると 思て居りました
唐津お国じまんが来て放送しました事見て居たかと思ました 其の時ねて見て居りました 店の客有りますかと思って居ります 御母様の云つけを聞くのが 子供のつとめで有ります 学校居てますか 手悪くて今だに 骨付にかよって居ります 夜 うづいてねむれません さよなら ( )》


祖父は、筆まめな人だった。
父を亡くしてから、祖父が他界するまで、八年間。度々、手紙や、みかんを送ってくれた。
最初は、母と私宛てになっていたが、晩年はすべて 私宛てだった。
身体の具合が悪くなって、床に伏せる日が多くなった。
封書は、やがてハガキに変わり、ハガキの文字は、震えていた。
さいごに必ず、さよなら 〇〇〇 と私の名を綴る。

私の返事が遅れると
『便り、おくれ』とハガキが届く。
その頃私は、高校生。初恋の真っ只中。返事が遅れても、無理もなかった。

高校三年の、秋。
唐津くんちに来るように、祖父から便りが届いた。
私は、母と叔母を連れて唐津を訪ねた。
今でも、叔母さんは、『唐津はよかったのー』
と言って、懐かしがる。

次に訪れたのは、
祖父が亡くなる半年前だっただろうか。
唐津の叔父さんから、電話がきた。
祖父の容態が悪い、私に逢いたがっているとの事だった。
母は、親類からお金を借りて、私を唐津に行かせた。

その旅は、祖父との最期の、時間になった。小柄で、足が達者だった祖父が、寝たきり状態に、なっていた。
介護疲れなのか、叔母さんは、イライラしていた。
『たまに来た位で、私の苦労はわからないだろう!』
そんな言葉を並べ、私に祖父の食事の介助を、目配せした。

祖父が、小さく小さく見えた。私は必死で、涙を、堪えた。
祖父の声も、か細く、何を伝えたかったのか、聞き取りにくかった。
ただ、祖父は、涙を流していた。目尻の皺を、涙が這うように、落ちていた。

それから半年後。私が二十歳の冬の日。祖父の訃報が届く。


当時、私の月給は一日8時間働いて、二千円。母の食堂の収入も、僅かなものだった。
成人式の通知も、欠席に〇を入れて、返信した。何万円の洋服を買う余裕など、全くないことは、私には理解出来ていた。
『出席するの、めんどくさい!』
母にはそう言って、ごまかした。

黒の礼服は持っていたが、コートを買うお金がなかった。
特別な外出着もなく、私は、黒い礼服のスカートを着て、その上からいつも着ていた、白い長めのカーディガンを着た。その恰好で、唐津に向かった。
博多のホームの風が、身体中を、吹き抜ける。足の先が、痛くなった。薄いカーディガンなど、何の役にも為らなかった。
綺麗なコート姿の、いくつもの視線が、私を通り過ぎて行った。
コメント
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