高野辰之作詞の懐かしい歌
1) 春が来た:高野辰之作詞・岡野貞一作曲
「春が来た 春が来た どこに来た 山に来た 里に来た 野にも来た
花が咲く 花が咲く どこで咲く 山に咲く 里に咲く 野にも咲く
鳥が鳴く 鳥が鳴く どこで鳴く 山で鳴く 里で咲く 野でも鳴く」
この歌は明治43年(1910)刊行の「尋常小学読本唱歌」に発表。
2) 春の小川:高野辰之作詞・岡野貞一作曲
「春の小川は さらさら流る 岸のすみれや れんげん花に
すがたやさしく 色うつくしく 咲けよ咲けよと ささやき如く」
田園の春の風景を想像させるこの歌は、辰之少年の幼年時代を過ごした郷里の小川河骨川ではなく、
東京の真ん中代々木を流れていた河骨川とその付近のイメージをもとに作られたのだといわれています。
この歌は大正1年(1912)「尋常小学唱歌(四)」に発表されました。
3) 朧月夜:高野辰之作詞・岡野貞一作曲
「菜の花畑に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし
春風そよ吹く 空を見れば 夕日かかりて 匂い淡し」
鐘の音は、高野辰之の故郷にある真宝寺の鐘との事です。
なお菜は野沢菜で、野沢菜漬は信州の代表的冬の味覚で小生も大好きです。
高野辰之が小学校の教師時代、下宿していた飯山市は、戦前菜種の特産地でした。
今でも菜の花の種類こそ違いますが、遅い春を迎える四月頃、奥信濃の千曲川ぞいは一面黄色い花に彩られます。
晩年を過ごした野沢温泉村には、この歌の歌碑と記念館「おぼろ月夜の館」があります。
Sさんと平和の塔
真宝寺のすぐ近くに、日本国憲法第2章戦争の放棄の条文を書いた石碑と平和の塔があります。
実はこの塔の「平和の塔」の字は,車を運転して案内してくださったSさんがお書きになった字で、
ここで初めて知ったのですが、Sさんは書家で書道の先生をされておられるとの事でした。
以上の事情から、Sさんにはお断りなしで、Sさんが写っている写真を掲載させて頂きました。
4) 故郷:高野辰之作詞・岡野貞一作曲
「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川 夢は 今も めぐりて 忘れがたき 故郷」
この歌を聴いたり歌うと、人々は、故郷を想い出し、それぞれの故郷の情景が浮かんできます。
この歌は大正五年(1914)「尋常小学唱歌(六)」にはじめて登場しました。
今回立寄ったふるさと橋欄干には、「故郷」のメロディパネルが設置されていて、
マレットで順番に叩くと「故郷」のメロディーを演奏することができます。
5) 紅葉(もみじ):高野辰之作詞・岡野貞一作曲
「秋の夕日に照る山紅葉 濃いも薄いも数ある中で 松を色どる 楓)や 蔦も 山のふもとの裾模様」
この詩は、高野辰之が郷里と東京を往復するのに使った信越本線熊ノ平駅付近から風景を詠んだといわれています。
明治44年(1911)刊行「尋常小学校唱歌(二)」に発表されました。
熊ノ平駅は、横川と軽井沢の中間、山とトンネルに挟まれた駅で今はありません。
小生も新幹線が出来る前は、長野の家に行く時にこの駅を何度も通りました。
当時は急勾配をアプト式鉄道でゆっくり走っていましたから、周囲の景色もゆっくり堪能できました。
なお最後に、前回のブログに寄せられた崎山言世さんの下記コメントを掲載します。
「名作唱歌は合議で作られたので、特定の作詞者の名前を挙げるのは、学術的には正しくありません。
高野岡野のゴールデンコンビというのは何の文書的根拠もないので、
大先生とメディアが推測して作り上げた俗説にすぎません。」
「春が来た 春が来た どこに来た 山に来た 里に来た 野にも来た
花が咲く 花が咲く どこで咲く 山に咲く 里に咲く 野にも咲く
鳥が鳴く 鳥が鳴く どこで鳴く 山で鳴く 里で咲く 野でも鳴く」
この歌は明治43年(1910)刊行の「尋常小学読本唱歌」に発表。
2) 春の小川:高野辰之作詞・岡野貞一作曲
「春の小川は さらさら流る 岸のすみれや れんげん花に
すがたやさしく 色うつくしく 咲けよ咲けよと ささやき如く」
田園の春の風景を想像させるこの歌は、辰之少年の幼年時代を過ごした郷里の小川河骨川ではなく、
東京の真ん中代々木を流れていた河骨川とその付近のイメージをもとに作られたのだといわれています。
現在の河骨川で、川辺にはこの歌の歌碑もあります
春の小川の歌碑(借用写真
この歌は大正1年(1912)「尋常小学唱歌(四)」に発表されました。
3) 朧月夜:高野辰之作詞・岡野貞一作曲
「菜の花畑に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし
春風そよ吹く 空を見れば 夕日かかりて 匂い淡し」
鐘の音は、高野辰之の故郷にある真宝寺の鐘との事です。
真宝寺
真宝寺の鐘楼
なお菜は野沢菜で、野沢菜漬は信州の代表的冬の味覚で小生も大好きです。
高野辰之が小学校の教師時代、下宿していた飯山市は、戦前菜種の特産地でした。
今でも菜の花の種類こそ違いますが、遅い春を迎える四月頃、奥信濃の千曲川ぞいは一面黄色い花に彩られます。
晩年を過ごした野沢温泉村には、この歌の歌碑と記念館「おぼろ月夜の館」があります。
Sさんと平和の塔
真宝寺のすぐ近くに、日本国憲法第2章戦争の放棄の条文を書いた石碑と平和の塔があります。
戦争の放棄の条文を書いた石碑
平和の塔とSさん
実はこの塔の「平和の塔」の字は,車を運転して案内してくださったSさんがお書きになった字で、
ここで初めて知ったのですが、Sさんは書家で書道の先生をされておられるとの事でした。
以上の事情から、Sさんにはお断りなしで、Sさんが写っている写真を掲載させて頂きました。
4) 故郷:高野辰之作詞・岡野貞一作曲
「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川 夢は 今も めぐりて 忘れがたき 故郷」
この歌を聴いたり歌うと、人々は、故郷を想い出し、それぞれの故郷の情景が浮かんできます。
この歌は大正五年(1914)「尋常小学唱歌(六)」にはじめて登場しました。
今回立寄ったふるさと橋欄干には、「故郷」のメロディパネルが設置されていて、
マレットで順番に叩くと「故郷」のメロディーを演奏することができます。
写真の白い所がメロディパネル
5) 紅葉(もみじ):高野辰之作詞・岡野貞一作曲
「秋の夕日に照る山紅葉 濃いも薄いも数ある中で 松を色どる 楓)や 蔦も 山のふもとの裾模様」
この詩は、高野辰之が郷里と東京を往復するのに使った信越本線熊ノ平駅付近から風景を詠んだといわれています。
明治44年(1911)刊行「尋常小学校唱歌(二)」に発表されました。
熊ノ平駅は、横川と軽井沢の中間、山とトンネルに挟まれた駅で今はありません。
小生も新幹線が出来る前は、長野の家に行く時にこの駅を何度も通りました。
当時は急勾配をアプト式鉄道でゆっくり走っていましたから、周囲の景色もゆっくり堪能できました。
なお最後に、前回のブログに寄せられた崎山言世さんの下記コメントを掲載します。
「名作唱歌は合議で作られたので、特定の作詞者の名前を挙げるのは、学術的には正しくありません。
高野岡野のゴールデンコンビというのは何の文書的根拠もないので、
大先生とメディアが推測して作り上げた俗説にすぎません。」
長閑な風景が目に浮かびますね。
こういう歌は大事に歌い継いでゆきたいものです。
特殊事情に関するご説明で事情がよく分かりました。
有り難うございます。
歌っていると長閑な風景が浮かんできます。
尋常小学唱歌は、そもそも作詞者作曲者を特定すべきでない歌として誕生したことにしっかり見なければなりません。著作権協会がろくな調べもせずにただ宣言したことを鵜吞みにしては、尋常小学唱歌をつくったひとたちも浮かばれません。高野辰之さんも編纂委員の一員なのでつくったことは嘘ではありませんが、高野岡野の2人だけでつくったと言ってしまうとそれはとんでもない事実誤認です。
念のため記しますが、高野さんの偉業は偉業としてすばらしいことには何ら異論はありません。
分かりませんが、高野辰之の歌も入っているのでしょうね。
小生は今の歌は殆ど覚えていませんが、唱歌は
結構覚えています。
口ずさみたくなる歌です。
ヒューマンさんは野沢菜を食べられた
事があるのでしょうね。
ついていけませんか。小生にとって今の歌は
別世界の歌です。
それに対して唱歌は何時でも口ずさみたくなる
歌です。
懐かしい歌ばかりですね。
中野も高野辰之や中山晋平の二人を生んで
いるのも、自然に恵まれているためでしょうね。
北国の春が野辺山高原をイメージして作られた
ものとは知りませんでした。
小学校唱歌なんてみな忘れてしまって、
こういうのを聴くと懐かしいですね。
愚生、ときどき「日本のうた こころのうた」を流し聴きしております。
野沢菜は、信州の民宿では定番ですね
唱歌は耳に優しく、メロディーが頭のなかにインプットされてます。
夕飯作りながらでも歌えますね(^_^)v
何時までも皆さんんの心の中ですね。
それだけ自然に恵まれていたのでしょうね。
「北国の春」も歌手が東北の方ですので、東北の歌のようになってますが、歌詞は長野県人、故郷の野辺山高原をイメージして作られたものですね。