末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

友人と友人との会合 その1

2018-09-17 20:21:01 | ブログ
前書き

小生年代ごとに素敵な友人を持つことが出来た上に、今でもその友人達と会合を持っており

有難いと思っています。今日其の会の一つである旧制中学の同級会幹事から

「今回最後の会を持ちたいので出席するように」との趣旨の案内状を頂きました。

そこで思ったことは、小生が幹事役をしている会もあるので、一度現在出席している会を整理し

終活の一つとして、今後その会にどう対応するかを考えてみる必要があるかと思うようになりました。

そこでまず幼い頃からの友人とその友人に関連した会について、年代順に書き出してみることにしました。

若しご興味があればご覧頂ければ幸いです。

なお友人の写真が少ないので、小生の各時期の写真を掲載させて頂きます。

母に抱かれた赤子の小生

1 幼年期

 小生が生まれて終戦の旧制中学2年まで育った場所は長野県の諏訪市で

最幼年期は大手町に、次にブログによく登場する湖柳町に住みました。

今湖柳町は「湖岸通4町目」に変わり、交差点の名称としてのみ残っているようです。

一方大手町はそのまま残ってているようです。

湖柳町と大手町の地図。赤丸が住んでいた家の位置

1.1 最初の友人である大手町の友人

 多分5歳位迄大手町に住んでいましたが、大手町の家の前の通りは小学校や中学に通う時にも通りましたので

比較的記憶に残っています。その家は十字路の角地にあり、道路添いに塀があり、中央に入り口

塀から先に結構広い庭、その奥に家があり、家の右隣には共同風呂があったという事までは思い出せるのですが

家がどんな間取りであったかは全く思い出せません。

この家の前の家は確か「白鳥さん」で、そこには小生と同年の子供さんがおり

二人で棒を持って通る人に悪戯をした様です。この方が人生の最初の友人ともいえる人でしたが

残念ながら湖柳町に移ってからは没交渉になってしまいました。

この頃の写真が次の一枚だけありましたが、お名前が分かりません。多分この中の一人が白鳥君だと思います。

ktempleは右端

1.2 次の友人である湖柳町の友人

 大手町から移った隣町湖柳町は、諏訪湖の湖畔にあった小さな町でしたが

小学校、旧制中学、旧制高等女学校の校長官舎もあり、当時はお店も一軒もないというサラリーマンの住宅街でした。

先生が沢山住んでおられた下宿もあり、小生の中学の主任も我が家から3分の所に住んでおられ

小生の父も旧制高等女学校の教師をしていました。

この頃の我が家の家族写真

我が家は借屋でしたが、熱い湯が庭からこんこんと湧き出ており、左隣の家も同様、右隣には共同浴場がある等

あちこちで熱い湯が沸き出していた温泉にも恵まれた場所でした。 

確か今は温泉が枯れてしまい、市が深い井戸を掘って汲上げた温泉を家庭に送っているようです。

諏訪湖周辺の各市町村からか旧制諏訪中学に通っていた同期生は全員で180名ほどでしたが

湖柳町には同年生が11人もいました。そしてその中の5人が近所に住んでおり

幼年期の悪戯仲間として色々の遊びを楽しみましたので、先ずその5人が幼年期の友人です。

残念ながら幼年期の友人の写真はなく、その頃よくお宅に遊びに行き可愛がって頂いたご近所の小母さん児玉さんと

近所のお姉さん守屋さん、それに名前の分からぬ小生に近い年齢の子供の下記写真だけがあります。

小生は前列左端。その上におられるのが守屋さんと児玉の小母さん

5人の幼年期の友人の中3人は既に亡くなっており残念です。

残ったもう一人の友は今八王子に住んでおり頻繁に連絡をとっています。

さて11人の友人は、諏訪市の助役を務めたA君が諏訪に残っている他は、何時頃からか皆東京近辺に住む様になり

度々ブログにも登場する湖柳会が開かれはじめ、今は気候の良い時期には毎月波多野家に夫婦で集まり

先ず麻雀をし、その後は夕食を楽しんでいます。但し残念な事に11人の中5人が既にお亡くなりになっています。

前にも書いたと思いますが、今は亡き波多野君は、学習院大学教授、国連の代表もされて活躍されました。

また奥様のミキさんは、波多野ファミリースクールの副理事長、日本家庭福祉会理事長、

東京家庭裁判所の家事調停協会副会長、日本尊厳死協会副理事長等を務められたほか

教育に関する本を多く執筆されたりと活躍されてます。

                            終わり
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今日は定期健診日

2018-09-14 20:32:06 | ブログ
定期健診

小生お医者さん処方の5種類の薬を飲んでいるため、毎月近所のかかりつけのクリニックに行き

一度は検診と処方箋を、翌月は処方箋だけを頂くといった通院をしています。

今日は前者の日でしたが、健康診断をされる方が多かったためか、一時間以上待たされました。

そして検診時間は5分程で終わり、結果は予想通り問題なしでした。

一昨年の心臓手術以後は、お蔭様で内臓疾患は全く起こらず快調そのものです。

ただ腰や膝の痛みには悩まされているため、今回は2種類の湿布を処方して頂きました。

先生からは、「少々膝が痛くても一日30分は歩くようにしなさい。さもないと足の筋肉が衰えるから」

と今回も言われましたので、これからも痛みを我慢して頑張って30分の散歩を必ず行うようにしたいと思っています。

ちょっと嬉しい事

今まで医療費負担は、家内ともども3割でしたが、今月から二人とも1割と3分の1になった事です。

歳をとるとお医者さんにかかる機会も増えると思いますので有難い事です。

でもこれは若い方達に負担して頂くのかと思うと、申し訳ない思いです。

                            終わり
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昨日は通産29技懇に出席

2018-09-11 10:03:21 | ブログ
通産29技懇について

「通産29技懇」と書いても、どいうものかお分かりにならないと思いますので先ず説明させて頂きます。

今はどうなっているか知りませんが、昭和29年当時中央官庁のキャリア職員になるためには

国家公務員試験6級職に合格する必要がありました。

「通産29技懇」は昭和29年度の6級職試験に合格して

現在の経済産業省である当時の通産産業省に入省した18名の技術職員達のOB会の事です。

この会の皆さんは、通産産業省や科学技術庁の課長をされ、その後地方通産局長等を歴任され

定年退職後は業界団体の理事長をされた方達です。

中には筑波万博が行われた時にその総指揮をされた方もいます。

小生も昭和29年に6級職試験に合格し、通産産業省の繊維局繊政課に配属されましたが

後述するように僅か6年間在職しただけで退職し、

日立製作所、(財)水道技術研究センター等に勤める様になりましたが

29技懇には、発足時からメンバー参加するよう呼びかけられ参加している次第です。

昨日は10人出席されました。小生は早生まれのため最年少で、3歳年上の方もおられますので

高齢者集団ですが、皆さんお元気で来年も会を開く事が決まりました。

ちょっとした自慢話

小生の今は亡き兄は、学校の成績がよく何時も級長をしていましたが

遊んでばかりしていた小生は、5番以内に入ることはなく

通信簿を持ち帰る時は何時も恥ずかしい思いをしていました。

所がどうしてか一発物には強かったのです。

先ず旧制中学の入試では5番で合格したため副級長になりましたが次の期には墜落。

大学には学部では2番で合格。ここでは比較的その状態を保てました。

そして国家公務員6級職試験では、応用化学職を受けたのですが、

多分500名以上の受験者があったと思いますが、12番で合格しました。

通産省での小生の経験と僅か6年で退職した事情

通産省に入省した当時の日本の輸出は繊維製品が大半であったことから、繊維局は活発に活動していた局でした。

繊政課では、繊維産業の長期計画の作成等の業務を行ったため、

日本全体そして世界に目を向ける習慣がつけられて、大変良い経験をしました。

3年目に通商産業省の付属機関で、JIS関連業務や民間研究の助成等を行っていた工業技術院に転籍しました。

工業技術院では助成課に配属され、民間研究への補助金を交付する際の技術審査や、

当時企業が盛んに行っていた海外の優れた技術を導入する際必要な、国への認可申請が行われた時に行われた

技術面の審査業務の化学と繊維関係を担当しました。

技術導入に当たっては、企業さんが詳細な技術説明をされるために非常に良い勉強になりました。

工業技術院在籍2年間でまた繊政課に戻り、前の仕事に加えて染色業に関する仕事も担当しました。

この時は係長になっていたため、業界の会合では中心に座らされて話をさせられるような立場になりました。

また今では大問題になるところですが、当時繊政課長さんは赤坂や新橋での夜の宴席に呼び出されることが多く

どうしてかその時に小生をよく連れて出られました。

比較的生真面目であった小生は、上記の様な生活は25歳程の若造がするものではないと悩む様になりました。

そんな時、工業技術院当時の課長さんから「東芝の副社長さんが君に化学プラント事業部に入ってもらえないかと

言ってきたがどうするか」とのお話を頂きました。

上記の状態であった小生ですので、企業でしっかり仕事をするのも良いかと考えましたが、

総合電機メーカーでの化学プラント事業部というのが何か異質に思えて気になり、

日立製作所の原子力事業部にいた兄に調べてもらいました。

すると日立にも化学プラント事業部があるので、企業に出る意思があるなら是非日立に来てもらおたいという話になり

日立にお世話になることになりました。

この様に小生は通産省には僅か6年間の勤務でしたが、

通産29技懇が発足するときに小生にも参加するようお話があり参加させて頂いている訳です。

とんだ身の上話や自慢話になってしまい恐縮です。

   終わり
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(財)水道管路技術センターについて

2018-09-09 19:08:05 | ブログ
先に水道技術研究センターのOB会について書きましたので

今回は小生が最初に出向した(財)水道管路技術センターについてご説明させて頂きます。

水道用石綿セメント管診断マニュアル

水道システムは、川の水等を浄水装置で飲料水にまで清浄化し、水道管を通して需要者の所に届けるシステムです。

その水道管としての石綿セメント管は施工性がよく、また安価であったことなどから、

昭和30年代から40年代を中心に多く使用されました。

しかし石綿セメント管は、強度が弱く、破損率が他の管種より高いこともあって、

漏水防止や水道管路耐震化の観点からも取り替えが必要と考えられるようになりました。

そこで石綿菅を診断する手法を開発することで、事故の未然防止と計画的な更新が行える様にするため

「水道用石綿セメント管診断マニュアル」の作成が水道管路技術センタ-の最初の仕事として取り上げられました。

出来上がったマニュアルを用いて各水道事業体が、診断と更新を行った結果石綿セメント管延長は着実に減少し

H26年度でもH19年度の半分以下になっています。

管路センターに出向された一期生の皆さんは、石綿セメント菅についての知識を持たれた方達でしたから

マニュアル作成に参加されましたが、小生は知識が全く無いため参加できませんでした。

技術委員会

センターでは、今後行うべき研究課題の検討を行う「技術委員会」があり、

小生はその事務を担当し、検討結果を「水道管路調査研究・技術開発長期計画」という本にまとめました。

そのため審議の過程で水道管路について色々と勉強することが出来ました。

更に良かったことは、技術委員会のメンバーには、後に大都市の水道局長になられた方がお二人もおられたように、

優秀な水道人や企業人が参加されており、その方達と親しくなれたことは、

その後の仕事を進める上に非常に役立った事でした。

                             終わり
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台風お見舞いと絵手紙講習会

2018-09-05 20:36:37 | ブログ
台風お見舞い
今回の台風は各所に大きな被害を及ぼしましたが、皆様の所はいかがでしたか。

被害を受けられた方にはお見舞いを申し上げ、一日も早く復旧するようお祈りしています。

お陰様で小生の所は全く被害はありませんでした。

絵手紙講座

今日の絵手紙講座では3種類の絵を描きましたので、お約束通り掲載させて頂きます。







何時まで経っても上達しないのは、講習の日だけ絵を書き、その他の日は全く描きませんから

これでは上達する筈がないと反省しています。

来季の講習も出たいのですが、寒くなって出るのは老人には辛いのでお休みです。

その間は自習をしっかりやって、月一度はその絵を今回と同じように掲載させて頂く事をお約束して

自分自身を縛ることにしますので、その際もご覧頂きご批判を賜れば幸いです。




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