末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

鎌倉散策 その1

2018-07-01 14:21:42 | 写真
ブログにも度々登場するプ開会のメンバーによる鎌倉散策は

5月21日と大分前に行われましたが、その報告を遅れましたがさせて頂きます。

プ開会について

日立製作所機電所業本部化学プラント事業部プラント開発課は

小生が会社で一番長く所属していた課です。

プラント開発課は昭和40年に発足、昭和54年に全社の大幅組織変えで

系列会社に移って本社組織からは無くなりました。

小生はその間ずっと開発課に所属し、昭和47年から54年まで課長を務めました。

開発課の仕事は、化学プラント事業部と関係工場の研究開発の推進と管理並びに

当時の日本が遅れていた化学技術に関連する技術導入の推進等でした。

そのため小生は関係工場の開発会議の司会、重要研究実施のための事業本部長決済業務

更に技術導入交渉のために、何度か海外に出掛けたりしていました。

確か平成18年頃プラント開発課のOBの会としての「プ開会」が

1回は旅行、もう1回は東京でと年2回開催されるようになりました。

現在のプ開会メンバーは、一番若い方でも60歳と

もうお婆さんお爺さんと呼ばれる歳になっていますが

小生とは殆どの方が20歳以上お若い方達ですから

小生にとっては女性は皆昔のお嬢さんの感じであり、男性諸氏も素晴らしい仲間であることから

昔にに戻っての気分で開催されるプ開会では、何時も若さを頂戴でき、楽しませてもらっています。

なおプラント開発課の課長さんは、皆さん小生より10歳近く年上だったため

残念ながら今は小生を除き皆さんお亡くなりになってしまい残念です。

鎌倉散策

今回の参加者は、プ開会の女性メンバー4人、男性メンバー4人、

それに女性メンバーのご主人1人と家内の10人でした。

散策の主目的は鶴が丘八幡宮で、K君が宮司さんとお知り合いであったため

普通では入れない場所にも案内して頂けて、大変有難い散策でした。

以下八幡宮についてと、そこで見た場所の紹介をさせ頂きます。

八幡宮について

1063年源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際して

加護を祈願した京都の石清水八幡宮を、由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。

その後頼朝は1180年鎌倉に入るや直ちに神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地に遷し

1191年には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。

頼朝は流鏑馬や相撲、舞楽など、今日にも引き継がれる社頭での神事や行事を興したので

当宮は武家の精神のよりどころとなり、国家鎮護の神としての信仰は全国に広がりました。

当宮への信仰を背景に鎌倉を中心として興った質実剛健の気風は

その後「武士道」に代表される日本人の精神性の基調となっています。

八幡宮案内図

散策状況写真

二の鳥居

鎌倉駅を出ると直ぐに二の鳥居があります。

二の鳥居

二の鳥居は、若宮大路の中央に築かれた「段葛」(だんかずら)の入口に建てられています。

二の鳥居は、1923年の関東大震災で倒壊するまでは

一の鳥居、三の鳥居とともに徳川四代将軍家綱寄進(1668年)の石造鳥居でしたが

現在の鳥居は鉄筋コンクリート造です。

段葛

段葛(写真を撮り忘れましたので借用写真)

二の鳥居の写真の鳥居の中にも見えていますが

二の鳥居から鶴岡八幡宮までの車道より一段高い歩道を段葛と言います。

段葛の終着点に三の鳥居があり、そこから鶴岡八幡宮の境内へと入ります。

段葛説明碑

一の鳥居はそこから大分離れた場所にあり行きませんでした。

三の鳥居
三の鳥居

八幡宮の入口に建てられている三の鳥居は、1923年の関東大震災で倒壊するまでは、

一の鳥居、二の鳥居とともに徳川四代将軍家綱によって寄進(1668年)された石造鳥居でしたが

現在の鳥居は鉄筋コンクリート造です。

三の鳥居付近のお仲間達


                                             その1 終わり