どたびき

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発掘現場

2020-06-29 15:38:00 | 日記
 熊本大学の北西側の道路を隔てた場所で遺跡の発掘調査が行われています。周辺は学生アパートだらけ。散歩の途中に勝手に見学しているのですが、ちょっと見た目には柱の跡やかまど(?)の跡などのようです。いつの時代のものでしょうね? 素人にはさっぱり分かりません。
 熊大のウェブサイトを見ると、黒髪キャンパス周辺にはキャンパスがすっぽり入るほどの、広大で重要な遺跡が地下に眠っているそうです。これもその一つなんでしょう。ここいらでは、縄文時代から奈良・平安時代までいろんな遺跡が発見されていて、構内に飽田郡家(飽託郡郡司建部公の居所)が存在した可能性も大きいらしい。「馬」という文字が書かれた土器も見つかっていて、役人の馬交換・宿場(駅)があったのではないかとみられています。
 発掘現場を見学させてもらっていると、作業をしているおばさんたちから「こんにちは」と声をかけられました。それにしても、上手く土を掻き出すものですね。単なる作業員ではなく、発掘のプロという感じ。やっぱり専門の人たちなんでしょう。向こうは私のことを、変なオジサンと思っているに違いありませんね。

山幸さんのこと

2020-06-26 14:13:00 | 日記
 友人の陶芸家・山本幸一さんが亡くなって2ヶ月くらいになる。みんな山幸(ヤマコー)さんと呼んでいた。金峰山の中腹に窯があり、石段を上っていくと大抵仕事をしているか、犬の散歩に行っていた。
 里芋の季節には、近くの農家が持ってきた袋詰めの里芋が玄関横にこづんであった。売るためである。これが抜群に美味しくて、そろそろという頃には予約していた。
 昨年の6月ごろだったか、「ガンになったっタイ。それもすい臓だもんね」と言う。びっくりした。72歳。まだまだこれからというときに、神様もひどいことをするもんである。
 それからちょくちょく顔を出したが、昨年の終わりごろには「もう半分しか力が残っとらん」と言っていた。明けて3月、顔を見に行くと、「これで3つぐい呑みができるけん、作ってみらんね」と一握りの土の塊をくれた。何とか形にして持っていくと、「ほう、立ち上がっとるタイ! さすがねー」とほめてくれた。最後の窯焼きの、私への何よりのプレゼントだった。
 ヤマコーさんの焼き物を一言で言えば「カッコイイ」である。わざとらしいところが1つもなく、自然と出て来る品の良さ。シャープなのに温かみがあった。我が家の食器やオブジェの半分以上はヤマコーさんのものだ。
 数日前、オブジェの遺作展を見に行った。もういないんだなと思うと、胸のあたりに穴が空いたような気がした。自分も死ぬときは、あんなふうに死ねたらいいなと思った。

凸凹歩道

2020-06-25 15:10:00 | 日記
 散歩を始めて半年近くがたちました。自宅から行って帰って1時間半くらい。あらゆる方向に、なるべく通ったことのない道を選ぶようにしています。
 一番感じるのは、道路って歩く人のためにできていない、ということです。やや広い道路には歩道がありますが、この歩道が歩きにくい。まず、平たい歩道がありません。雨水をためないようにするためか、極端に斜めになっています。大抵の場合は端っこに側溝があり、穴の開いた蓋が被せてあります。穴に足を突っ込まないように注意しながら、斜めの面を歩くのはとても疲れます。一方、車道はとてもきれいなのです。
 そこでどうしても、歩道のない路地か、車が通らない川の堤防を歩くことになるのです。とにかく車が来ないということは、歩行者にとっては大きな安心です。歩道を歩いていても、高速で自転車が通り抜けていきますからねー。
 今、最も楽しみにしているのが、白川沿いの堤防が小磧橋から下流までつながり徒歩や自転車で行けるようになることです。まだ子飼橋と明午橋の間がつながっていません。明午橋から大甲橋の左岸も工事中です。全体に工事が遅れているようです。
 熊本は程よい都会で、すぐ近くに自然があるとてもいい街です。だからこそ、そんな熊本にふさわしい道路ができたらいいのになー、と思っています。
 

熊本の漱石先生

2020-06-24 13:47:00 | 日記
 私は白川の方に散歩に行くとき、熊本大学の校内を通ることがあります。今年はコロナ騒ぎでほとんど学生の姿を見かけませんでしたが、最近ようやく戻ってきたようです。
 校内には夏目漱石の銅像やらラフカディオハーンのレリーフやら、第五高等学校時代ゆかりの人物たちの記念碑があります。散歩がてらにこれらを眺めていくのも楽しいものです。
 ところで漱石先生は、熊本にいた4年3ヶ月の間に厳密に言うと7軒の家に住んだと言われています。一般に第五旧居と言われる(実は6番目)内坪井の家が最も長く1年8ヶ月ほど暮らしていました。この家は公開されていましたが熊本地震でやられ、やっと復旧工事が始まったようです。
 寺田寅彦は熊大裏の立田山山麓に下宿していました。今は目印の標柱が立っています。学生だった寅彦は漱石先生が大好きで、内坪井の家によく遊びに行ったそうです。しかし、私が歩くとこれが結構な距離なんですよね。昔の人は歩くのが普通だから、へっちゃらだったんでしょう。ちなみに寅彦は、上通の長崎書店でバイオリンを
買い、立田山に登って練習したらしい。寅彦の青春ですねー。

坂の街

2020-06-22 11:59:00 | 日記
 私が昨年10月、1か月ほどいた沖縄のおもろまちには、小高い丘の上に水道タンクがありました。免税店のすぐ前あたりです。この丘は沖縄戦の激戦地で、シュガーローフとよばれています。日米ともに数千人の死傷者が出ました。
 おもろまちから国際通りまでモノレールに乗ると230円かかります。もったいないなと思い、歩くことにしました。どうせ暇だし、犬も歩けば棒に当たる。すると、おもろまちから国際通りまでずっと下りなのです。その時、シュガーローフがなぜ激戦地になったのか分かったような気がしました。首里防衛のためには、この丘を死守する必要があったのですね。
 こうして那覇の街を歩き回るようになったのですが、予想以上に起伏に富んでいるのです。上ったり下りたりの繰り返しでした。ちょっと丘に上がると、遠く、近くに海が見えます。空と海と島。この単純さが何とも気持ちよく、また行きたくなるんですよねー。
 熊本に帰ってきて散歩を始めたのはこれがきっかけでした。我が家の周りを歩き回りながら、ここも坂の街だったなと痛感しております。