story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

母と船と新幹線

2018年01月27日 22時08分01秒 | 詩・散文
春の夕暮れ、山陽電車の別府駅で降りた我が一家は、高架の上でさらに構内踏切のある不思議な駅から沿岸工業地帯に林立する無数の煙突からの激しいばい煙を眺めながら、なんとも遠くへ来てしまったものだと、それぞれが感じていた。
 
いや、その中にいた母こそ、十二歳の私を筆頭にした六人の子供に、いつ倒れるかわからない、酒で身体を壊した父という組み合わせで、本来は自分が生活の拠点にしていた神戸や大阪から遠く離れてしまったこともあわせ、最も大きな不安を持っていたはずだ。
 
その時、宙を切り裂く轟音が聞こえ、強烈なヘッドライトが迫ってきた。
 
山陽新幹線の、白い車体は十六両もの車両を連結しながら、八つのパンタグラフから派手にスパークを飛ばして目の前を通過していった。
それは、これまで身近だった南海電車や大阪市営地下鉄、阪神電車・・それに今しがた長時間ゆられてきた山陽電車などの縁の深かった鉄道と明らかに違う異世界の生き物のように見えたかもしれない。
 
乗ってきた電車が行ってしまった別府駅のプラットフォームに佇み、呆然と新幹線を見送る母。
春の夕暮れの切ない思い出でもある。
たぶん、それまで母は新幹線には乗ったことがなかったはずだ。
 
ただ、父がそれからわずか半年後に亡くなり、母は自分で子供六人を育てる決心をするのだが、それは貧しくても気負う必要のない世界とて、以後はしばらく母にとって平穏な日々が続くことになる。
 
乗り物が好きな人で、観光バスに乗ることも喜んだが、一番、心底から好きだったのは船だった。
母の実父が船乗りで、その頃、母は満州の長春に住んでいたらしく、数か月に一度、きれいな白い制服を着て帰ってくる父親が自慢で、その父親、私にとっての実の祖父は大変な美男子で乗っていた船は大きな白い船だったそうだ。
 
これまでは常に、少し歩くだけで船が見えるところで生活していた母にとって、加古川は一般人が立ち入れる浜や岸壁が遠く、その港に出ても工業地帯のための貨物船ばかりで華やかな客船は見られない。
 
父が亡くなったのが新幹線や山陽本線に面した病院だった。
そこから、母は泣くような思いでスパークを上げて突っ走る新幹線の列車を眺めたことだろう。
 
住んでいたのが社宅であり、一家全員で暮らすために、加古川市内でもずっと北のほうの住宅を借りた。
海から離れ、内陸部で生活する羽目になり、自宅そばの棚田から遠くを見れば、海はいつもきらきら光って見えるが船は芥子粒ほどにしか見えず、母から船が遠ざかる。
かわりに新幹線の白い車体が時折用事の合間に見られるようになる。
 
山陽本線の快速電車で神戸へ向かう際、魚住辺りで山陽新幹線が走っているのを見ると、「あれに乗ってどこかに行きたいな」と独り言を言う。
実際に何度か新幹線には乗車しているはずだ・・それが楽しい思い出かどうかは別にして。
 
二十八年前、脳内出血の大病を患い、あと何時間生きられるかと医師に言われたが、奇跡的に三か月で退院し勤めも再開した。
この頃、まだ健在だった父方の祖母から会津の親戚宅を訪問する旅行を提案され、しかし、時期は五月の連休・・私がそのためにやっととったチケットは「急行きたぐに」の寝台車で新津へ出て、磐越西線「急行あがの」で会津へ向かうというものだった。
 
「あんた、自分が好きな列車を選んだやろ」
と見透かされはしたが、それはそれなりに旅を楽しんだ様子だった。
今思えば嘗ての「つばめ」「はと」にも何度も乗車したという祖母と、あまり旅慣れしない母があの五八三系電車の三段寝台でどのように過ごしたか・・考えるだけでも少しおかしい。
もちろん、帰路には東京から新幹線に乗っているはずだし、もしかしたら私がまだ一度も乗車したことのない東北新幹線にも乗ったのかもしれない。
 
その旅行はことのほか楽しかったらしく、つい最近までもその話をしていたほどだった。
祖母と母は妙に気が合うようで、自分の実母より義母のほうを本当の母親と思うとよく言っていた。
 
祖母が亡くなったのは神戸の震災の年だった。
三月、未だJR線も灘と住吉の間で途切れていて、母と妻を連れての大阪行きは、私には厳しい案内となった。
まだ肌寒い早春の、電車・バス・電車と降りては並ぶ乗り継ぎで、やっと着いた大阪ミナミの葬祭場の一室で寝ている祖母の小さな体に母はしがみついて泣いた。
 
葬祭場は狭隘で宿泊できず、大阪市内では震災特需のおかげで宿をとることができず、やむなく南海電車の堺駅前のビジネスホテルを使ったが、その南海電車は母にとって苦しい思い出でしかなかった泉大津へ向かう電車だ。
夜の新今宮駅、緑ではなくなった南海電車を不思議そうに見ながら、それでも和歌山市行の急行に乗るとさほど変化のない車内に「懐かしいね」と言っていた。
 
祖母の葬式の帰路、母を連れての過酷な阪神間の基本ルートは難しいと判断した私は、大阪天保山から神戸中突堤への臨時航路を使った。
天保山は私たち一家が六年ほど住んだ思い出の町で、その頃は我が家が経済的にも豊かで、父が元気だった。
 
最初は船のターミナル脇の小さな二階建てのアパート、そして文化住宅、さらに当時は珍しかったエアコン完備のマンションへと移っていった。
その天保山を懐かしく見ながら、そこから船に乗った。
いつもは神戸港の遊覧に使っていそうな船だったが、快適に、あっという間に神戸港へ着いた。
 
母が、いつも船を見ていた天保山から、その船に乗れたのは後にも先にもこの時だけではなかっただろうか。
 
脳の病気をすると腎機能なども衰えることが多いといわれる。
その通りに母は腎不全を患い、やがて透析患者となった。
すでに加古川の家を出て神戸に住んで長く、しかも一昼夜勤務の私には、時折ある病院からの呼び出しに付き合うのは苦痛でしかなく、医師の勧めもあり、私の現住地の近くで母に生活してもらうことになった。
 
その場所は緑に囲まれたニュータウンで、部屋の真横に大きな桜の木があり、「なんてきれいなところ」と喜んでくれたが、海は母の足には遠い。
透析の病院も転院となり、最初はそこへ送迎車で通っていたが、やがて病状の悪化とともに、入退院を繰り返すことになる。
その病院というのが私の仕事場のすぐ近く、丘に広がるニュータウンの中にあり、デイルームからは明石海峡がよく見えた。
母が入院するたびに、私は病院の夕食時刻には食事介護に行き、母をデイルームに連れて行って食事をしてもらうようになった。
 
ちょうどその時刻は天津への国際航路や、新居浜や高松へのフェリーが通過する頃で、母と気がすむまで船を眺めたものだ。
思えば、母が好きな船をゆっくりと眺めることができたのはこの時だけだったのかもしれない。
 
別の拠点病院へ検査のために行くとき、介護タクシーが明石川を渡るときだ。
ちょうどすぐ南の新幹線橋梁をN七〇〇の真っ白な車体が流れていく。
速度があまり高くなく、たぶん西明石に停車する「ひかり」だろうか。
白く長い車体を見て母が感嘆の声を上げた。
「きれいな電車!あれに乗りたい!」
 
だがすでにその時は歩くのはおろか、身体を支えるのも困難になっていた。
出来れば、母と一緒に新幹線か船の旅がしたかった。
 
そういえば、父も大変、乗り物が好きで、母いわく「三ノ宮から大阪まで、汽車の時間調べてそれに乗りよんねん。乗ったら駅弁、恥ずかしかったわ」といったことがあった。
その頃は長距離の客車列車が走っていて、父はその時刻を知っていたということなのだろう。
それに、我が家が神戸駅の近くだった時、「今夜は駅弁にしよう」と父が言って、駅へ行って駅弁を買ってきたことが何度もあった。
父と天王寺近くを歩いていた時、関西本線の蒸気機関車牽引列車が発車するところに出くわし、しばらく親子で見つめていたことだ。
私の鉄道好きは突然変異でもなんでもなく、両親から引き継いだものかもしれない。
つい数日前、母が最後は一年三ケ月の入院の末に亡くなった。
最後の三か月ほどは病室から出ることもできず、好きな船を見ることもかなわなかった。
子供六人を生み、父亡き後、女手一つで必死に私たちを育ててくれた母。
だが、乗り物を見てそれに喜ぶ少女の気持ちのままの、純粋な女性だったのだと、いま改めて感じているところだ。
 
母と父はあちらの世界で今頃、船か汽車、あるいは新幹線の旅をしているところだろうか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ルミナリエ | トップ | 好きなんだと言いたい人が »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

詩・散文」カテゴリの最新記事