冨士大石寺顕正会 一国諫暁

 顕正会は、末法の御本仏・日蓮大聖人の御遺命たる
国立戒壇建立を見つめて戦う唯一の仏弟子の集団です。

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2020-08-12 | 御遺命守護の戦い・御遺命成就の戦い 冨士大石寺顕正会々長浅井先生 著


 日蓮大聖人は、末法濁悪の人と国を、根底からお救い下さる大慈大悲・絶大威徳の御本仏であられる。

人生の目的は成仏にある


 人生の目的を知らずに生きているのは、行先不明のバスに乗っているのと同じである。
 人生の目的は実に成仏を得るにある。
 成仏とは、生死を乗り越えて永遠に崩れぬ、無上の幸福境界をいう。
 日蓮大聖人の仏法を実践すれば、いかなる人も宿命が変わり、現世には幸いを招き、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得る。
 これが成仏の境界である。
 死後の未来のことなどわからぬ、という人もあろう。
 しかし仏法は空理・空論ではない。
 すべて証拠を以て論ずる。
 その証拠とは臨終の相である。
 臨終は一生の総決算であると同時に、臨終の相に、その人が死後の未来に受けるべき果報が現われる。
 だから臨終は人生の最大事なのである。
 ゆえに日蓮大聖人は
 「されば先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と仰せられている。
 では、地獄に堕ちる相、あるいは成仏の相とはどのようなものかといえば
 大聖人は
 「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。
 善人は設い七尺八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる、又軽き事鵞毛の如し、輭なる事兜羅綿の如し
」と。
 すなわち、地獄に堕ちる者は、死してのち遺体が黒くなるうえ、硬く、重くなり、恐ろしい形相となる。
 一方、成仏する者は、臨終ののち色が白くなり、軽く、柔らかく、かつ何とも柔和な相となるのである。
 臨終の相だけは人の意志の及ぶところではない。
 この因果の法則を説き切るのは、日蓮大聖人の仏法だけである。
 地位や財産による幸福はすぐに崩れる。
 現当二世(現世と来世)にわたり永遠に崩れぬ幸福は、成仏の境界以外にはない。
 日蓮大聖人こそ、我ら凡夫を仏にして下さる大慈大悲の御本仏であられる。

立正安国論の予言的中
 

立正安国論


 国家の興亡盛衰の根本原因は仏法の正邪による。
 もし国中が邪法を信じて正法に背けば国に災難が起こり、正しい仏法を立てれば国は安泰になる。
 これ仏法と国土を守護する諸天善神の力用による。
 日蓮大聖人は時の国主に対し、立正安国論を以て
 「念仏・真言・禅・律等の邪法に執着して、法華経の肝心たる三大秘法を立てなければ、この国必ず他国侵逼の大難を受ける」(取意)と諫められ、さらに
 「国を失い家を滅せば、何れの所にか世を遁れん」と警告された。
 しかし日本は四方を海で囲まれている。
 当時、この他国侵逼の御予言を信ずる者は誰もいなかった。
 だが十四年後、御予言は事実となった。
 世界を席捲した大蒙古が、日本を亡ぼすに足る圧倒的な兵力を以て二度も襲来したのである。
 日蓮大聖人の御予言は、海外情勢などによる推測などではない。
 実に、仏法を守護する諸天善神に申し付ける絶大威徳を以ての御断定であれば、違うことがないのである。
 もし他国侵逼が事実になれば、人々は始めて改悔の心を起こし、死後の無間地獄の大苦を消滅させることができる。
 立正安国論の御予言はまさにこの大慈大悲であられる。
 ゆえに大聖人は
 「現世に云いおく言の違わざらんを以て、後生の疑いをなすべからず
 また
 「あへて憎みては申さず、大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり」と仰せられている。
 また、この予言的中を見れば、もし日本国一同が日蓮大聖人を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉り、御遺命のままに国立戒壇を建立すれば、日本は仏国となって真に安泰になること、断じて疑いない。
 これが「立正安国」の実現である。

国家権力も御頸切れず
 

竜の口刑場付近の砂浜


 日蓮大聖人の折伏に対し、教義上の反論ができぬ邪僧らは、民衆を煽動し国主に讒奏して、大聖人の命を奪わんとした。
 かくて、ついに国家権力による死罪が執行された。
 文永八年九月十二日の深夜、大聖人は竜の口刑場の「頸の座」に坐し給うた。
 そして大刀まさに振り降ろされんとしたその刹那、「月のごとく光りたる物」が突如出現し、太刀取は目がくらんでその場に倒れ伏し、数百人の兵士たちも一斉に逃げ出し、みなことごとく砂浜にひれ伏してしまった。
 ひとり頸の座にまします大聖人は高声に
 「頸切るべくわ急ぎ切るべし。
 夜、明けなば見苦しかりなん
」と死刑執行を催促された。
 しかし近よる者とてない。
 まさに国家権力が、ただ一人の大聖人の御頸を切れず、かえってその絶大威徳の前にひれ伏してしまったのである。
 このような不可思議・荘厳な光景は、この地球上に未だ曽てない。
 この思議を絶する大現証こそ、日蓮大聖人が久遠元初の御本仏、末法の全人類をお救い下さる仏様であることを顕わすものである。

残された時間は少ない


 大聖人は流罪の地・佐渡の雪中において
 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」と叫ばれた。
 すなわち、日蓮大聖人を信ずるか背くかによって、日本国の有無も、人類の存亡も決するということである。
 いま世界は核兵器使用の第三次大戦の瀬戸際にあり、人類は絶滅の危機に瀕している。
 その中で日本は軍事超大国・中国の侵略に脅えている。
 この国に大慈大悲・絶大威徳の御本仏ましますを無視し、背き続けたゆえに、いま日本は亡国を招かんとしているのである。

 この大国難には、日米安保も第九条も虚しい。

 今こそ全日本人は、大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。
 
 残された時間は少ない。
 
 
 
広告文と遥拝勤行で広宣流布は成る

誰人も否定できぬ三つの大現証
広告文と遥拝勤行で広宣流布は成る


一、人生の目的は成仏・臨終の証拠
二、立正安国論の予言的中
三、国家権力も御頸切れず

広告文と遥拝勤行で広宣流布は成る


戦争法案も第九条も日本を守れない
なぜ西隣に核軍事大国が出現したのか
すべては仏法より事起こる

日蓮大聖人の絶大威徳・大慈大悲を拝せ


遥拝勤行の大功徳
広告文と遥拝勤行で広宣流布は必ず成る


無量無辺の大功徳
戒壇の大御本尊より外に仏に成る道なし


戒壇の大御本尊の無量無辺の功徳
遥拝勤行こそ広布最終段階の信行の姿


勤行とは御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉る修行
遙拝勤行(ようはいごんぎょう)の仕方(しかた)




今こそ全日本人は、
大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、
国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。

 

 日本は今、亡国の前夜を迎えている。
 その亡国は、どのような災難によってもたらされるのかといえば──
 まもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病(感染症)等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆(国内の分裂抗争)と他国侵逼(外敵の侵略)が起こるのである。
 これは凡夫の私が言うのではない。
 日蓮大聖人が立正安国論の奥書に「未来亦然しかるべきか」と示されるところによる。
 日本国は七百年前、この国にご出現された大慈大悲の御本仏・日蓮大聖人を、二度も流罪し、ついには竜の口の刑場で御頸まで刎ねんとした。
 この大逆罪はたちまちに「大蒙古の責め」という大罰となって現われ、国まさに亡びんとした。
 しかるに日本の人々は改悔なく、今に至るまで日蓮大聖人を信ぜず、背き続けている。
 仏法まことならば、どうして国の保つことがあろうか──。
 ここにいま「」来たって、日本国は再び亡国の大難を受けんとしているのである。
 しかしこの恐るべき亡国の大難が起きても、もしその起こる所以を知らなければ、人々はただ恐れ戦くのみで、これが「日蓮大聖人に背くゆえ」とは知るよしもない。
 したがって大聖人に帰依信順することもない。
 そうであれば、日本はそのとき必ず亡ぶ。
 よって日蓮大聖人の弟子として私は、前もってこれを全日本人に告げ知らしめて国を救わんと、本書を著わした次第である。──
 
 末法の世を迎え、御本仏日蓮大聖人が出現され、根源の大法・南無妙法蓮華経をもって全人類を救済される。
 全人類にとって、成仏の叶う唯一の大法を、身命も惜しまずお勧め下さるこの仏様こそ、まさしく主君であり、師匠であり、父母であられる。
 しかるに当時の日本国一同は、この主・師・親三徳の日蓮大聖人を悪口罵詈し、流罪し、ついには御頸までも刎ねんとした。
 この悪逆を見て、どうして諸天が怒らぬことがあろうか。
 ここに一国を罰する大災難が起きたのである。
 さらに御入滅後においても、日本一同がいつまでも背き続け、加えて門下までも御遺命に背いて仏法を乱す時が来れば、諸天はこれを許さず、覚醒せしむるために大罰を下す。
 これが、いま起こらんとしている広布前夜の亡国の大難なのである。
 大聖人はこの在世・滅後の二つの大災難の様相を、新尼抄に一文を以て兼ねて示されている。
 「末法の始めに謗法の法師・一閻浮提に充満して、諸天怒りをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。
 大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、乃至、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん
」と。──
 私が本書の冒頭に「まもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆・他国侵逼が起こる」と記したのは、まさしく立正安国論およびこの御文による。
 まもなく日本にこの大災難が必ず相次いで起こる。
 ゆえに前もってこれを告げ知らせたのである。
 御文を拝する──まず「諸天怒りをなし」とある。
 次文以下の諸災難のすべてが諸天の力用によること、刮目してみるべきである。
 「彗星は一天に……」はすでに平成九年に現じている。
 「大地は大波のごとくをどらむ」はまもなく始まる巨大地震。
 「大旱魃・大火・大水・大風」は異常気象による大災害。
 これら自然の猛威の前には、人間は全くの無力となる。
 「大疫病」とは感染症の大流行。
 「大飢饉」とは食糧危機と経済的飢渇たる国家破産。
 「大兵乱」とは自界叛逆と他国侵逼である。
 そして「一閻浮提(全世界)の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時」とは、地球規模の大戦乱が起き、世界中の人々が武器を手にする時──ということである。
 いま大量破壊兵器は地球上に拡散し、反米の嵐は収まるところを知らず世界に広がっている。
 いずれ国際テロ組織は大量破壊兵器を手に入れるであろう。
 このテロ組織を背後で操る国々もある。
 そしてついには米中対決にいたる。
 まさしく世界中が殺気立ち、武器を手にする時が来るのである。
 その結果、「諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時」となる。

 この人類滅亡にいたる恐ろしき末法濁悪の未来のため、大聖人は「五字の大曼荼羅」すなわち本門戒壇の大御本尊を、日本国に留め置き給うたのである。──
 
 では、大聖人に背くと、なぜこのように国に災難が現われるのか、罰があらわれるのであろうか。
 それは、宇宙的スケールの力用を持つ「諸天善神」が、日蓮大聖人を常に守護し、その後化導を助けまいらせているからに他ならない。
 立正安国論にはこの理を、災難のおこる原理に約して次のごとく示されている。
 「世皆正に背き、人悉く悪に帰す。
 故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。
 是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる。
 言わずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず
」と。
 文意を端的にいえば──
 もし一国こぞって日蓮大聖人に背くならば、仏法を守護する諸天善神の働きにより、国に災難が起こる──ということである。
 このことは、世間の常識では理解しがたいとは思われる。
 しかし、わかろうとわかるまいと、真実のことはどうしても言わねばならぬ。
 「言わずんばあるべからず」なのである。
 では「諸天」とは何かというと、十界の中の天上界の衆生である。
 この宇宙法界には、仏法を守護する天上界の生命活動を存在している。
 梵天・帝釈・日月・四天等がこれである。
 目には見えないが、その存在を疑ってはならない。
 人類はつい近年まで、ウイルスの存在も、ブラックホールの存在も知らなかったではないか。
 しかし人の知・不知にかかわらず、これらは存在していたのである。
 だから、固定観念にとらわれて諸天の存在を否定すれば、慢心・偏見ということになる。
 まして、大聖人の御化導の上に現われた諸天の厳然の働き、この現実の証拠を見れば、これを否定できる人は一人もないはずだ。
 この諸天の働きはどのようなものかといえば──
 もし一国こぞって日蓮大聖人を迫害すれば、諸天はまず大地震・大彗星・異常気象・大飢饉・大疫病(感染症)等を発生させてその国を諫める。
 しかるに迫害なお止まなければ、人の心に入って自界叛逆せしめ、ついには隣国の王の心を動かしてその国を責めしめる──と経文・御書には示されている。
 地震・異常気象・ウィルスの発生など、自然現象と見られるものも、表面の発生メカニズムは科学者の説明するごとくかも知れぬが、その根底には、諸天の力用が作用しているのだ。
 まさに諸天の力用は時空を超えた宇宙的スケールなのである。
 この諸天が、日蓮大聖人を常に守護し、その御化導を助けまいらせている。
 ゆえに竜の口のあの大現証も起きたのである。
 いかに狂気の権力者が大聖人の御命を奪わんとしても、奪うことはできなかった。
 このことを大聖人は「設い大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば、梵釈・日月・四天等、天照大神・八幡の守護し給うゆえに、罰しがたかるべし」(出世本懐成就御書・別称 聖人御難事)と仰せられている。
 また、大慈大悲の御本仏を流罪・死罪にすれば、諸天は必ずその国を治罰する。
 このことを「日蓮は一閻浮提(世界)第一の聖人なり。
 上一人より下万民に至るまで之を軽毀して刀杖を加へ流罪に処するが故に、梵と釈と日月・四天、隣国に仰せ付けて之を逼責するなり
」(聖人知三世事)と。
 さらに深く見れば、この蒙古の責めは大聖人が諸天に申しつけ、起こさしめ給うたものである。
 これ一国を改悔させ、後生の無限地獄の大苦を今生に消さしめんとの大慈大悲であられる。
 ゆえに「法華経の敵となりし人をば、梵天・帝釈・日月・四天 罰し給いて、皆人に見懲りさせ給へと申し付けて候。
 日蓮 法華経の行者にてあるなしは、是れにて御覧あるべし。
 こう申せば国王等は、此の法師の威すと思えるか。
 あへて憎みては申さず、大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり
」(王舎城事)とは仰せられる。
 このように末法の御本仏は、諸天を随え、申し付ける大境界であられればこそ、その主徳を「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」とお示し下さるのである。──
 
 次いで大聖人は、国中の邪法の代表として念仏宗を挙げ、その邪義を徹底して破折された上で「早く天下の静謐を思わば、須く国中の謗法を断つべし」と国主に促がされている。
 そして文末にいたって、もし邪法に執着して日蓮大聖人に背き続けるならば、必ず他国によって我が国が破られることを断言されている。
 このご予言は安国論の肝要であるから御文を引く。
 「先難是れ明らかなり、後災何ぞ疑わん。
 若し残る所の難、悪法の科に依って並び起こり競い来らば、其の時何んが為んや
」と。
 「先難」とは天変地夭など亡国の前兆としての災難。
 「後災」とは亡国をもたらす他国侵逼・自界叛逆の二難である。
 先難がすでに現われている以上、後災の来ることは疑いないとして、もしこの二難が事実になったら「其の時何んが為んや」と厳しく誡められている。
 ついで後災の二難の恐るべきことを「帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。
 而るに他方の賊来りて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや、豈騒がざらんや。
 国を失い家を滅せば、何れの所にか世を遁れん
」と強々と教示下されている。──
 
 日興上人は鎌倉幕府への申状において「所詮末法に入っては、法華本門を建てられざるの間は、国土の災離日に随って増長し、自他の叛逆歳を逐うて蜂起せん」と仰せ給う。
 この御意は日蓮大聖人の御入滅後においては、三大秘法を立てない間は、国土の災害は日ごとに増大し、自界叛逆・他国侵逼の災難は歳を逐って激しくなる。
 すなわち、日蓮大聖人に背き続けている間は、罰はだんだんと深刻になる、ということであります。
 歴史を見ればこのとおりでしょう──。
 大聖人御入滅後、ほどなくして日本は、天皇が二人同時に立つという歴史始まって以来の事態が発生し、これが五十数年も続いた。
 いわゆる南北朝時代ですね。
 そしてこれに源を発して応仁の乱が始まり、やがて日本全土が血を血で洗う戦国時代になった。
 これが百数十年間も続いたのです。
 さらに明治以降は日清・日露・日中・日米戦争と、相次いで他国との戦争に巻き込まれ、昭和に至って日本は、アメリカを主とする連合国に敗れ、三百数十万の犠牲者を出して悲惨な敗北を喫した。
 まさに大聖人に背き続けるゆえに罰は歳を連って深刻になり、ついに昭和二〇年、始めて敗戦したのです。
 では、罰はこれで終わったのか。
 そうではない。
 「大罰未だ終わらず」であります。
 戦後七〇年の平和というのは、戦勝国アメリカに保護されての「属国的平和」に過ぎないのです。
 アメリカの占領政策の根幹は、日本を弱体化して、二度とアメリカの脅威にならぬ国にするところにあった。
 そのために「日本国憲法」を与えて戦争を放棄させ、交戦権を否認させ、さらに一切の戦力を保持させないことにしたのです。
 だが、これで国家が存立できますか──。
 戦争をしないのはいい。
 しかしもし他国から侵略されたらどうするのか。
 交戦権もない、戦力もないでは、国家は存立できない。
 そこで、必然的にアメリカに守ってもらうということになる。
 これがアメリカの占領目的だったのです。
 すなわち、アメリカに依存しなければ生存できない日本にするということです。
 そしてこの枠組みを法律的に定めたのが、日本国憲法と日米安全保障条約の二つだったのであります。
 かくて日本は、国防という国家にとっての最大事を、アメリカに委ねて生存することになった。
 そしてカネ儲けに専念し、その利益をまたアメリカに還元する。
 すなわち米国債を購入してアメリカの財政に貢献する、というような形の国になってしまった。──
 
 日米安全保障条約というのは、言ってみれば、日本の生命維持装置ですよ。
 これがなくなれば日本は存立できない。
 そして、この安保条約の解消をもっとも強く望んで、様々な工作しているのが中国です。
 遠からずアメリカは国益のために、この条約を解消せざるを得なくなる。
 それは二〇年代に起こると私は思っている。
 同時に日本への侵略が始まるのです。
 もしこの侵略に抗して戦えば日本全土は廃墟となる。
 もし屈伏すれば日本は中国の属領となってすべてが奪われる。
 これが亡国です。
 まさに日本は今、国家存亡の渕に立っているのであります。
 しかし日本の人々は誰もこれを知らない。
 政治家は驕って事態の深刻さを見つめようとしない。
 眼前の人気取りに心を奪われ、国家の安危を憂えないのです。
 大聖人様は富木殿御書に「夫れ賢人は安きに居て危うきを欲い、佞人は危うきに居て安きを欲う」と。
 賢人というのは、まだ事が起こらぬ以前に将来の危機を憂えるが、愚かで心の曲がった者は、危機が眼前に迫っているのに目先の安逸を貪るものである──
 
 敵国条項というのは、国連憲章五三条一項に定められている。
 つまりわかり易く言えば 第二次大戦の敗戦国である日本やドイツが、再びナチズムや軍国主義を復活させて侵略政策を開始するようなことがあったならば、戦勝国のメンバーは安全保障理事会の許可がなくても、一方的に日本あるいはドイツを攻撃してもよい──という定めです。
 中国はこの戦勝国のメンバーに入っているのです。
 国連憲章は国際法上の最上位に位置しているから、日米安保条約よりも優先される。
 もし中国がこれを適用したら、アメリカは手が出せない。
 いやそれ以前に、もうアメリカはすでに中国とは対決できなくなっている。
 「東風41」「巨浪2号」という、アメリカ本土の大都市を一挙に壊滅し得る核戦力を持った中国と対決をしてまで、アメリカは日本を守ろうとはしない。
 「核の傘」はすでにないのです。
 孤立した日本は、どうやって国を守るのか。
 さらに日本の憂いは敵国条項だけではない。
 中国には、日本を侵略する必然があるのです。
 ということは、やがて中国経済は崩壊する。
 国内は大混乱に陥る。
 そのとき、中国共産党が政権を維持するには、反日・憎日を煽って日本を侵略する以外にはないのです。──
 
 諸天の守護がなければ、すべては虚しくなるのです。
 ゆえに大聖人様は「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず、果報つきぬれば所従もしたがはず」(四条抄)と仰せられる。
 国に福運がなくなり、諸天の守護がなくなれば、何をやっても裏目に出てしまうのであります。
 では、どうしたらこの大国難に打ち勝つことができるのか。
 大聖人様は「立正安国」と仰せ給う。
 正しい仏法を立てれば自ずと国は安泰になる。
 さらに大聖人様は「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」と仰せあそばす。
 一国こぞって日蓮大聖人に背くゆえに、諸天はこの国を捨てる。
 ゆえに他国侵逼が今、迫って来たのであります。──
 
 では、日本は中国の脅威に、どう対応したらいいのか──。
 自虐史観の者たちは平和憲法にしがみついている。
 だが、戦争放棄・戦力放棄の「第九条」で国が守れるなどというのは、空虚な観念論にすぎない。
 一方、「日本を取り戻そう」という皇国史観の者たちは「自主防衛」を叫んでいるが、この行き着くところは核武装となる。
 これは一見、現実的兵法のごとくに見える。
 しかし、これはかえって日本の命取りになるのです。
 「運きはまりぬれば兵法もいらず」とは、このことであります。
 いいですか。
 もし日本が核武装を進めたら、どうして中国が黙っていようか。
 必ず先制攻撃をして日本を潰滅させるに違いない。
 その先制攻撃に核を使用する必要はない。
 核を使用すれば国際社会から非難される。
 核弾頭を使用しなくとも、中国はすでに強力な通常弾頭を搭載した、日本に照準を合わせた長距離射程ミサイルを、多数配備しているのです。
 アメリカ海軍アドバイザーで中国軍事に詳しい政治社会学博士の北村淳氏は、著書「尖閣を守れない自衛隊」において
 「中国軍は、日本全土を射程圏に収めているさまざまな長射程ミサイル、すなわち中距離弾道ミサイルと長距離巡航ミサイルを多数保有し、その数は日々、増加し続けている。
 この長射程ミサイルは、中国本土の陸上からでも、上空や海上や海中からでも、日本各地の戦略目標を破壊する攻撃能力を持っている」と。
  「日本各地の戦略目標」とは、原発をはじめとする重要施設です。
 もし日本列島の五四基の原発が、このミサイル攻撃によって、福島原発事故以上の大爆発を一斉に起こしたら、日本は瞬時に潰滅してしまうではないか。
 しかもこれを防ぐ手段は日本にはない。
 また、たとえ先制攻撃を受けずに核武装に成功したとしても、「仏法より事起こる」の侵略、諸天の責めならば、それを防ぐことはできない。
 ゆえに下山抄には「真の天の責めにてだにもあるならば、たとい鉄囲山を日本国に引き回らし、須弥山を蓋いとして、十方世界の四天王を集めて波際に立て並べて防がんとするとも……」と仰せあそばす。
 諸天の真の責めによる侵略、すなわち日蓮大聖人に背くゆえに起きた侵略ならば、いかなる重装備、たとえ核武装をするとも、防ぐことはできないということです。
 だから自虐史観もダメ、皇国史観もダメ。
 平和憲法に頼るのもダメ、核武装に頼るのもダメだと、私はいうのです。
 諸天の守護がなければ、すべては虚しくなるのです。
 この日本には、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人がまします。
 諸天に申し付ける絶大威徳の御本仏がましますではないか。
 どうしてこの御本仏を、杖・柱と頼みまいらせないのか。
 弘安二年十月、二度目の蒙古侵略を前にして脅える幕府に対して、大聖人様は滝泉寺申状を以てこう仰せられた。
 「聖人国に在るは、日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり。
 諸竜を駈り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし
」と。
 久遠元初の御本仏がこの国にましますということは、日本国の大きな喜びであって、これを侵さんとする蒙古国にとっては大きな憂いとなる──と。
 御本仏のご存在は、これほど重大なのです。
 当時の日本はこの御本仏を流罪・死罪に処し奉ったゆえに、諸天はこの国を罰した。
 しかし大聖人様は大慈大悲を以て、冥々のうちに日本国を御守護下された。
 私が成人式で述べたように「大聖人様の御頸は刎ねて刎ねられず、日本国の柱は倒して倒されず、よって日本も亡んで亡びず」であった。
 まさに大聖人様が冥々のうちに御守護下されたのです。
 見てごらんなさい。
 圧倒的な蒙古筆の襲来が、二度が二度とも、不思議の大風によって退けられているではないか。
 まさしくこれ、大聖人様の申し付けによってなされた、諸天の働きであります。──
 さらに大聖人様は同申状に仰せられる。
 「君既に賢人に在さば、豈聖人を用いずして徒に他国の逼めを憂えんや」と。
 時の国主・北条時宗よ、もし賢人であるならば、どうして大聖人を用いずして、いたずらに他国の逼めを憂えるのか──と。
 この仰せは、御在世の日本国と同時に、広布前夜の今の日本国に、仰せ下されたものであります。
  「聖人を用い奉る」とは、国立戒壇を建立するということ。
 すなわち日本一同に日蓮大聖人を恋慕渇仰して南無妙法蓮華経と唱え奉り、国立戒壇を建立することです。
 これよりほかに日本が滅亡を遁れる術は断じてない。──
 
 今こそ全日本人は、大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。

 日本に残された時間は少ない──。
 立正安国論の「其の時、何んが為んや」同奥書の「未来亦然るべきか」の仏語は重い。

 
国家諫暁
立正安国論謹講

 
一国諫暁
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
日蓮大聖人を信ずるか背くかによって、日本国の有無も、人類の存亡も決する

日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ

 
 
 
確固たる歴史認識を持て

明治維新以後の四つの戦争
仏法の鏡に照らして見よ
侵略戦争ではないが罰
「大闘諍」はこれから
「豈聖人を用いずして徒に他国の逼めを憂えんや」
「なぜ聖人の言葉を用いずして、いたずらに他国の逼めを憂えるのか」

自虐史観を捨て 仏法史観に立て

 

日蓮によりて日本国の有無はあるべし
この仰せこそ仏法史観の骨髄・肝心
自虐史観も皇国史観も国を亡ぼす

 

自虐史観もダメ、皇国史観もダメ、早く仏法史観にめざめよ
お救い下さるは日蓮大聖人ただ御一人
早く日蓮大聖人に帰依して国立戒壇を建立すべし

 

日蓮によりて日本国の有無はあるべし
中国の核(東風41・巨浪2)ついに米国本土を制す
日本国亡国の危機、安保条約の解消も



広宣流布は歴史の必然

日蓮大聖人こそ日本の柱、早く国立戒壇を
相次ぐ三災七難は他国侵逼の先兆

米・中両国の力関係に歴史的地殻変動

 
 
 
日蓮大聖人の仏法を実践

なぜ信心(しんじん)せねばならぬか
人生の目的は実に成仏を得るにある。
成仏とは、生死を乗り越えて永遠に崩れぬ、無上の幸福境界をいう。
日蓮大聖人の仏法を実践すれば、いかなる人も宿命が変わり、現世には幸いを招き、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得る。──
地位や財産による幸福はすぐに崩れる。
現当二世(現世と来世)にわたり永遠に崩れぬ幸福は、成仏の境界以外にはない。

 
勧誡の二門
 
勧門
一念信解を御教示下された

四信五品抄を拝し奉る

 
誡門
不退の信心を御教示下された

兄弟抄を拝し奉る

 
 
 
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最新の顕正新聞特集号
 

「顕正会こそ諫臣・争子」特集号

 
 
 
前科ある上は、なおさら
「日蓮正宗・責任役員会」の議決を以て「国立戒壇否定」を取り消し、
その上で、管長として御遺命の正義を宣示しなければいけない。


 それに付けても憂うべきは、いま日本に迫りつつある災難の根源が、まさに正系門家の御遺命違背にあるということである。──

 されば、すでに言い尽くしたことではあるが、改めて御遺命の大事と宗門の違背について、その大略を申し述べる。
 日蓮大聖人御遺命の戒壇とはどのようなものかについて、これまで学会・宗門は曲会の限りを尽くしてきた。
 しかしその相貌は三大秘法抄・一期弘法抄に赫々明々で、異論をさしはさむ余地もない。

 今その御聖意を謹んで約言し奉れば 広宣流布の暁に、国家意志の公式表明を以て、富士山天生原に建立される国立戒壇こそ、御遺命の戒壇であり、これを事の戒壇という。

 されば第二六世・日寛上人は報恩抄文段に「事の戒壇とは、即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」と仰せられ、その証として一期弘法付嘱書を引いておられる。
 この「事の戒壇」が国立戒壇であることは、第五九世・日亨上人の「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)
 また第六五世・日淳上人の「蓮祖は国立戒壇を本願とせられ、これを事の戒壇と称せられた」(富士一跡門徒存知事の文に就いて)等の諸指南に明々白々である。
 さらに第六四世・日昇上人は昭和三〇年、新御宝蔵たる「奉安殿」の落慶に臨み、次のごとく宣言されている。
 「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れり。
 国立戒壇こそ本宗の宿願なり。…
 血脈付法の法主を継げる日昇、…今落慶の式を行い、此処に戒壇の本尊を永久に安置し奉るなり。
 『時を待つべきのみ、事の戒法とは之れなり』の金言を身に体して、必ず来るべき国立戒壇建立の暁まで守護すべし。
 後々の法主も一心同体たるべきと確信す。
 願くば宗祖大聖尊の法魂、安穏に常住し給わんことを
」と。
 この凛呼たる宣言を拝すれば、二祖日興上人以来、正系門家・富士大石寺が「国立戒壇」を唯一の宿願として来たこと、また国立戒壇建立のその日まで、戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉ることを専一とされて来たこと、了々として明らかである。
 さらに日昇上人は深き慮りを以て「必ず来るべき国立戒壇建立の暁まで守護すべし。
 後々の法主も一心同体たるべきと確信す
」と念言されている。
 次の第六五世・日淳上人は「国立戒壇」堅持の英邁の正師であられた。
 ゆえに総本山の元旦勤行にこと寄せて「この元朝勤行とても…二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります」(大日蓮・昭和34年1月号)と仰せられている。
 悲しいかな、正系門家において国立戒壇の御遺命が堅持されたのは、この日淳上人までであった。
 次は第六六世・細井日達。
 この人も登座直後は「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華・昭和35年1月号)と正論を述べていた。
 だが、この六六世・細井日達と、次の六七世・阿部日顕によって、御本仏の御遺命は破壊されたのであった。
 広布前夜の正系門家を、第六天の魔王が壊乱せぬ道理はない。
 天魔は御本仏の御遺命成就を阻止せんと、まず政治野心に燃える池田大作の身に入った。
 池田は忽ちに「国立戒壇は選挙の妨げになる」との邪見を起こし、国立戒壇を否定するために偽戒壇・正本堂を建て、これを時の貫首に「御遺命の戒壇」と承認させようとした。
 このような非常事態が未来に起こるを慮られ、二祖日興上人は「衆議たりと雖も仏法に相違あらば、貫首之を摧くべき事」とご遺誡されている。
 だが、細井日達は諂いの人。
 大聖人の御眼も恐れず、日興上人の御誡めも無視して、池田大作の意のままに正本堂を御遺命の戒壇と承認し、さらに「国立戒壇は本宗の教義ではない」(大日蓮・昭和50年9月号)と言い放ったのであった。
 このたばかりをなすに当って細井日達は、なんと「事の戒壇」の定義まで変更しているのである。
 次の阿部日顕はさらに諂曲の人。
 中国の天台僧・一行が、真言の善無畏にそそのかされて大日経の疏を造ったごとく、池田大作の意向のままに「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」なる二冊の悪書を著した。
 彼はこの悪書において、三大秘法抄の聖文を切り刻んではその文意を一々に曲会し、あたかも正本堂が御遺命の戒壇に相当するごとくにたばかり、以て国立戒壇を否定したのであった。
 だが、この卑劣をみるべし──。
 彼は小生の平成十六年四月の諌暁書を読むや、その年の八月、総本山に全国の住職を集め、自身の二冊の悪書について次のごとく釈明をする。
 「昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。
 つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。
 そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論である」(大日蓮・平成16年12月号)と。
 曽ては己れの栄達のために池田大作に諂って偽戒壇を賞讃した。
 だが正本堂が崩壊した今となっては二冊の悪書はどうしても破棄せねばならぬ。
 そこで正本堂の大罪をひとり池田になすりつけ、〝正本堂がなくなった今となっては、正本堂についての論義はすべて空論〟と嘯いて、小生の糺明を逃れんとしたのだ。
 これあたかも、イカサマを咎められた博徒が、細工した賽子を打ち砕いて「賽子がない以上、すべて空論」とうそぶくに似ている。
 このような卑劣漢なればこそ、「河辺メモ」における大謗法発言も、身延僧の大石寺招待も平然、そして御本仏一期の御遺命すら破壊し得たのである。
 佐渡御言に云く「外道・悪人は如来の正法を破りがたし、仏弟子等必ず仏法を破るべし。
 師子身中の虫の師子を食む等云々
」と。
 細井日達・阿部日顕の二人こそ、貫首の身として内部から御遺命を破壊した者、まさしく師子身中の虫ではないか。
 かかる時は、日興上人の「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」の御遺誡のまま、仏法を守護せねばならぬのである。
 而して正本堂の誑惑において、戒壇の大御本尊に対し奉る最大の冒涜行為は、正本堂を御遺命の戒壇と見せかけるために、この偽戒壇に大御本尊を居え奉ったことである。
 謹んで思うべし──。
 国立戒壇に安置し奉るべしとて御本仏が留め置き給うた本門戒壇の大御本尊を、あろうことか、国立戒壇を否定するための偽戒壇に居えまいらせたのである。
 御本仏への師敵対、そして戒壇の大御本尊を辱め奉ること、これより甚だしきはない。
 されば御本仏はこの大悪を許し給わず、顕正会をして諌暁せしめ、諸天をして宗門・学会を叛逆せしめ、ついに正本堂を打ち砕かせ給うたのである。
 かくて、宗門・学会一体になって「末法万年の事の戒壇」と讃歎した正本堂は、わずか二六年で潰え去ったのであった。──

 昭和三十九年以来の長きにわたった御遺命破壊のたばかりも、今ようやく最終章を迎えておりますが、この悪事に加わった五人にはみな共通して、戒壇の大御本尊様に対し奉る信心がないことがわかる。
 見てごらんなさい。
 池田大作は、ローマ法王庁に「板漫荼羅に偏狭にこだわらない」と伝えて神父を迎え、また学会版経本から「本門戒壇の大御本尊」の九文字を削除し、さらに原田会長に「弘安二年の御本尊は受持の対象にはしない」などと恐るべき謗言を吐かせている。
 細井日達は、国立戒壇に安置し奉るべき戒壇の大御本尊を、偽戒壇正本堂、しかもキリスト教神父を招いて汚した正本堂に、居え奉った。
 これほどの不敬はない。
 山崎正友は先述のごとく、身延派に「戒壇の大御本尊を攻撃せよ」と嗾け
 阿部日顕と大草はこの大謗法者・山崎と結託した。
 まさしくこの五人は、第六天の魔王に、戒壇の大御本尊様への信を抜き取られてしまったのです。
 大御本尊様への信を失えば、御遺命の国立戒壇を捨てることは当然です。
 これがこのたびの「御遺命破壊」の本質であります。
 だが、大聖人様はこの大悪を断じてお許しにならない。
 ゆえにいま最終章になったのです。
 見てごらんなさい。
 何より偽戒壇・正本堂はすでに打ち砕かれてしまったではないか。
 そして五人を見れば──

 池田大作は平成二十二年五月以来、九年余にわたって「生ける屍」になったままである。
 細井日達は、大事の「御相承」もなし得ずに悪臨終を遂げた。
 山崎正友は、平成二十年十二月に命終して「入阿鼻獄」となっている。──

 阿部日顕は四十年間にわたり「詐称法主」と言われ続け、その間、国立戒壇の誹謗を続けたが、長い病苦の末に昨年九月二十日に命終した。
 その臨終の相も今は隠されているが、やがて明らかになること疑いない。
 これらを見れば、まさに「大陣すでに破れぬ、余党は物のかずならず」との仰せのままであります。──

 また「寄生虫」たる大草などは、宿主を失えば自然消滅するだけです。
 ここに宗門はいま、新しい段階に入らんとしております。
 いつまでも正系門家が御遺命に背いたままでは、「仏法は体、世間は影」であるから、日本が亡んでしまうのです。──

 大聖人様は仰せあそばす。
 「悪は多けれども一善にかつ事なし」また「吾が一門の人々の中にも、信心もうすく日蓮が申す事を背き給わば、蘇我が如くなるべし」と。
 大聖人様に背いて身の保つ者はないのであります。──


 もし戒壇の大御本尊を捨て奉れば、その人は死してのち、必ず阿鼻獄に堕ちる。
 ゆえに法華経の譬喩品には「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」とある。
 この意は、いま末法においては、もし戒壇の大御本尊を信ぜずに謗る者は、死してのち阿鼻獄に入る──ということです。
 「阿鼻獄」とは「無間地獄」のことです。
 無間とは、耐えがたい苦痛が一瞬の間も無く襲うから無間地獄というのです。──

 私は早く八百万学会員を救いたい。
 一日も早く戒壇の大御本尊様に繋がる遥拝勤行に励み、ともに国立戒壇建立に戦う同志となってほしいと、強く念願しております。──


 「議題」には「国立戒壇の名称不使用の件」とあるが、それを説明する「第一号案」(左)には「本宗教義の本質より鑑み」とあって、放棄したのは、単に名称だけではなく「国立戒壇」そのものであることを示している。
 ゆえにこの翌5月に開催された創価学会本部総会において細井日達は「日蓮大聖人は、大聖人の仏法を国教にするなどとは仰せられてない。
 国教でない仏法に『国立戒壇』などはあり得ない」と述べて国立戒壇を否定しているのである。


 私は昨年七月の総幹部会において、早瀬日如管長に対し
 「正本堂崩壊の後も、未だに国立戒壇否定はそのままになっている。
 早く『日蓮大聖人の御遺命は国立戒壇である』と宣言し給え」
 と直諫した。
 だが今に至るまで、何の応対もない。
 ここに思うに、早瀬日如管長は昭和四十年六月以来、宗門の議決機関である「宗会」の議員であった。
 だから当然、昭和四十五年四月の国立戒壇否定の議事録の内容も知っていたに違いない。
 だが、この御遺命破壊を見てもこれに与同していたのである。



 また昭和五十年十月四日の「宗会議員決議書」なる文書には、当時「宗会議員・早瀬義寛」の名を以て署名をしていた。
 この「宗会議員決議書」はいかなる文書かと言うと、解散処分を受けても微動もせず、なおも強く諫暁を続ける顕正会を見て、池田大作が、宗門・学会全体に「猊下に背く顕正会(当時・妙信講)」を印象づけるために作成させたものです。
 ゆえにまず宗門に「宗会議員決議書」を昭和五十年十月四日付で作成させ、その四日後に「創価学会副会長室決議」を作制し、これを共に広く宗門・学会に頒布しているのです。
 この「宗会議員決議書」の中には、次のような文言がある。
 「近来法主上人の再々の御指南にもかかわらず異義を唱える者がありますが、これこそ大謗法と断ぜざるを得ません」と。
 これ御遺命たる国立戒壇を死守する顕正会を「大謗法者」と断じたものである。
 このような決議書に「宗会議員・早瀬義寛」は十六人の議員と共に署名している。
 学会にへつらっての所行とはいえ、いかにも情けない。
 これも大聖人様を忘れているからこそ、このようなことができるのである。
 これらの前科ある上は、なおさら「日蓮正宗・責任役員会」の議決を以て「国立戒壇否定」を取り消し、その上で、管長として御遺命の正義を宣示しなければいけない。
 さもなければ、大聖人様に申しわけないではないか。

 

「近代宗門の歴史と今日の問題」
大石寺の清濁が日本の命運決する
未曾有の濁乱、未曾有の国難到来か



真言密教は亡国の悪法
大御本尊様への信を失えば、御遺命の国立戒壇を捨てる
修羅と悪竜の合戦

大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす
「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ

 

仏法と皇室の関係
仏法と王法とは本源躰一
国立戒壇建立こそ大聖人の究極の大願

大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす
「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ

 

大聖人を無視しての、いかなる政策も軍備も虚しい
御遺命破壊と同時進行で進んだ原発設置

大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす
「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ

 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第十章 御遺命守護の戦い

「諫臣国に在れば則ち其の国正しく、争子家に在れば則ち其の家直し」
御遺命成就の戦い

 
 
 
顕正会発足より今日までの弘通の足跡
 

顕正会発足より今日までの弘通の足跡

 
冨士大石寺顕正会々長浅井先生 著
 
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