この家に潜む私にとって、暗がりの中が、意外と安心し落ち着くのだ。幼い頃、忍者ブームが続いた。忍者ごっこが我々の遊びの主流だった。私のヒーローは、「伊賀の影丸」だった。市川雷蔵扮する「忍びの者」であった。彼等は黒装束を身に纏い、ひたすら死と向き合い、夜に生きた。私はそんな彼等に、幼き頃、随分憧れたものだった。そして、彼等に近付きたいと、よく物真似をした。隠すということは、「秘密」にするということだ。神秘とか秘宝というように、隠されたものには、それなりの付加価値がある。犬も大好物のホネなどの餌を「独り占め」にしようと、誰にも見付からないよう、掘った穴の中に入れて隠したりする。昔、飼っていた犬を散歩に連れ出すと、野原でよくこの仕草をしていた覚えがある。「独占」するという欲望は、我々の最たる意志の表れだ。誰とも「共有」したくない。自分だけの所有物にする。私などは、秘湯に「魅力」を感じている。隠されたもの、秘められたものに対しては、自ずとパワーを感じる。マックス・ウェーバーの「支配の正当性」で、その三類型が示されたが、「カリスマ」的支配は、正しく秘儀によるものだ。支配者のカリスマ性、すなわち神秘が、支配力となる。我々は根源的に「わからない」ものに恐れおののき、ひれ伏すものだ。「宗教」も秘め事を扱う。従って、そうした宗教に関わる者は、パワースポットに立ち得る者となる。人類史は、長きに渡る宗教の時代を経て、「ルネサンス」を迎えた。ルネサンスは隠されたものを次々と露わにする時代だったとも言えるだろう。独占されていたパワーが暴露され、その力が拡散され大衆化していく段階であった。「パワーの共有化」がなされる時代を迎えた。ルターの「万人司祭主義」はその象徴である。司祭に宗教的パワーが独占されていたのを、誰もがパワーを所持できるように改革したのだ。
隠したい最たるものは何だろうか。生まれてこの方、どの位、排泄してきただろう。毎日、大小便を放出し続けてきた。排泄する際の感覚は、やはり気持ちいい。この年まで、何とか大したトラブルもなく排泄機能が順調に働いてくれた。感謝である。これが一度、崩れたら、難儀なことになるだろう。普段、何気なく営めている行為が、快感でなく苦痛となってしまえば、これは大変だ。まがりなりにも、排泄コントロールが可能である現在だが、近い将来、これが出来なくなるだろう。老いは、排泄との対峙である。排泄物は異物として忌み嫌われるが、大切なものなのだ。排泄された大小便でその時の健康状態がほとんど分かるのである。いつも我々の腹の中に、大切な「宝物」として、埋蔵、否「腹蔵」している。人間は臭いモノを腹に隠し持っているのだ。臭い話だが、これを忘れてはならない。電気エネルギーを享受し、文明社会を謳歌する現代も、原発というクサイ物を腹蔵し、そのどうしようもない危うさを覆い隠しながら成立している。
数年前、フクシマ原発事故で放射能汚染を気にしていたつもりだったが、それも束の間、もう語ることもしなくなった。民主党政権に淡い期待を抱いたのも、今は昔、後の祭り。こんなふうに、ほとんどの事は、直ぐに飽きてしまい、顧みなくなってしまうのが常。そして、「忘却の彼方」へとなる。「戦争」の記憶も同様だ。もう、あの戦争から70年が経ったのだから。忘れたくないから、備忘録など「書く」という行為となるのだろう。従って「忘れる」と書くということは不可分の関係となる。また、歳をとるにつれ、手帳によくメモをする。そうした手帳を片手に、記憶がどんどん消滅していくことの、何とも言えぬ怖さと、対峙していく。









