今日、光善寺の離郷門徒の方がご縁を切りたいとおっしゃいました。
今までは、光善寺だよりという寺報やカレンダー等を折にふれて
送らせていただいていたのですが、向こうのお寺ともお付き合いがあるので
一応区切りをつけたいということなのです。
これは、本当はいいこと、というか理想的なのだと思います。
ふるさとを離れても、移住先の地域の浄土真宗のお寺がその後の教化を行う
というシステムがきちんと整備されると、おみのりも繋がっていくと思うのです。
せっかく本願寺派の寺院が1万か寺あるのだから、このネットワークを
生かさない手はないと思います。
しかし、しかしこちらとしては縁が切れるということは
何となくさみしいことです。
これからは「うちの門徒」というよりも
どこにいっても親鸞さまの門徒であるという意識をもたないと
お寺どころか浄土真宗そのものが廃れていってしまうかもしれません。
今までは、光善寺だよりという寺報やカレンダー等を折にふれて
送らせていただいていたのですが、向こうのお寺ともお付き合いがあるので
一応区切りをつけたいということなのです。
これは、本当はいいこと、というか理想的なのだと思います。
ふるさとを離れても、移住先の地域の浄土真宗のお寺がその後の教化を行う
というシステムがきちんと整備されると、おみのりも繋がっていくと思うのです。
せっかく本願寺派の寺院が1万か寺あるのだから、このネットワークを
生かさない手はないと思います。
しかし、しかしこちらとしては縁が切れるということは
何となくさみしいことです。
これからは「うちの門徒」というよりも
どこにいっても親鸞さまの門徒であるという意識をもたないと
お寺どころか浄土真宗そのものが廃れていってしまうかもしれません。