末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

自分史その2 小学校から中学2年生まで イ 小学校1年から4年生までの高島小学校時代

2019-10-03 20:01:17 | 

小学校は1年から4年までは高島小学校という1学年のクラスが10組もある大変大きな小学校に通いました。

高島小学校は、我が家から歩いて30分程の所にあり、昭和13年(1938)4月に1年5部に配属されました。

女子28名、男子30名のクラスで、担任は百瀬先生でした。

翌14年には人口が増えたために西校(後の城南小学校)ができて移転。翌15年には高島小学校に戻りました。

昭和17年(1942)3月通学区制実施に伴い、高島小学校、城南小学校に再編されたため5部は解体し

小生は5年生からは城南小学校に通いました。

諏訪市の現在の地図。当時の高島小学校は右上の諏訪市立上諏訪中とその下の文の場所あたりで、城南小学校は左下中央。

小生の家は左上古畑うなぎ料理店の一角にありました。通学区制は、上記地図の中央線路の左は城南小学校、右は高島小学校でした

上図の学校付近をアップした空からの写真。諏訪市立上諏訪中学校と諏訪市立高島小学校の校舎のある所に当時も校舎もあり、

運動場はほぼ当時の位置にあります。手長神社にはよくお参りしました。

部解体の日に百瀬先生が作られた歌があります。

「文机の 蓋を濡らして さめざめと 泣き伏す子等と今は分かれめ

 数ならぬ我を思いて泣くになく こんぽ子等達 ま幸く育ちな」

百瀬先生は大変厳しい先生で、授業中悪戯している生徒がいると後ろ襟をつかんで椅子から引きずり出し

そのまま廊下迄引っ張って行き廊下に立たせました。

そういう厳しい先生でしたが、授業は熱心で分かりやすく、その後何校かの校長を務められ

最後は県庁に入られて長野県全体の教育のお仕事をされるというように立派な先生でした。

写真は卒業後の同級会「いずみ会」が発足する大分前の旧制中学一年頃の昭和20年(1945)に

同級生が集まった時に高島小学校の玄関前で撮ったものです。

        小学校卒業翌年に高島小学校玄関前で撮った同級生。小生先生の左

 

終り