冨士大石寺顕正会 一国諫暁

 顕正会は、末法の御本仏・日蓮大聖人の御遺命たる
国立戒壇建立を見つめて戦う唯一の仏弟子の集団です。

今こそ全日本人は、大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。

2020-05-05 | 一国諫暁 冨士大石寺顕正会々長浅井先生 著

立正安国論
 文永元年七月十六日

 旅客来りて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変地夭・飢饉疫癘遍く天下に満ち、広く地上に迸る。
 牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。
 死を招くの輩既に大半に超え、之を悲まざるの族敢て一人も無し。
 然る間、或は利剣即是の文を専にして西土教主の名を唱え、或は衆病悉除の願を持ちて東方如来の経を誦し、或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め、或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え、有るは秘密真言の教に因つて五瓶の水を灑ぎ、有るは坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄し、若くは七鬼神の号を書して千門に押し、若くは五大力の形を図して万戸に懸け、若くは天神地祇を拝して四角四堺の祭祀を企て、若くは万民百姓を哀れみて国主国宰の徳政を行う。
 然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥飢疫に逼り、乞客目に溢れ死人眼に満てり。
 臥せる屍を観と為し、並べる尸を橋と作す。
 観れば夫れ二離璧を合せ五緯珠を連ぬ、三宝世に在し百王未だ窮まらざるに、此の世早く衰え其の法何ぞ廃れたる、是れ何なる禍に依り、是れ何なる誤に由るや。──

 主人の曰く、──
 汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。
 然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。
 十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。
 国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん。
 此の詞此の言、信ずべく崇むべし。


立正安国論奥書

 文応元年太歳庚申之を勘う。
 正嘉より之を始め文応元年に勘え畢んぬ。
 去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の尅の大地震を見て之を勘う。
 其の後文応元年太歳庚申七月十六日を以て宿屋禅門に付して故最明寺入道殿に奉れり。
 其の後文永元年太歳甲子七月五日大明星の時弥々此の災の根源を知る。
 文応元年太歳庚申より文永五年太歳戊辰後の正月十八日に至るまで九ケ年を経て、西方大蒙古国自り我が朝を襲う可きの由牒状之を渡す。
 又同六年重ねて牒状之を渡す。
 既に勘文之に叶う。
 之に準じて之を思うに、未来亦然る可きか。
 此の書は徴有る文なり。
 是れ偏に日蓮の力に非ず、法華経の真文の感応の至す所か。
 文永六年太歳己巳十二月八日之を写す。


立正安国論謹講


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第一章 日蓮大聖人とはいかなる御方か
一、 末法濁悪の世を救い給う御本仏



基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第一章 日蓮大聖人とはいかなる御方か
二、三大秘法を以てお救い下さる ~ 五、 末法下種の主・師・親、大慈大悲の御本仏



基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
一、二十年にわたる御修行 ~ 四、諸天善神とは



基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
五、公場対決を迫る ~ 六、竜の口大法難



基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
七、佐渡御流罪



基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
八、出世の本懐 成就 ~ 九、日興上人に御付嘱




教を知る


 世にある一切の教法の勝劣・浅深を知る、これが教を知ることである。
 諸宗の元祖はことごとく経の勝劣に迷っている。
 ただ中国の天台・日本の伝教のみほぼこれを立て分けたが、未だ仏法の根源である文底秘沈の大法だけは明かしていない。
 ここに大聖人は「鳥はとぶ徳人にすぐれたり、日蓮は諸経の勝劣を知ること華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の弘法にすぐれたり」(開目抄)と仰せられ、五重相対・五重三段・三重秘伝等の教判を以て、余すところなくその奥底を尽くし給うた。
 この大聖人の御指南により、一切の教法の中には、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法こそ最大深秘の正法であると知るを、教を知るというのである。
 以下、五重相対・五重三段・三重秘伝について要旨を説明する。

(一)五重相対

 一切の教法の浅きから深きに至って五重の段階に分け、それぞれを比較相対して、勝劣・浅深を決する教判が五重相対である。
 これを図示すれば次のようになる。


 
①内外相対
 
 内とは内道で、仏教のこと。
 外とは外道で、仏教以外の一切の宗教。
 キリスト教・イスラム教・ヒンズー教・儒教・神道、また新興宗教の天理教・PL教等はみな外道である。
 仏教と外道の根本的違いは、因果の道理を立てるか否かにある。
 たとえば外道はキリスト教にみるごとく、天地万物は神が造ったと説く。
 しかし仏教は、宇宙にある一切の存在は因縁和合により生滅するもので誰人が創造したものでもないと説く。
 このように外道の教えは因果を無視するゆえに虚妄、仏法は原因結果の法則の上に生命・宇宙の実相を説くゆえに真実である。
 開目抄には外道のはかなさを「外典・外道の四聖・三仙、其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫、其の名は賢なりといえども実には因果を弁えざること嬰児のごとし」と仰せられている。
 また儒教は現世だけの道徳的因果は説くが三世の因果を知らず、また人間界だけを見て余界を見ない。
 ゆえにその生命観は浅狭で、三世にわたる真の幸福を知らない。
 ゆえに大聖人は儒教の賢聖を破されて「過去・未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず、不知恩の者なり、まことの賢聖にあらず。
 孔子が『此の土に賢聖なり、西方に仏図という者あり、此れ聖人なり』といゐて外典を仏法の初門となせしこれなり
」(開目抄)と御指南されている。
 以て仏教と外道の勝劣は明らかである。
 
②大小相対
 
 仏教の内にも大乗経と小乗経がある。
 小乗経とは、釈尊一代五時の説法の中には阿含時の十二年間に説かれた四経で、増一阿含・長阿含・中阿含・雑阿含等の経々をいう。
 乗とは教法を乗り物にたとえたもので、衆生を教に乗せて運ぶという意味である。
 小乗は小さな乗り物でわずかな人を近いところに運ぶだけの教えである。
 ゆえに乙御前御消息には「小乗経と申す経は小舟のごとく、わづかに人の二人・三人等は乗すれども百千人は乗せず、設ひ二人・三人等は乗すれども此岸につけて彼岸へは行きがたし」と。
 「わづかに人の二人・三人等」とは、舎利弗・目連等の二乗(声聞・縁覚)のために説かれたゆえである。
 また「此岸につけて彼岸へは行きがたし」とは、阿羅漢果などの小さな悟りは得ても、成仏の大果報はとうてい得られないとのことである。
 すなわち釈尊は、当時インドにおいてバラモンによる享楽主義がはびこるのを見て、まず現世の享楽をいましめるために人生を苦・空・無常・無我と説き、さらに五戒・十戒・二百五十戒等の厳しい戒律を設けた。
 これが小乗経なのである。
 このように小乗経は戒律を主とし、煩悩断滅を目的としたおくまでも一時的方便の教えである。
 もし小乗経の小果に執着すれば、いたずらに空理にふけり無気力と利己の殻に閉じこもらざるを得なくなる。
 ゆえに釈尊は後の権大乗において、小果に固執する二乗を厳しく弾呵している。
 また法華経には「一向に小乗を説きて法華経を説かざれば、仏慳貪に堕すべし」とも説かれている。
 さらに一念三千の上から論ずれば、一念三千は十界互具より始まるのであるが、小乗・阿含経は未だ十界すらも明かしていない。
 このことを開目抄には「俱舎・成実・律宗等は阿含経によれり、六界を明めて四界を知らず。
 十方唯一仏と云って一方有仏だにもあかさず、一切有情・悉有仏性とこそとかざらめ、一人の仏性猶ゆるさず。
 而るを律宗・成実宗等の十方有仏・有仏性なんど申すは、仏滅後の人師等の大乗の義を自宗に盗み入れたるなるべし
」と破されている。
 小乗経に依る宗派は、俱舎・成実・律の三宗であるが、このうち律宗だけがどうやら今日余命を持っている。
 また地域的にみると、小乗経は現在東南アジアのミャンマー・タイ・カンボジャ・ラオス・スリランカ等の諸国に信奉されているが、これら諸国民の苦悩と無気力は小乗経の害毒を如実に示すものである。
 早く三大秘法の東洋広布が実現されねばならない。
 
③権実相対
 
 大乗経のうちにも、権大乗と実大乗がある。
 実大乗とは法華経であり、権大乗とはそれ以前の華厳経・大日経・阿弥陀経・般若経等の諸経である。
 念仏宗・真言宗・禅宗などはこの権大乗を依経としている。
 権とは真実に対して権という意味で、釈尊一代五十年の説法のうち前四十余年の経々はすべて権教で、後八年の法華経だけが実教である。
 この権実相対は一代仏教の勝劣を判ずる上で、最も基本的な立て分けである。
 すなわち釈尊は成道の始めから法華経を説くことが目的であったが、衆生の機根が未だ熟していないことを見て、まず権教である方便を四十余年の間説き、後に真実たる法華経を説いたのである。
 ゆえに法華経の開経たる無量義経には「種種に法を説くこと方便力を以てす。
  四十余年には未だ真実を顕わさず。
  是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず

 また法華経方便品には「世尊は法久しくして後、要す当に真実を説くべし
 さらに「正直に方便を捨てて、但無上道を説く
 さらに法華経譬喩品には「余経の一偈をも受けざれ」と説かれている。
 これらの経文は、〝法華経以前の四十余年の経々は方便の教えであるから正直にその方便を捨て、唯一の成仏の法たる法華経だけを信ぜよ〟との釈尊自身の重大なる宣言・命令である。
 この仏勅に背く者は誰人であれ「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」(法華経譬喩品)の罪人である。
 では爾前(法華経以前)の諸経と法華経は、その内容においてどこがちがうのかといえば、開目抄に「予愚見をもって前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、其の相違多しといえども、先ず世間の学者もゆるし我が身にもさやとうちをぼうる事は、二乗作仏・久遠実成なるべし」と、明確に御指南されている。
 「二乗作仏」とは二乗の成仏が許されたこと、「久遠実成」とは釈尊が久遠の昔よりすでに仏であったということである。
 法華経以前の諸経には、絶えてこの義は見られない。
 この二乗作仏によって迹門・理の一念三千が顕われ、久遠実成によって本門・事の一念三千が明らかになる。
 まさに法華経の一代諸経に勝れたるゆえんは、この二乗作仏と久遠実成にあるのである。
 さて二乗作仏についていえば、舎利弗・目連等の二乗は灰身滅智の小乗経を修して、自分では悟りを得たかのごとく思って小乗に執着した。
 この執着を破するため、釈尊はその後長期にわたる権大乗経において、徹底して二乗の利己心を呵責し、「永不成仏」の者として、作仏を許さなかった。
 しかるに法華経にいたって始めて「舎利弗は華光如来・迦葉は光明如来」等と、成仏の記別が授けられたのである。
 この二乗作仏がなにゆえ大事かといえば、もし二乗が作仏しなければ菩薩も凡夫も成仏できないことになる。
 なぜなら菩薩・凡夫の生命にも二乗が具している。
 もし所具の二乗が作仏しなければ、能具の菩薩・凡夫も作仏できない。
 菩薩・凡夫が作仏しなければ九界も作仏せず、したがって九界即仏界の義はなく、一念三千も顕われない。
 しかるに法華経に至って二乗作仏が明かされれば、永不成仏の二乗すらなお成仏、いわんや菩薩・凡夫においておやである。
 ここに九界即仏界となり、十界互具・一念三千の義が始めて顕れるのである。
 ゆえに開目抄には「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つ脱れたり」と。
 この法相が権実相対である。
 
④本迹相対
  
 真実の法華経のうちにも本門と迹門がある。
 すなわち法華経二十八品において前の十四品を迹門といい、後の十四品を本門という。
 この本迹二門の勝劣は天地水火の相違がある。
 治病大小権実違目には「法華経に又二経あり、所謂迹門と本門なり。
 本迹の相違は水火天地の違目なり、例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり
」と。
 爾前と迹門とは多くの相違ありといっても、教主の釈尊が始成正覚の仏ということにおいては同じである。
 しかるに本門寿量品に至って「然るに善男子、我実に成仏してよりこ已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」と。
 この一文は、爾前・迹門において大衆が〝釈尊は三十にして始めて正覚を成じた仏〟と思っていたことを、一言にして打ち破り、久遠五百塵点劫の本地を開顕した重大なる説法である。
 かくて見れば、印度出現の釈尊は久遠本地の仏が衆生化導のため迹(あと)をたれた仏である。
 前十四品はこの垂迹の仏の所説であるから迹門といい、後十四品は久遠開顕の本地の仏の所説であるから本門というのである。
 仏の発迹顕本は大衆に成仏の実益を得さしむためである。
 迹門おいて二乗作仏・一念三千が一住説かれているが、化導をする仏が未だ始成正覚では仏界の本有常住がない。
 仏界が本有常住でなければ九界も同じである。
 ゆえに十界互具も過去のない現在だけのものとなり、一念三千も本無今有となる。
 また二乗作仏についても、およそ作仏とは根源の種子を覚知することである。
 しかるに迹門においては未だ久遠の下種が明かされていないから二乗作仏も本有今有である。
 また成仏とは三惑を断ずることであるが、未だ仏の本因本果を知らなければ見惑・思惑であり、ゆえに二乗作仏の文はあっても有名無実である。
 このように迹門は一念三千も二乗作仏も、ともに本無今有・有明無実の失がある。
 開目抄に「しかりといえどもいまだ発迹顕本せざればまことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし、根なし草の波の上に浮べるににたり」と仰せられているのはこれである。
 しかし続いて開目抄には「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって本門の十界の因果をとき顕す、此れ即ち本因本果の法門なり。
 九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備りて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし
」と。
 すなわち本門寿量品の発迹顕本によって、いままで爾前迹門で説かれてきた蔵・通・別・円四教の仏果も仏因もともに打ち破られ、ここに本門の「十界の因果」が顕れるのである。
 ここにいう「十界の因果」とは十界各具の因果ではなく、因は九界、果は仏界を表わす、すなわち釈尊の因行を挙げて九界を収めるのである。
 また「本因本果の法門」とは文上・文底に通ずる重要な文であるが、いま文上に約して解釈すれば、「本因」とは無始の九界で本因常住を表わす。
 ゆえに寿量品には「我本菩薩の道を行ぜし時、成ずる所の寿命今猶未だ尽きず」と説かれている。
 また「本果」とは無始の仏界で本果常住を表わす。
 経には「我実に成仏してより已来、甚大久遠にして寿命無量阿僧祇劫なり、常住にして滅せず」と説かれている。
 このように本門において始めて九界の衆生も永遠常住となり、ここに本有常住の十界互具・百界千如・事の一念三千が顕れるのである。
 また寿量品の久遠実成が顕れれば、東方の薬師如来・西方の阿弥陀如来など諸仏もみな釈尊の分身である。
 諸仏が釈尊の分身である以上、諸仏の弟子たる観音・勢至等の迹化・他方の大菩薩も、ことごとく釈尊の弟子たることが明らかになる。
 ここに本門寿量品において迹化・他方の菩薩も始めて根源・最初下種の師を知り、本地難思境智の妙法を信じて名字妙覚の悟りを開くことができたのである。
 まさに寿量品の一品こそ、在世の衆生にとって成仏得脱の唯一の正法である。
 ゆえに開目抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずば、天に日月の無く、国に大王なく、山河に珠無く、人に神のなからんがごとし」と仰せられている。
 かくのごとく本迹の勝劣を判ずるのが、本迹相対である。
 
⑤種脱相対
 
 種脱相対とは、日蓮大聖人の下種益の仏法と、釈迦仏の脱益の仏法との勝劣を判ずる法門である。
 この種脱相対こそ大聖人の本懐・秘奥の御法門である、たとえ日蓮宗を名乗るとも、不相伝の諸派などは夢にもこれを知らず、ただ正系門家の冨士大石寺のみよく知るところである。
 種脱相対はまことに甚深の法門であり、これを理解するには、まず種熟脱の三益ということを知らねばならない。
 すなわち「」とは下種のことで、まず仏が妙法を説き、始めて衆生の心田に仏種を下すこと。
 「」とはその仏種を調熟・育成すること。
 「」とは純熟した仏種を覚知せしめ、ついに仏と等しい境界を得せしめる、すなわち成仏せしむることである。
 「種熟脱の法門・法華経の肝心なり」(秋元御書)との仰せのごとく、種熟脱の法門は法華経のみとかれるところで、この三益こそ仏が衆生を成仏せしむるための化導の始終・全貌である。
 ゆえにこの三益の相が明かされなければ、たとえ成仏を論ずるとも実には虚しい。
 ゆえに観心本尊抄には「設い法は甚深と称すとも、未だ種熟脱を論ぜざれば還って灰断に同ず、化の始終無しとは是れなり」と仰せられている。
 仏は凡夫の想像を絶する長遠の時間にわたり、種熟脱の化導をされているが、この三益の相に迹門・本門・文底を重々の浅深がある。
 まず迹門の三益は、三千塵点劫の昔、大通智勝仏の第十六番目の王子(釈尊の前身)が父王の法華経を覆講した時を下種とする。
 そして釈尊在世の前四味(爾前経)を熟とし、法華経にいたって大通の種子を覚知するのが脱である。
 ただしこの三益は迹門当分の一住の説である。
 もし本門が顕れれば、最初の下種は三千塵点劫よりはるか久遠の五百塵点劫にさかのぼる。
 この時、迹門の三益すべて中間の熟益に位置することになる、これが一重立ち入った本門の三益である。
 この本門の三益を観心本尊抄に「久種を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為し、本門に至って等妙に登らしむ」と御指南されている。
 すなわち下種は久遠五百塵点劫、熟は中間の大通仏および爾前・迹門、そして本門寿量品に至って等覚・妙覚の位に登らしめるのが熟である。
 しかし文底の眼あけてこれを見れば、久遠五百塵点劫も未だ最初の下種ではない。
 真実最初の下種は、五百塵点劫をさらにあかのぼること復倍上数・久々遠々の久遠元初であり、その下種の法体は久遠名字の妙法・事の一念三千の南無妙法蓮華経に限るのである。
 ここで下種に聞法と発心の二義があることを知らねばならない。
 聞法下種とは最初に法を聞いた真実の下種、発心下種とはその後の化導により信心修行の心を発したことに名づける。
 ゆえに発心下種は、下種といっても聞法下種に対比すればなお熟脱に属し、真実の下種ではない。
 迹門において三千塵点劫を下種というのは迹門当分の一住の説で、もし本門が顕れれば三千塵点劫は発心下種となり、さらに文底の実義顕れれば五百塵点劫も発心下種となる。
 ここに真実の聞法下種は、ただ久遠元初のみとなるのである。
 また最初の聞法下種の法体が、文底秘沈の南無妙法蓮華経に限るということは「一念三千の法門は、但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまえり」(開目抄)
 「一念三千の仏種に非ざれば、……有明無実なり」(本尊抄)
 「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(秋元御書)等々の御指南に明らかである。
 かくて本門の得脱を見れば、「脱は必ず種に還る」のごとく、一会の大衆は、文底未だ顕れざる体外の寿量品を聞いて菩薩の最高位たる等覚の益を得、また文底すでに顕われた体内の寿量を聴聞して久遠元初の下種の位に立ち還り、本地難思境智の妙法を信じて名字妙覚の極位に登ったのである。
 前引の本尊抄に「本門に至って等妙に登らしむ」と仰せられる御意はここに在る。
 さてここで今度は、久遠元初の最初下種から、三千年前の釈尊までの三益を概観してみよう。
 久遠元初において未だ教えも無い時、一人の聖人あって自身の生命を深く観ぜられ、ついに因果俱時不思議の一法の生命の極理を、南無妙法蓮華経とお覚りになられた。
 この最初の仏を久遠元初の自受用身とも、本地無作三身とも本因妙の教主釈尊とも申し上げる。
 この本仏は御自身証得の南無妙法蓮華経を、我も唱え人にも勧めて、荒凡夫の心田に仏種を下された。
 これすなわち三大秘法の化導であり、この時が久遠元初の最初の下種である。
 この法を聞く大衆に順逆の二縁があった。
 順縁の者は素直に信じて退転せず、一生のうちに即身成仏を遂げることができた。
 しかし逆ったり、あるいは信じても途中で退転した者は、久遠元初の下種仏中においてついに得脱することができず、悪道に堕して無数劫を経たのである。
 これら過去下種の大衆を救うため、久遠元初の御本仏は無数劫ののち、名字凡夫の本身を隠し、三十二相で身を荘り垂迹された。
 この垂迹第一番の仏が五百塵点劫本果の釈尊である。
 この本果第一番以降が熟脱の化導であり、色相荘厳の仏が四教八教を説くこと印度の釈尊の説法と全く同じである。
 以来三千塵点処々に垂迹示現し、最後得脱の総仕上げに出現されたのが、三千年前の釈尊である。
 かくて釈尊は爾前迹門を説いて調熟し、最後本門寿量品を説いて久遠元初の種子を覚知せしめ、なお在世にもれた衆生に対しては、正像二千年間において小乗・権大乗・迹門を縁として、本門悟りに入らしめたのである。
 ここに釈尊の脱益の化導は完結した。
 ここに迎えた末法は、過去に下種を受けた者は一人もなく、ことごとく本未有善の荒凡夫である。
 この時、久遠元初の自受用身末法に出現し、南無妙法蓮華経を以て下種の化導を遊ばすのである。
 まさしく末法は久遠元初の再現である。
 ゆえに日寛上人は「末法今時は全く是れ久遠元初なり、運末法に居すと雖も而も宗は久遠に立つ、久遠は今に在り、今は則ち久遠なり」(当流行事抄)と。
 しかしこの久遠元初の自受用身とは誰人におわすか、すなわち日蓮大聖人の御事である。
 撰時抄に云く「欽明より当帝にいたるまで七百余年、いまだきかず、いまだ見ず、南無妙法蓮華経と唱えよと他人をすすめ、我も唱えたる智人なし。……
 日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑いなし。
 これをもってすいせよ、漢土・月支にも一閻浮提も内にも、肩をならぶ者はあるべからず
」と。
 大聖人の名字凡身の御身の御振舞いをよくよく拝せば、久遠元初の自受用身と全同である。
 ゆえに本因妙抄に云く「釈尊久遠名字即の位の御身の修行を、末法今時日蓮が名字即の身に移せり
 また百六箇抄に云く「今日蓮が修行は、久遠名字の振舞に、芥爾計りも違わざるなり
 さらに云く「久遠元初の天上天下唯我独尊は日蓮是れなり」と。
 これらの甚深の御指南を以て、日蓮大聖人こそ久遠元初の自受用身と深く信じ奉るべきである。
 この下種の御本仏、脱益仏法と下種仏法を明確に立て分けさせ給いて、観心本尊抄に云く「在世の本門と末法の初は一同に順円なり。
 但し彼は脱、此れは種なり。
 彼は一品二半、此れは但題目の五字なり

 また寿量品の御義口伝に云く「此の品は在世の脱益なり、題目の五字計り当今の下種なり。
 然れば在世は脱益、滅後は下種なり、仍て下種を以て末法の詮と為す

 また上野抄に云く「今末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし、但南無妙法蓮華経なるべし」と。
 さらに開目抄に云く「一念三千の法門は、但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまえり
 その文底の秘法を本因妙抄に明かして云く「文底とは久遠実成の名字の妙法を余行に渡さず、直達正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是れなり」と。
 種脱相対の明文白義、あたかも天日のごとくである。
 而して、文底秘沈の大法の正体とは、まさしく日蓮大聖人出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊である。
 ゆえに我らこの御本尊を信じて南無妙法蓮華経と退転なく唱えれば、必ず一生に中に即身成仏が叶うのである。
 下種の大法は熟脱仏法の歴劫修行と異なり、一生のうちに種熟脱がある。
 ゆえに十如是事に云く「此の覚に入って仏を顕はす程は久しき様なれども、一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり。
 此の道に入ぬる人にも上中下の三根はあれども、同じく一生の内に顕はすなり。
 上根の人は聞く所にて覚を極めて顕はす。
 中根の人は若は一日、若は一月、若は一年に顕はすなり。
 下根の人はのびゆく所なくてつまりぬれば、一生の内に限りたる事なれば、臨終の時に至りて、諸のみえつる夢も覚てうつつになりぬるが如く、只今までみつる所の生死妄想の邪思・ひがめの理はあと形もなくなりて、本覚のうつつの覚にかへりて法界をみれば、皆寂光の極楽にて、日来賤しと思ひし我が此の身が三身即一の本覚の如来にてあるべきなり
」と。
 まことに懇切丁寧の御指南である。
 下種仏法はこのように一生のうちの種熟脱・即身成仏の大法である。
 なんと有難いことではないか。
 しかるにもしこの大法において退転すれば、必ず三千塵点・五百塵点を経て苦悩に沈むこと、舎利弗のごとくなるのである。
 以上種脱相対を了る。
  
(二)五重三段

 五重三段は大聖人が観心本尊抄に示された教判で、開目抄の五重相対と双璧をなす大事の法門である。
 三段とは序分・正宗分・流通分のことで、序分とは仏が教法を説くに当って、その序開きに相当する部分、正宗分とは教法の正意そのものの部分、流通分とはすでに説かれた正宗分を流布せしむる意を以て説かれた部分である。
 すなわちこの三段を五重に立て分け、以て仏の化導の中心目的がどこにあるかを探り、文底秘沈の南無妙法蓮華経こそ本地唯密の正法であり正法正意の本尊であることを顕わすのが、五重三段の法門である。
 五重三段の名目を示せば、まず広く釈尊一代五十年の諸経を一経として括ったうえで三段を立て分けたのが一代一経三段、またその正宗分に当る法華経十巻について三段を立て分けたのが法華一経三段、以上を総の三段という。
 次に法華経の中において、迹門・本門・文底のそれぞれに三段を立てて本尊を明かす。
 すなわち迹門熟脱三段・本門脱益三段・文底下種三段、これが別の三段である。
 以上の五重三段において、前の四重は第五の文底下種三段を顕わすための施設・階梯である。
 いま五重三段の内容を略示すれば、次のごとくなる。

 ①一代一経三段
  序分…華厳経より般若経に至るまでの法華経以前の諸経。
  正宗分…無量義経・法華経・普賢経の十巻。
  流通分…涅槃経等。

 ②法華一経三段
  序分…無量義経と序品。
  正宗分…方便品より分別功徳品の十九行の偈に至る十五品半。
  流通分…分別功徳品の現在の四信より普賢経に至る十一品半と一巻。

 ③迹門脱益三段
  序分…無量義経と序品。
  正宗分…方便品より人記品に至る八品。
  流通分…法師品より安楽行品に至る五品。

 ④本門脱益三段
  序分…涌出品の前半の半品。
  正宗分…涌出品の後半・寿量品・分別功徳品の前半の一品二半。
  流通分…分別功徳品の後半から普賢経まで。

 ⑤文底下種三段
  序分…一代五十年の諸経ならびに十方三世諸仏の微塵の経々の体外の辺。
  正宗分…久遠元初の唯密の正法たる南無妙法蓮華経。
  流通分…一代五十年の諸経ならびに十方三世諸仏の微塵の経々の体内の辺。
 
 第五の文底下種三段こそ、末法のための文底下種の本尊を明かされた重大の御法門である。
 これについて少し説明すれば、正宗分は久遠元初唯密の正法たる南無妙法蓮華経。
 そして釈尊一代五十余年の諸経・十方三世の微塵の経々ならびに八宗の章疏の、体外の辺は序分となり、体内の辺は流通分となる。
 体外とは未だ久遠元初を知らざる立場であり、体内とは久遠元初を知って開会された立場である。
 いまこの法相顕われれば、三世諸仏の微塵の経々は一塵も余すことなく、十方法界の仏法の露は一滴も漏さず、みなことごとく文底下種の南無妙法蓮華経の序分となり、流通分となるのである。
 まさに前代未聞の法相ではないか。
 では、なぜ三世十方の諸仏の微塵の経々が文底下種の序分・流通分になるのかといえば、三世十方の諸仏はみな久遠元初の自受用身の垂迹であり、その微塵の経々はことごとく久遠元初の名字の妙法より生ずるからである。
 ゆえに日寛上人は人法体一のこの文底下種の御本尊の功徳について「是れ則ち諸仏・諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣する処なり。
 故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸く此の文底下種の本尊に帰せざるは莫し。
 譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。
 故にこの本尊の功徳無量無辺にして広大深遠の妙用あり。
 故に暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるは無く、罪として滅せざるは無く、福として来らざるは無く、理として顕われざる無きなり
」と御指南されている。
 
(三)三重秘伝

 三重秘伝とは、権実・本迹・種脱の三重の相対を以て、一念三千の法体を明かされる肝要の法門である。
 開目抄に云く「一念三千の法門は、但法華経の、本門寿量品の、文の底に秘してしづめたまえり」と。
 この御文について日寛上人は三重秘伝を御指南された。
 すなわち「但法華経」とは権実相対、「本門寿量品」とは本迹相対、「文の底に秘してしづめたまえり」とは種脱相対である。
 このことを少し説明すれば
 爾前の諸経には未だ一念三千が明かされていない。
 迹門は諸法実相に約して初めて一念三千を明かしている。
 ゆえに「但法華経」という。
 これ権実相対第一の法門である。
 次に迹門に一念三千を明かすとも未だ発迹顕本していないから理の一念三千である。
 本門は本因・本果・本国土に約して事の一念三千を明かす。
 ゆえに「本門寿量品」という。
 これ本迹相対第二の法門である。
 次に本門文上は事の一念三千を明かすとも、なお理上の法相・迹中の本であるから文底に比較すればなお理の一念三千に属し、在世の脱益である。
 ただ文底のみ人法体一の真の一念三千・久遠下種名字の妙法が秘沈されている。ゆえに「文の底に秘してしづめたまえり」という。
 これ種脱相対第三の法門である。
 ゆえに「但法華経」の「」の字は一字であるが、その意において下の三句に冠するのである。
 されば一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底秘沈の大法こそ、最大深秘の正法であり、末法下種の法体である。
 このように、権実・本迹・種脱の三重の相対を以て、仏法の究極である文底下種・事の一念三千を明かす法門を三重秘伝という。
 以上、五重相対・五重三段・三重秘伝等を以て、一切の教法の中には文底秘沈の三大秘法こそ最高・最正の教法であると知るを、教を知るというのである。

折伏理論解説書 日蓮大聖人の仏法
──付── 宗教批判の原理 三証と五綱判




「念仏無間」「禅天魔」「真言亡国」「律国賊」



 無量義経

 四十余年には未だ真実を顕わさず

 法華経・方便品

 世尊は法久しうして後。
 要ず当に真実を説くべし

 世尊は方便を捨てて、但だ無上道を説く


 法華経法師品

 我が所説の諸経、而も此の中に於て法華最も第一なり。乃至、
 我が所説の経典無量千万億にして、己に説き、今説き、当に説かん。
 而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり


 三大秘法抄

 法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は、此の三大秘法を含みたる経にて渡らせ給えばなり。
 秘すべし、秘すべし


 観心本尊抄

 在世の本門と末法の初は一同に純円なり。
 但し彼は脱、此れは種なり。
 彼は一品二半(寿量品と前後の半品)、此れは但だ題目の五字なり


 上野抄

 今末法に入りぬれば、余経も法華経も詮なし、但南無妙法蓮華経なるべし


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第六章 日蓮大聖人と釈迦仏の関係



出世本懐成就御書

 去ぬる建長五年四月二十八日、乃至、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年なり。
 仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先々に申すがごとし。
 余は二十七年なり其の間の大難は各々かつしろしめせり。

出世本懐成就御書を拝し奉る



三大秘法の開合の相



本門の本尊 本門の題目 本門の戒壇
三大秘法抄を拝し奉る


人の本尊
開目抄を拝し奉る


人即法の本尊
観心本尊抄略拝




御遺命たる「国立戒壇建立」



一期弘法付嘱書

  日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。
  本門弘通の大導師たるべきなり。
  国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。
  時を待つべきのみ。
  事の戒法と謂うは是なり。
  就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
  弘安五年壬午九月 日
  日蓮 在御判
  血脈の次第 日蓮 日興


三大秘法抄

 戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。
 時を待つべきのみ。
 事の戒法と申すは是れなり。
 三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり



基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第九章 日蓮大聖人の御遺命




1、広宣流布を偽る ~ 2、一期弘法付嘱書における「国主」の曲会
「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」



3、三大秘法抄の曲会 「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」について ~ 「勅宣並びに御教書を申し下して」について
「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」



3、三大秘法抄の曲会 「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」について ~ 「時を待つべきのみ」について
「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」



4、「事の戒壇」の定義変更による誑惑
「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」



5、その他の国立戒壇否定の僻論 ~ 6、正本堂の正体
「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」



報恩抄

 智証の門家・園城寺と、慈覚の門家・叡山と、修羅と悪竜の合戦ひまなし。
 園城寺をやき、叡山をやく。


真言密教は亡国の悪法
大御本尊様への信を失えば、御遺命の国立戒壇を捨てる
修羅と悪竜の合戦
大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす

「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ



仏法と皇室の関係
仏法と王法とは本源躰一
国立戒壇建立こそ大聖人の究極の大願
大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす

「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ



大聖人を無視しての、いかなる政策も軍備も虚しい
御遺命破壊と同時進行で進んだ原発設置
大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす

「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ





四十二度の国家諫暁


第二祖・白蓮阿闍梨日興上人


原殿御返事

 身延沢を罷り出で候事、面目なさ、本意なさ、申し尽くし難く候へども、打ち還し案じ候へば、いずくにても、聖人の御義を相継ぎ進らせ世に立て候わん事こそ詮にて候へ。
 さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候ぬ。
 日興一人、本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べきに仁に相当って覚え候へば、本意忘るること無く候。


日興跡条条事

  一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内・山寺等に於いて、半分は日目嫡子分として菅領せしむべし。
    残る所の半分は自余の大衆等之れを領掌すべし。
  一、日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大本尊 日目に之を授与す、本門寺に懸け奉るべし。
  一、大石寺は御堂と云い墓所と云い、日目之を菅領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり。
    右日目は十五歳の歳日興に値って法華を信じて以来、七十三歳の老体に至るまで敢えて遺失の儀なし。
    十七の歳日蓮上人の所甲州身延山に詣で、御在住七年の間常随給仕し、御遷化の後弘安八年より元徳二年に至る五十年の間奏聞の功他に異なるに依って、此くの如く書き置く所なり。
    仍って後の為、証状の如し。
    十一月十日 日興 判



第三祖・新田卿阿闍梨日目上人


 日蓮聖人の弟子日目、誠惶誠恐謹んで言す。──
 仏滅後二千余年の間、正像末の三時流通の程、迦葉・竜樹・天台・伝教の残したもうところの秘法三あり。
 所謂 法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり。──
 法華本門の正法を立てらるれば、人も栄え、国も栄えん。──
 日目、先師の地望を遂げんがために、後日の天奏に達せしむ。



基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第八章 冨士大石寺の歴史




第一次 一国諫暁
1997年7月16日

日本国民に告ぐ!
日蓮大聖人に帰依しなければ
日本は必ず亡ぶ





第二次 一国諫暁
2004年4月28日

再び日本国民に告ぐ
日蓮大聖人に背く日本は
必ず亡ぶ


 日本はいま、亡国の前夜を迎えている!
 まもなく起こる巨大地震の連発を号鐘として国家破産・異常気象・食糧危機・大疫病(感染症)等が続発し、そののち他国侵逼の大難がこの国を襲うであろう──
 その原因は
 一には 日本一同が未だに日蓮大聖人に背き続けていること
 二には 創価学会が政治のために、大聖人の唯一の御遺命たる「国立戒壇建立」を抛ったことである
 日本に残された時間は少ない
 早く日蓮大聖人の仰せのままに立正安国を実現しなければ取り返しのつかぬことになる──




 日本は今、亡国の前夜を迎えている。
 その亡国は、どのような災難によってもたらされるのかといえば──
 まもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病(感染症)等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆(国内の分裂抗争)と他国侵逼(外敵の侵略)が起こるのである。
 これは凡夫の私が言うのではない。
 日蓮大聖人が立正安国論の奥書に「未来亦然しかるべきか」と示されるところによる。
 日本国は七百年前、この国にご出現された大慈大悲の御本仏・日蓮大聖人を、二度も流罪し、ついには竜の口の刑場で御頸まで刎ねんとした。
 この大逆罪はたちまちに「大蒙古の責め」という大罰となって現われ、国まさに亡びんとした。
 しかるに日本の人々は改悔なく、今に至るまで日蓮大聖人を信ぜず、背き続けている。
 仏法まことならば、どうして国の保つことがあろうか──。
 ここにいま「」来たって、日本国は再び亡国の大難を受けんとしているのである。
 しかしこの恐るべき亡国の大難が起きても、もしその起こる所以を知らなければ、人々はただ恐れ戦くのみで、これが「日蓮大聖人に背くゆえ」とは知るよしもない。
 したがって大聖人に帰依信順することもない。
 そうであれば、日本はそのとき必ず亡ぶ。
 よって日蓮大聖人の弟子として私は、前もってこれを全日本人に告げ知らしめて国を救わんと、本書を著わした次第である。──

 大聖人はこの在世・滅後の二つの大災難の様相を、新尼抄に一文を以て兼ねて示されている。
 「末法の始めに謗法の法師・一閻浮提に充満して、諸天怒りをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。
 大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、乃至、
 諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん
」と。──
 私が本書の冒頭に「まもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆・他国侵逼が起こる」と記したのは、まさしく立正安国論およびこの御文による。
 まもなく日本にこの大災難が必ず相次いで起こる。
 ゆえに前もってこれを告げ知らせたのである。
 御文を拝する──まず「諸天怒りをなし」とある。
 次文以下の諸災難のすべてが諸天の力用によること、刮目してみるべきである。
 「彗星は一天に……」はすでに平成九年に現じている。
 「大地は大波のごとくをどらむ」はまもなく始まる巨大地震。
 「大旱魃・大火・大水・大風」は異常気象による大災害。
 これら自然の猛威の前には、人間は全くの無力となる。
 「大疫病」とは感染症の大流行。
 「大飢饉」とは食糧危機と経済的飢渇たる国家破産。
 「大兵乱」とは自界叛逆と他国侵逼である。
 そして「一閻浮提(全世界)の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時」とは、地球規模の大戦乱が起き、世界中の人々が武器を手にする時──ということである。
 いま大量破壊兵器は地球上に拡散し、反米の嵐は収まるところを知らず世界に広がっている。
 いずれ国際テロ組織は大量破壊兵器を手に入れるであろう。
 このテロ組織を背後で操る国々もある。
 そしてついには米中対決にいたる。
 まさしく世界中が殺気立ち、武器を手にする時が来るのである。
 その結果、「諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時」となる。
 この人類滅亡にいたる恐ろしき末法濁悪の未来のため、大聖人は「五字の大曼荼羅」すなわち本門戒壇の大御本尊を、日本国に留め置き給うたのである。

 今こそ全日本人は、大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。

 日本に残された時間は少ない──。
 立正安国論の「其の時、何んが為んや」同奥書の「未来亦然るべきか」の仏語は重い。

国家諫暁 
立正安国論謹講


一国諫暁 
日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ

 
冨士大石寺顕正会々長浅井先生 著
 
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