冨士大石寺顕正会 一国諫暁

 顕正会は、末法の御本仏・日蓮大聖人の御遺命たる
国立戒壇建立を見つめて戦う唯一の仏弟子の集団です。

折伏(しゃくぶく)とは何(なに)か

2020-01-01 | 仏法(ぶっぽう)の実践(じっせん)

 
 末法の仏道修行は勤行と折伏に尽きる。
 勤行とは御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉る修行であり、これを人に勧めるのが折伏である。
 勤行は自身の修行であるから「自行」といい、折伏は他人を教化し救う修行であるから「化他」という。
 末法、ことに広宣流布以前の謗法充満の世においては、自行と化他が車の両輪のごとく相俟って、始めて完璧な仏法の実践となる。
 大聖人は自行化他にわたる仏法の実践について
 「南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧んのみこそ、今生人界の思出なるべき」(持妙法華問答抄)
 「我もいたし、人をも教化候へ」(諸法実相抄)
 「唯我れ信ずるのみに非ず、又他の誤りを誡めんのみ」(立正安国論)等と御教示下されている。
 
 

入信勤行の栞
 
 
「ただ心こそ大切なれ」
 
 
折伏(しゃくぶく)とは何(なに)か

 
 仏法(ぶっぽう)を弘(ひろ)める方法に「摂授(しょうじゅ)」と「折伏(しゃくぶく)」の二大潮流(にだいちょうりゅう)がある。
 摂授(しょうじゅ)とは摂引容授(しょういんようじゅ)といって、たとえ相手(あいて)が低劣(ていれつ)な法(ほう)を信(しん)じていても、これを容認(ようにん)しつつ次第(しだい)に正(ただ)しい教(おし)えに誘引(ゆういん)していく弘教法(ぐきょうほう)である。
 一方(いっぽう)、折伏(しゃくぶく)とは破折屈服(はしゃくくっぷく)の義(ぎ)で、相手(あいて)の間違(まちが)った思想(しそう)・信仰(しんこう)を破折(はしゃく)し、唯一(ゆいいつ)の正法(しょうほう)に帰依(きえ)せしめる剛(つよい)い弘教法(ぐきょうほう)である。
 いかなる時(とき)に摂授(しょうじゅ)を行(ぎょう)じ、いかなる時(とき)に折伏(しゃくぶく)を行(ぎょう)ずるべきかは仏法上(ぶっぽうじょう)の重大問題(じゅうだいもんだい)で、もしこれを撮(と)り間違(まちが)えると成仏得道(じょうぶつとくどう)も叶(かな)わない。

 大聖人(だいしょうにん)は
 「凡そ仏法を修行せん者は摂折二門を知るべきなり、一切の経論此の二を出でざるなり」(如説修行抄)
 「設い山林にまじわって一念三千の観をこらすとも、乃至、時機をしらず摂折の二門を弁へずば、いかでか生死を離るべき」(開目抄)
 「仏法は摂受・折伏時によるべし、譬えば世間の文・武二道の如し」(佐渡御書)
 「修行に摂・折あり、摂受の時折伏を行ずるも非なり、折伏の時摂受を行ずるも失なり、然るに今の世は摂受の時か折伏の時か、先づ是れを知るべし」(聖愚問答抄)と。

 では、いかなる時(とき)に摂受(しょうじゅ)を行じ、いかなる時(とき)に折伏(しゃくぶく)を行(ぎょう)ずるのかといえば、釈迦仏法(しゃかぶっぽう)の利益(りやく)のおよぶ正像二千年間(しょうぞうにせんねんかん)は摂受(しょうじゅ)であり、末法(まっぽう)は折伏(しゃくぶく)でなければならない。
 なぜかといえば、正像二千年(しょうぞうにせんねん)の衆生(しゅじょう)は「本己有善(ほんいうぜん)」といって、過去世(かこせ)にすでに下種(げしゅ)を受(う)けているので、あるいは小乗経(しょうじょうきょう)を縁(えん)とし、あるいは権大乗経(ごんだいじょうきょう)を縁(えん)として法華経(ほけきょう)の悟(さと)りに入(はい)ることが出来(でき)た。
 ゆえに種々(しゅじゅ)の教(おし)えを一応(いちおう)は認(みと)め、漸々(やくやく)と法華経(ほけきょう)に誘引(ゆういん)する摂受(しょうじゅ)が、正像(しょうぞう)の時機(じき)には適(てき)していたのである。
 しかし正像二千年(しょうぞうにせんねん)を過(す)ぎて末法(まっぽう)になると、衆生(しゅじょう)は「本未有善(ほんみうぜん)」で、未(いま)だ下種(げしゅ)を受(う)けたことのない三毒強盛(さんどくごうじょう)の荒凡夫(あらぼんぶ)ばかりとなる。
 この本未有善(ほんみうぜん)の衆生(しゅじょう)にとって成仏(じょうぶつ)の叶(かな)う大法(だいほう)は下種(げしゅ)の南無妙法蓮華経以外(なんみょうほうれんげきょういがい)にはない。

 ゆえに上野抄(うえのしょう)には
 「今末法に入りぬれば、余経も法華経も詮なし、但南無妙法蓮華経なるべし」と。

 末法(まっぽう)においては、成仏(じょうぶつ)の大法(だいほう)は南無妙法蓮華経以外(なんみょうほうれんげきょういがい)にはない。
 よって「一切(いっさい)の邪法(じゃほう)を捨(す)てて、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)と唱(とな)えなさい」と勧(すす)めるのが、末法(まっぽう)の折伏(しゃくぶく)である。
 また折伏(しゃくぶく)は「讃嘆行(さんたんぎょう)」ともいわれる。
 日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の絶大威徳(ぜつだいいとく)・大慈悲(だいじひ)を、御本尊(ごほんぞん)の功徳(くどく)を、歓喜(かんぎ)の心(こころ)で讃嘆(さんたん)すること自体(じたい)が、相手(あいて)の心(こころ)を動(うご)かす折伏(しゃくぶく)となっているのである。
 このように折伏(しゃくぶく)こそ末法(まっぽう)の時(とき)に適(かな)う仏道修行(ぶつどうしゅぎょう)であり、人(ひと)を救(すく)う最高(さいこう)の慈悲(じひ)の行為(こうい)なのである。
 
 
なぜ折伏をせねばばらぬか

 
 折伏は何のために行ずるのかといえば、一には一切衆生を救う広宣流布のため、二には自身の成仏のためである。
 
広宣流布のため
 
 大聖人がいかに大慈悲を以て三大秘法をお勧め下されたかを拝すれば
 「日蓮生れし時よりいまに、一日片時も心安き事はなし。
 此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり
」(上野殿御返事)
 「今日蓮は、去ぬる建長五年四月二十八日より今年弘安三年十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。
 只妙法蓮華経の七字五字を、日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。
 此れ即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり
」(諫暁八幡抄)と。
 まことに母が乳児に乳を含ませるの大慈悲を以て、「南無妙法蓮華経と唱えよ」と一切大衆にお勧め下されたのである。
 そして大聖人の究極の大願は広宣流布にあられる。
 「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり。
 未来も又しかるべし、是れあに地涌の義に非ずや。
 剰へ広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし
」(諸法実相抄)と。
 大聖人がただ御一人唱え始められた南無妙法蓮華経は次第に唱え伝えられ、ついには日本一同に唱える広宣流布の時が必ず来るとの御断言である。
 いま我々の行ずる折伏は、大聖人のこの広布の大願を、御本仏の眷属・地涌の菩薩としてお手伝いするものである。
 広宣流布が達成されれば仏国が実現し、個人も国家も真の安泰を得る。
 この姿を如説修行抄には
 「法華折伏・破権門理の金言なれば、終に権教・権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、天下万民・諸乗一仏乗と成りて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず、雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて、今生には不祥の災難を払い、長生の術を得、人法共に不老不死の理顕われん時を各々御覧ぜよ。
 現世安穏の証文疑い有るべからざる者なり
」と仰せられている。
 もし広宣流布しなければ、国土の三災七難はいよいよ激しくなり、日本はついに亡国にいたる。
 ここに御本仏の厳たる広宣流布の御命令があり、また日興上人の
 「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて随力弘通を致すべき事」の御遺誡がある。
 いま広布前夜の日本を見るに、日本一同に三大秘法に背くゆえに、亡国の先兆たる観測史上最大の巨大地震はすでに起こり、他国侵逼も刻々と迫りつつある。
 仏弟子として誰か奮い立たぬ者があろうか。
 
自身の成仏のため
 
 折伏は人のため国のためのように見えるが、実は自分自身の成仏の修行である。
 広宣流布以前においては、勤行とともに折伏の大精神を持ち続けなければ成仏が叶わない。
 そのわけは、謗法充満の国土において折伏を行じなければ、知らず知らずのうちに自身が一国の謗法に同化してしまう。
 これを「与同罪」という。
 すなわち自身は謗法をしなくても、謗法を見て責める心がなければ、その悪に与したことになるのである。
 「譬えば我は謀叛を発さねども、謀叛の者を知りて国主にも申さねば、与同罪は彼の謀叛の者の如し」(秋元御書)と。
 ゆえに曽谷抄には
 「謗法を責めずして成仏を願はば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。
 はかなし、はかなし
」との厳しい仰せを拝する。
 しかし折伏を行ずれば、この与同罪を免れることができる。
 そして蓮華が泥水の中でも清らかな花を咲かせるように、謗法充満の国土においても少しも謗法に染まることなく、清浄な仏果、一生成仏を得ることができるのである。
 
 
折伏の大利益

 
 折伏は大聖人の大願たる広宣流布のお手伝いをする行為であるから、これを行ずる者には次のごとき大利益がある。
 
格別の御守護
 
 折伏を行ずると、御本仏の冥々の加護が生活に現れてくる。
 これは大聖人が「仏法の命を継ぐ者」として格別に御守護下さるからである。
 大聖人の御化導を命かけて助けまいらせた四条殿に対し
 「殿の御事をば、ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり。
 其の故は、法華経の命を継ぐ人なればと思うなり
」(四条金吾殿御返事)と仰せられている。
 いま広布前夜の濁悪の世で、けなげに折伏を行ずる者はかくのごとく御本仏の格別の御守護を頂くのである。
 
御本仏の眷属としての生命力が湧く
 
 折伏を行ずる者は仏様の使いである。
 ゆえに自然と御本仏の眷属としての生命力が湧いてくる。
 たとえ打ち沈んだ弱々しい境界であっても、折伏を行ずると、生き生きとしてくる。
 そして人を救うに当っての智恵と勇気が自然と具わってくる。
 それまで自分のことだけで頭がいっぱいだった凡夫が、このように人を救い国を憂うる境界に一変するのは、まさに御本仏の眷属・地涌の菩薩としての命が湧いてきたゆえである。
 諸法実相抄には
 「日蓮と同意ならば、地涌の菩薩たらんか」と。
 大聖人に同心し奉るゆえに「地涌の菩薩」の命が湧き出てくるのである。
 
過去の罪障が消滅する
 
 折伏は宿命転換の強き実践法である。
 そもそも現世の不幸はすべて過去世の罪業に因る。
 この宿業の報いとして、あるいは十年・二十年、あるいは一生、あるいは今生にその罪を滅することができなければ、未来にその大苦を持ち越すかも知れない。
 だが、折伏を行じて難を受けたり悪口をいわれれば、その罪障が消滅するのである。
 「忠言は耳に逆う」(曽谷殿御返事)と。
 たとえ人格者のような顔をしている者も、折伏を受けると本性をむき出し瞋恚をあらわすことがある。
 これは元品の無明が出てくるのである。
 また「お前は貧乏してるくせになんだ、もっと立派になったら来い」などと、いわれなき軽賤をする者もあろう。
 しかしこれらの悪口によって、こちらの罪障は消えていくのである。
 大聖人は開目抄に
 「今日蓮、強盛に国土の謗法を責むれば、此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出せるなるべし
 ──一国の謗法を折伏したゆえに流罪・死罪の大難が起きたことは、過去世の重き罪障が、折伏の功徳によりいま招き出され消滅している姿である──と。
 大聖人に過去の罪障などあるべきはずもない。
 これは「示同凡夫」といって、我等凡夫の身に同じて罪障消滅の原理をお示し下されているのである。
 いま私達も、大聖人のお味方をして受けた難ならば、その難はかえって我が身の罪障消滅となるのである。
 
 
折伏の心がけ

 
慈悲と確信
 
 折伏は、仏様の使いとして一切大衆を救う行為であるから、何よりも御本尊絶対の確信と、慈悲の思いに立たなくてはならない。
 そして「この人も御本尊を信ずれば必ず幸せになれる」との慈悲の思いをこめて、柔和に諄々と御本尊の功徳を説き聞かせていこう。
 
勇気と忍耐
 
 折伏を行ずるに当っては、勇気を持たなくてはいけない。
 たとえ相手が社会的地位の高い者であろうと大学者であろうと、こと仏法に関しては無智なのであるから、仏様の使いとして臆してはならない。
 「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(教行証御書)
 「仏の御使となのりながら臆せんは無下の人々なり」(下種本仏成道御書)と。
 また末法の大衆は貪・瞋・癡の三毒が強く、正法を素直に聞く者は少ない。
 小さな親切は誰にも理解され感謝されるが、人を根底から救う大きな慈悲はかえって理解され難く、時には謂れなき悪口・罵詈されることもある。
 ゆえに忍耐の心がなければ、末法の大衆を救うことはできない。
 釈尊は末法に三大秘法を弘通する上行菩薩の徳を称えて
 「其の志念堅固にして、大忍辱力あり」(涌出品)と説かれているが、大聖人の忍難の御振舞いを拝せば、まさにこの経文のごとくである。
 「此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆う道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。
 然ども、いまだこりず候
」(曽谷殿御返事)
 「日蓮一度もしりぞく心なし」(辧殿尼御前御書)
 「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事は、をそれをもいだきぬべし」(開目抄)と。
 大聖人がこのように大忍辱力を以て難を忍ばれたのは、ひとえに大慈大悲のゆえである。
 いま私達は慈悲においては御本仏の千万分の一にも及ばないが、大聖人への忠誠心のゆえに、よく耐え忍ぶ強靭な心が湧いてくるのである。
 
理論闘争ではない
 
 折伏は理論闘争ではない。
 日蓮大聖人の大慈悲と御本尊の功徳を教え人を救うのが目的であるから、いたずらに論議のための論議に終始してはならない。
 まして相手と対等の立場に立って興奮したり、感情的になって相争うようなことがあってはならない。
 あくまでも仏の御使いとして一段高い慈悲の立場に立つべきである。
 大聖人はもったいなくも、我等末弟の仏法上の位を、釈迦仏法の極位の菩薩に超過するのみならず、諸宗の元祖に勝出すること百千万億倍であるとして
 「請う、国中の諸人、我が末弟等を軽ずる事勿れ。乃至、
 天子の襁褓に纒れ、大竜の始めて生ずるが如し。
 蔑如すること勿れ、蔑如すること勿れ
」(四信五品抄)とまで仰せ下されている。
 どうしてこのような高い位を許し給うのか、それは、たとえ智解はなくとも、三大秘法をたもち御本仏の使いとして折伏を行ずるゆえである。
 忘れても三毒の大衆と対等の立場に立って相争うようなことがあってはならない。
 また折伏に当っては、いたずらに荒い言葉を発したり、粗暴な態度をしてはならない。
 非常識な言動はかえって法を下げることになる。
 「雑言・強言・自讃気なる体、人目に見すべからず、浅猨しき事なるべし」(教行証御書)と。
 ただし、仏法をあなずる者に対しては、師子王の気魄を以てその驕慢を打ち砕かねばならぬ。
 また仏法の正邪を決する法論等においては
 「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず。
 彼々の経々と法華経と、勝劣・浅深、成仏・不成仏を判ぜん時、爾前・迹門の釈尊なりとも物の数ならず、何に況んや其の以下の等覚の菩薩をや。
 まして権宗の者どもをや。
 法華経と申す大梵王の位にて、民とも下し鬼畜なんどと下しても其の過有らんやと意得て宗論すべし
」(教行証御書)との仰せのままに、邪法・邪義を破折する気魄を持たねばならない。
 
折伏には徒労がない
 
 折伏には徒労ということがない。
 相手が素直に入信すればこれほどの喜びはないが、たとえ反対しようとも、逆縁下種といって、相手の生命にはすでに仏種が下されたことになる。
 よって必ず将来、信心にめざめて成仏するのである。
 「当世の人、何となくとも法華経に背く失に依りて地獄に堕ちん事疑なき故に、とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし。
 信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり
」(法華初心成仏抄)と。
 この仰せのごとく、順逆二縁ともに救い切る、との確信に立って、あせることなく胸を張って堂々の折伏を行じようではないか。
 
 

特 別 講 習 会
折 伏 理 論 書 講 義

人生の目的は実に成仏を得るにある。
成仏とは、生死を乗り越えて永遠に崩れぬ、無上の幸福境界をいう。
日蓮大聖人の仏法を実践すれば、いかなる人も宿命が変わり、現世には幸いを招き、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得る。


三毒(貪欲-餓鬼界・瞋恚-地獄界・愚癡-畜生界)強盛の大衆に仏法を理解させるための理論を解説
 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第一章 日蓮大聖人とはいかなる御方か
一、 末法濁悪の世を救い給う御本仏

 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第一章 日蓮大聖人とはいかなる御方か
二、三大秘法を以てお救い下さる ~ 五、 末法下種の主・師・親、大慈大悲の御本仏

 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第二章 人生の目的と幸福論

 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第三章 十界論

 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第四章 三世常住の生命

 
大聖人の弟子として身につけるべき基本の教学
 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第五章 仏法の実践


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第六章 日蓮大聖人と釈迦仏の関係


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
一、二十年にわたる御修行 ~ 四、諸天善神とは


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
五、公場対決を迫る ~ 六、竜の口大法難


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
七、佐渡御流罪


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
八、出世の本懐 成就 ~ 九、日興上人に御付嘱


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第八章 冨士大石寺の歴史


宗教の正邪を判断する原理
 
折伏理論解説書 日蓮大聖人の仏法
──付── 宗教批判の原理 三証と五綱判

 
「此の六巻の書の師子王ある時は、国中の諸宗諸門の狐兎、一党して当山に襲来すといえども、敢て驚怖するに足らず」

冨士大石寺第廿六世日寛上人御著 六巻抄
冨士大石寺顕正会発行

 
 
 
今こそ全日本人は、
大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、
国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。

 

 日本は今、亡国の前夜を迎えている。
 その亡国は、どのような災難によってもたらされるのかといえば──
 まもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病(感染症)等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆(国内の分裂抗争)と他国侵逼(外敵の侵略)が起こるのである。
 これは凡夫の私が言うのではない。
 日蓮大聖人が立正安国論の奥書に「未来亦然しかるべきか」と示されるところによる。
 日本国は七百年前、この国にご出現された大慈大悲の御本仏・日蓮大聖人を、二度も流罪し、ついには竜の口の刑場で御頸まで刎ねんとした。
 この大逆罪はたちまちに「大蒙古の責め」という大罰となって現われ、国まさに亡びんとした。
 しかるに日本の人々は改悔なく、今に至るまで日蓮大聖人を信ぜず、背き続けている。
 仏法まことならば、どうして国の保つことがあろうか──。
 ここにいま「」来たって、日本国は再び亡国の大難を受けんとしているのである。
 しかしこの恐るべき亡国の大難が起きても、もしその起こる所以を知らなければ、人々はただ恐れ戦くのみで、これが「日蓮大聖人に背くゆえ」とは知るよしもない。
 したがって大聖人に帰依信順することもない。
 そうであれば、日本はそのとき必ず亡ぶ。
 よって日蓮大聖人の弟子として私は、前もってこれを全日本人に告げ知らしめて国を救わんと、本書を著わした次第である。──

 末法の世を迎え、御本仏日蓮大聖人が出現され、根源の大法・南無妙法蓮華経をもって全人類を救済される。
 全人類にとって、成仏の叶う唯一の大法を、身命も惜しまずお勧め下さるこの仏様こそ、まさしく主君であり、師匠であり、父母であられる。
 しかるに当時の日本国一同は、この主・師・親三徳の日蓮大聖人を悪口罵詈し、流罪し、ついには御頸までも刎ねんとした。
 この悪逆を見て、どうして諸天が怒らぬことがあろうか。
 ここに一国を罰する大災難が起きたのである。
 さらに御入滅後においても、日本一同がいつまでも背き続け、加えて門下までも御遺命に背いて仏法を乱す時が来れば、諸天はこれを許さず、覚醒せしむるために大罰を下す。
 これが、いま起こらんとしている広布前夜の亡国の大難なのである。
 大聖人はこの在世・滅後の二つの大災難の様相を、新尼抄に一文を以て兼ねて示されている。
 「末法の始めに謗法の法師・一閻浮提に充満して、諸天怒りをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。
 大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、乃至、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん
」と。──
 私が本書の冒頭に「まもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆・他国侵逼が起こる」と記したのは、まさしく立正安国論およびこの御文による。
 まもなく日本にこの大災難が必ず相次いで起こる。
 ゆえに前もってこれを告げ知らせたのである。
 御文を拝する──まず「諸天怒りをなし」とある。
 次文以下の諸災難のすべてが諸天の力用によること、刮目してみるべきである。
 「彗星は一天に……」はすでに平成九年に現じている。
 「大地は大波のごとくをどらむ」はまもなく始まる巨大地震。
 「大旱魃・大火・大水・大風」は異常気象による大災害。
 これら自然の猛威の前には、人間は全くの無力となる。
 「大疫病」とは感染症の大流行。
 「大飢饉」とは食糧危機と経済的飢渇たる国家破産。
 「大兵乱」とは自界叛逆と他国侵逼である。
 そして「一閻浮提(全世界)の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時」とは、地球規模の大戦乱が起き、世界中の人々が武器を手にする時──ということである。
 いま大量破壊兵器は地球上に拡散し、反米の嵐は収まるところを知らず世界に広がっている。
 いずれ国際テロ組織は大量破壊兵器を手に入れるであろう。
 このテロ組織を背後で操る国々もある。
 そしてついには米中対決にいたる。
 まさしく世界中が殺気立ち、武器を手にする時が来るのである。
 その結果、「諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時」となる。
 この人類滅亡にいたる恐ろしき末法濁悪の未来のため、大聖人は「五字の大曼荼羅」すなわち本門戒壇の大御本尊を、日本国に留め置き給うたのである。──

 今こそ全日本人は、大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。

 日本に残された時間は少ない──。
 立正安国論の「其の時、何んが為んや」同奥書の「未来亦然るべきか」の仏語は重い。

 
 
国家諫暁 
立正安国論謹講

 
一国諫暁 
日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第九章 日蓮大聖人の御遺命


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第十章 御遺命守護の戦い

 
 
「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ
早瀬日如管長がたとえ今、口頭で「国立戒壇が正しい」と述べたとしても、それは個人の見解になってしまう。
国立戒壇否定が責任役員会議決でなされ、宗門の公的意志となった以上、同じ手続を以てこれを否定しなければいけない。



真言密教は亡国の悪法
大御本尊様への信を失えば、御遺命の国立戒壇を捨てる
修羅と悪竜の合戦
大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす

「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ



仏法と皇室の関係
仏法と王法とは本源躰一
国立戒壇建立こそ大聖人の究極の大願
大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす

「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ



大聖人を無視しての、いかなる政策も軍備も虚しい
御遺命破壊と同時進行で進んだ原発設置
大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす

「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ

 
冨士大石寺顕正会々長浅井先生 著
 

遙拝勤行の仕方
冨 士 大 石 寺 顕 正 会

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