末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

アソルに関する思い出 その2

2011-09-12 08:24:10 | 海外旅行
古い手紙

先日書類を整理していると、黄変した英文レター3部がポトリと落ちてきました。
それはGJ社長宛と後で書くフィラデルフィア郊外にある
S社の社長さんと、部長さんへの礼状でした。

会社での海外出張関連資料は家には見当たらないだけにびっくり。
多分ご招待頂いた事へのお礼だけを書いた手紙のため
会社のファイルに入れずに家に持ち帰ったものだったのでしょう。
手紙は1972年12月29日付けのものでした。

この手紙のお陰で両方の出張が同時期であった事が分かりました。
そしてGJ社長宅には何の目的で行ったか今まで分かりませんでしたが
S社には仕事で行った事ははっきり覚えていますから
そのついでに旧交を温める目的で行ったと想像されます

GJ社長宅に伺って

ご機嫌で伺うktemple

ボストンからアソルは直線距離で百キロ以上。
そこをバスで行ったという記憶があります。
多分どこかの停留所にGJさんが迎えに来てくれたのでしょう。

            手土産に花を持って?(ロイヤルドルトン製)

GJ社長さんのお宅は、隣の家が結構離れて林の中に点在する住宅地にあり
当時日本は未だ車社会ではありませんでしたから
車社会の米国ならではの住宅地と感じた事を覚えています。
今グーグルマップでアソルの写真を見ると未だ緑が多い所です。

丁度クリスマスシーズンのため、昼間の景色ですが
家々の前の道路沿いにはクリスマスデコレーションが飾ってあるのが見られ
当時の日本では余り見られぬ光景でしたので、珍しかったです。

家につくと、奥様と可愛い子供さんが向かえてくれました。


可愛い子供(リヤド人形)

そしてクリスマスツリーを切りに行くから一緒にと連れ出され
皆でツリーを切り出して持って帰った記憶があります。

こんな所から切り出した記憶があります(借用写真)

その後確か食べ物を持って、近所の教会にでかけ
多くの皆さんと一緒に楽しく食事をしたことが記憶にあり
礼状にも書いてありました。

サンタ小父さん達の楽団(ガラス製)

GJ家のクリスマス風景(この写真だけが残っていました)

切って持ち帰った樅の木に飾り付けをやったのか、
残念ながらここでの上以上の記憶は残っていません。

アソルに関する思い出 その1

2011-09-10 13:28:36 | 海外旅行
大理石の少女 高さ30センチで大好きな像

図に乗って、昨日と逆の様な思い出話をさせて頂きます。

アソル(Athol)
米マサチューセッツ州にあるアソルと言っても
先ずご存知の方は無いと思います。
調べて見ると現在の人口も僅か15千人程度の小さな町で
有名なものは何もない所です。
そして1972年に、次回書く様に小生ここを訪れました。


G社長さんの思い出

実はここにあった会社K社のユニークな機械を1963年頃技術導入したために
今回の物語は始まります。
K社の社長Gさんもまた素敵な人柄の技術者でした。

家におられたら、こんな感じの素敵な方 Gさん失礼

技術導入した当初、技術指導と顧客へのPRに来日されました。
大変ユニークな機械のために、その機械の模型を持参され
それを持って、小生もご一緒に顧客を廻って説明した
懐かしい思い出があります。
実はこの機械については、専門誌に掲載されたのを見て
これは行けそうだという事で技術提携したのですが
提携に当たり事業部長さんに説明すると
「そんな説明通りの機能があるとは思えない」と言われた程
ユニークな機械でした。
お陰で生産を始めると大変評判がよく
念のため今日インターネットで調べてみると
この機械についての販売実績が見つかり
最初に売れたのが1964年で、現在まで40数年間も
売れ続けていることが分かり、嬉しい気分になりました。
天上におられるGさん有難うございました。


H大先輩の思い出

話が脱線して恐縮ですが、この時にK社と米国で
技術提携の交渉をして下さったのが
当時NY事務所に駐在されていたHさんです。
Hさんは小生より10才以上年上の大先輩ですが
大学は物理と経済の両方を専攻された方で
またHさんが外人を連れて日本に来られると
外人の英語は聞きとれるが
Hさんは早口の上にスラングが入り込んで聞きとれないという程
英語は達者な方で、大変有能な方でした。


Hさん今日は手を出さずに聞いているだけですよ

その後日本に帰国された時には、なんと小生の課長さんになられ
またHさんがその後移動された時には、小生初めての課長職として
其の後を引き継いだという特別の関係もありました。
残念ながらHさんは3年前にお亡くなりになりました。
お葬式での牧師さんのお話で
Hさんのお父さんは日本の大手商社に勤め
米国に長く駐在されていたためにHさんは米国で生まれ洗礼を受け
その後高校・大学での日本の教育を受ける為に
日本に来られたという事をお聞きして
英語の堪能の理由を初めて知りました。
天上のHさん、こんな事書いて御免なさい。


息子のG社長
上述したG社長さんはその後お亡くなりになり
息子さんが後をとられました。
息子さんは技術屋でなく、専ら商売だけ。
今インターネットで調べると、G社は他社に買収されて
無くなってしまっており、淋しい思いをしました。

さて息子のG社長(以下GJ社長)が、多分1960年末頃
契約の延長に関する交渉で日本に来られました。
小生としては、お互いに満足出来る条件で
延長契約の交渉は簡単に終わると思っていました。
そこに登場するのが、S技師長さん。


S技師長さん

S技師長さんは、会社でも大変偉い方で
また頭の切れる方で有名な方でした。
小生の勤めていた会社は従業員数3万人以上で
S技師長さんはそこでの技術のトップのお一人ですから
小生の属する事業部の技術問題等については
高い立場で見ておられるだけで
小生が行う技術提携については無干渉の立場におられました。

お前の様な若造にはまかせておけない

それがどういう経緯からかは忘れてしまいましたが
GJ社長と小生の話し合いの場にS技師長さんが現れ
自ら交渉を始められたのです。
実はS技師長さんは、米国の最大手の一つの会社との
技術提携交渉を何時も担当されておられる方です。
多分その会社との交渉のやり方でしょうか
相当厳しい要求を次々に出されました。
GJ社長はただびっくりして聞いていました。

ただ困って見つめるGJ社長とktemple

その打ち合わせが一先ず終わってGJ社長はホテルへ戻られました。
暫くすると機械を製造している工場長さんから電話があり
「ktempeさんよ、今GJ社長からの電報が入り
契約を破棄すると書いてあるがどういう事か」とのお尋ね。

小生もびっくりして直属の事業部長に
「契約継続こそ我が社の利益になるので、S技師長の要求は取り下げ
小生の案で取りまとめたい」旨を申し上げて了承を得
早速GJ社長の泊まっているホテルに出向き
お互いの利益のために、小生の案で手を握ろう」とい事で
GJ社長も了承してくれ、継続契約を纏める事が出来ました。

S技師長さんにはその事は報告しませんでしたから
当然耳には入ったと思われます。
しかし何等お咎めがなかったどころか
その後も前と変わらず色々とご指導を頂き
やはり偉いか方は違うと心から思いました。
天上のS技師長さん
こんな事を書いてしまいましたがお許し下さい。

シカゴの思い出

2011-09-09 11:19:19 | 海外旅行
小生の好きな人形で応接に飾っています。
外国作家の銅の像で高さは約30センチ

前回は写真を沢山出す事が出来ましたので
今回写真は無いのですが強い思い出がある事を書かせて頂きます。
ただ写真が無いと淋しいので
先日掲載した犬人形のように
我が家の人形写真がHDに沢山入っていますので
それを風景代わりに掲載する事にします

シカゴの街の思い出

シカゴの旅は30数年前の会社での出張です。
シカゴの街に関連した思い出と言えば、雪が降っており
あちらこちらに相当雪が積もったシカゴ空港の冬景色。
そしておかしな事に
ホテルでエレベーターに乗ろうとボタンを押したら
静電気で今迄経験した事がないほど激しいビリビリで驚いた事。
その他の景色等は全く思い出せません。

D博

シカゴは、会社が機械の技術導入をしていた
社長さんD博士に会う為に行きました。
Dさんはアイルランド出身の技術者で、英、独、仏、露の4ケ国語ができ
飛行機の操縦ライセンスも持っておられるという多能の方。
技術導入した機械の特許もご自身が発明したものです。

技術導入した当時、技術指導に当社の工場に来て下さいました。
其の時様子を見に工場に行くと
「ktempleさんよ、私は羽が生えそうだよ」とおっしゃいました。
どうしてかとお聞きすると、「毎日鳥ばかり食べさせられているから」
ということで、大笑いしました。

羽根生えてしまったよ!

そんな事もありましたので、帰国の途中東京に来られた時には、
家内や子供も一緒に食事をしたりして大変喜ばれました。
その後も手紙やファックスで交流していました

シカゴでの仕事

当時技術提携の期間が切れる時期になっており
当方は継続を希望するとともに
相手に支払う対価の引き下げも希望し
交渉を会社の技術提携専門の法律部門を通じて手紙による
交渉をお願いしていたのですが、相手はノーの回答です。
そこで親しくしていた小生が直接お会いして
交渉する事になったわけです。

伺ったのはご自宅

沢山の絵が飾られた立派なお宅であった記憶がうっすらとあります。
さて交渉の場には、奥様も同席されました。

こんな素敵な女性ならよかったのすが、怖いお婆さんでした

延長契約について一般的な交渉を行なって
最後に対価引き下げの話を出すと
今までの友好モードは一転。
奥さんが「契約は終了だ」と怒りだしました。
それから契約継続がお互いにとって利益になる事を縷々のべたのですが
奥さんは怒るばかり、しかし最後にはDさんの取り成しが幸いして
何とか話を纏める事が出来ました。

ktemple良かったなー
 

ショー付き夕食会
 

 
其の後Dさんはホテルでの夕食会に招待して下さいました。
其の時Dさん「お前の会社は上手いことをやる。
厳しい交渉の時に友人を送り込んできた。
友人を失望させる事はできないから」とおしゃいました。

それをお聞きしていかに人と人との繋がりが
仕事の上に大事かを再認識しました。

ショーでは有名な歌手が歌った様で
その様な夕食は始めての経験でしたので
大変嬉しかった思い出があります。

歌手さん失礼!もっと素敵な方でした

其の時大きなメニューが渡され、持ち帰ったのですが
今は残念ながらありません。

        

花は元気 作り手は?

2011-09-05 18:32:09 | 
花は元気

台風で痛むのではと心配した花は無事にすみました。



  
ジニア プロフュージョン


 
マーガレットコスモス>


人間様は痛んでしまいました

花は元気なのですが、台風が来ると言う事で

40数ケの植木鉢を一箇所に動かしたのが原因か

4日程前から右の腰と右足が痛みと痺れで、

歩くのにも苦労するようになりました。

動かずにいると、特に苦痛は感じないのですが

直らないので今日整形外科の診察を受けてきました。

整形外科は小生の様な老人で一杯。

診察が終わるまで3時間余かかり疲れました。

一緒に行ってくれた家内も大分疲れた様です。


診断結果

診断結果は、1年前のレントゲン写真と比較して

骨の状態はそれ程変化はないが、

神経の通る所が狭くなり

神経を刺激して痛みが出ているだろうとのこと。

植木鉢を動かすような事や、同じ姿勢で長く座る様な事は

出来るだけ避ける様に注意されました。



齢に合った生活ペースへのスローダウンへ

考えれば小生の日常生活のペースは70台初めのまま。

やはり体全体が衰えてきているのですから

それなりにペースを落とさねばと反省しています。

そんな事で、ブログ掲載ペースも少しダウンしたいと

思いますので、どうぞよろしく。

これがアメリカの街? 珍しい雰囲気が多くある街サンアントニオ

2011-09-05 14:30:24 | 海外旅行
今回掲載の旅の最後に行った場所

トラブルで間があきましたがご覧頂ければ幸いです

「アラモ」の文字が見える街の様子。ジョン・ウェイン監督・主演の西部劇「アラモ」でその名前はご記憶の方もおられるのでは

最後に到達した場所はヒューストンの南西約200マイル

メキシコ国境の北150マイルのテキサス州の南に位置する

サンアントニオです。

まさかこんな所にくるとは、日本を出発する時には

夢にも思っていませんでしたが

同行して下さったNY駐在のHさんが案内してくれました。

サンアントニオについては、今まで全く調べた事がなく

今回皆さんに写真をお見せするにあたり調べてみて

初めて概要を知る事が出来ました。

土日利用の旅の筈ですから泊まる事は考えられませんし

ヒューストンから車(4時間はかかる)で行っていますから

滞在時間は長くて3時間位であったと予想されます。

Hさんは、ここの一番の観光ポイントを

短時間で案内して下さった事が分かり感謝です。


サンアントニオの概要

皆さんのご参考に、サンアントニオについて先ずご紹介します。

サンアントニオは約150万人と米国8番目の人口で

全米有数の大都市です


 
大きなビルも見えました

州西部の商業、金融、工業の中心地で

食品業のほか航空機、建築材など多種多様な工業が発展しています。

メキシコ系アメリカ人の人口が多く占めており

ヒスパニック系文化が色濃くあります。

多数の歴史的観光スポットや文化的観光スポットがあるため

年間1000万人以上が訪れる全米有数の観光都市ですが

さすが場所が場所だけに、当時は日本人観光客は殆ど見かけませんでした。


Tower of the Americas
この展望台最上階へ昇ると市内の風景がよく見下ろせるとか

訪れた観光スポット

サンアントニオには色々の観光スポットがありますが

訪れたのは、その中心とも言えるダウンタウンにある

アラモの碧、美しいリバーウォーク、そしてメキシコマーケットでした。

アラモの砦


アラモ砦正面

ここはもともとは1718年にスペイン人が建てた 修道会伝道所でしたが

1793年以降はある期間スペイン軍の要塞として使用されました。

1836年、当時メキシコ領だったこのアラモ砦を舞台に

自治権を求めるテキサス義勇軍の189人が4000人のメキシコ軍と戦い

ほぼ全員が戦死。「アラモを忘れるな!」は

その後のテキサス独立戦争の合言葉になりました。

そのため白い石塀に囲まれた約130メートル四方のアラモの砦は

テキサスの自由の象徴と考えられ、

州内でもっとも有名な歴史遺産となっています。

中は記念館になっている様ですが、中には入りませんでした。

リバーウォーク

サンアントニオ川沿いの美しい散歩道で

美しく造園され川の堤に沿って

ヨーロッパ調のブティック、カフェテリアや

バー、ナイトクラブ、ホテル、ショッピングモール

高級アパート等が建っています




カフェテリアには人がいたように思ったのですが?

アントニオ川には絵になるような美しい橋が多数掛けられ

川にはツアーボートが定期的に往復しています。

おしゃれな別世界に身を置く思いがしました。



素敵な橋の景色
 
橋に立つ小生


ツアーボート

多分この付近の風景




    
雰囲気の異なった建物の中の通り


  
そこにはこんな鳥が


名所かと思って撮ったのですが、名所案内には見つかりません。座るはM、H両君


  
古そうな建物


   
近くにあった聖ヨセフ教会


メキシコマ―ケット ラ・ヴィリータ(小さな村

メキシコ製品のマーケットで

美しい手作り陶磁器、ジュエリー、美術品、服などが並び

タイムトリップしたような錯覚を覚えました


   
メキシコ製品が並ぶ店

ここで購入した品物が残っています

  
家内への土産銀のブローチ


  
いかにもメキシコを感じる器