冨士大石寺顕正会 一国諫暁

 顕正会は、末法の御本仏・日蓮大聖人の御遺命たる
国立戒壇建立を見つめて戦う唯一の仏弟子の集団です。

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2020-08-05 | 御遺命守護の戦い・御遺命成就の戦い 冨士大石寺顕正会々長浅井先生 著


 日蓮大聖人は、末法濁悪の人と国を、根底からお救い下さる大慈大悲・絶大威徳の御本仏であられる。

人生の目的は成仏にある


 人生の目的を知らずに生きているのは、行先不明のバスに乗っているのと同じである。
 人生の目的は実に成仏を得るにある。
 成仏とは、生死を乗り越えて永遠に崩れぬ、無上の幸福境界をいう。
 日蓮大聖人の仏法を実践すれば、いかなる人も宿命が変わり、現世には幸いを招き、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得る。
 これが成仏の境界である。
 死後の未来のことなどわからぬ、という人もあろう。
 しかし仏法は空理・空論ではない。
 すべて証拠を以て論ずる。
 その証拠とは臨終の相である。
 臨終は一生の総決算であると同時に、臨終の相に、その人が死後の未来に受けるべき果報が現われる。
 だから臨終は人生の最大事なのである。
 ゆえに日蓮大聖人は
 「されば先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と仰せられている。
 では、地獄に堕ちる相、あるいは成仏の相とはどのようなものかといえば
 大聖人は
 「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。
 善人は設い七尺八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる、又軽き事鵞毛の如し、輭なる事兜羅綿の如し
」と。
 すなわち、地獄に堕ちる者は、死してのち遺体が黒くなるうえ、硬く、重くなり、恐ろしい形相となる。
 一方、成仏する者は、臨終ののち色が白くなり、軽く、柔らかく、かつ何とも柔和な相となるのである。
 臨終の相だけは人の意志の及ぶところではない。
 この因果の法則を説き切るのは、日蓮大聖人の仏法だけである。
 地位や財産による幸福はすぐに崩れる。
 現当二世(現世と来世)にわたり永遠に崩れぬ幸福は、成仏の境界以外にはない。
 日蓮大聖人こそ、我ら凡夫を仏にして下さる大慈大悲の御本仏であられる。

立正安国論の予言的中


 国家の興亡盛衰の根本原因は仏法の正邪による。
 もし国中が邪法を信じて正法に背けば国に災難が起こり、正しい仏法を立てれば国は安泰になる。
 これ仏法と国土を守護する諸天善神の力用による。
 日蓮大聖人は時の国主に対し、立正安国論を以て
 「念仏・真言・禅・律等の邪法に執着して、法華経の肝心たる三大秘法を立てなければ、この国必ず他国侵逼の大難を受ける」(取意)と諫められ、さらに
 「国を失い家を滅せば、何れの所にか世を遁れん」と警告された。
 しかし日本は四方を海で囲まれている。
 当時、この他国侵逼の御予言を信ずる者は誰もいなかった。
 だが十四年後、御予言は事実となった。
 世界を席捲した大蒙古が、日本を亡ぼすに足る圧倒的な兵力を以て二度も襲来したのである。
 日蓮大聖人の御予言は、海外情勢などによる推測などではない。
 実に、仏法を守護する諸天善神に申し付ける絶大威徳を以ての御断定であれば、違うことがないのである。
 もし他国侵逼が事実になれば、人々は始めて改悔の心を起こし、死後の無間地獄の大苦を消滅させることができる。
 立正安国論の御予言はまさにこの大慈大悲であられる。
 ゆえに大聖人は
 「現世に云いおく言の違わざらんを以て、後生の疑いをなすべからず
 また
 「あへて憎みては申さず、大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり」と仰せられている。
 また、この予言的中を見れば、もし日本国一同が日蓮大聖人を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉り、御遺命のままに国立戒壇を建立すれば、日本は仏国となって真に安泰になること、断じて疑いない。
 これが「立正安国」の実現である。

国家権力も御頸切れず


 日蓮大聖人の折伏に対し、教義上の反論ができぬ邪僧らは、民衆を煽動し国主に讒奏して、大聖人の命を奪わんとした。
 かくて、ついに国家権力による死罪が執行された。
 文永八年九月十二日の深夜、大聖人は竜の口刑場の「頸の座」に坐し給うた。
 そして大刀まさに振り降ろされんとしたその刹那、「月のごとく光りたる物」が突如出現し、太刀取は目がくらんでその場に倒れ伏し、数百人の兵士たちも一斉に逃げ出し、みなことごとく砂浜にひれ伏してしまった。
 ひとり頸の座にまします大聖人は高声に
 「頸切るべくわ急ぎ切るべし。
 夜、明けなば見苦しかりなん
」と死刑執行を催促された。
 しかし近よる者とてない。
 まさに国家権力が、ただ一人の大聖人の御頸を切れず、かえってその絶大威徳の前にひれ伏してしまったのである。
 このような不可思議・荘厳な光景は、この地球上に未だ曽てない。
 この思議を絶する大現証こそ、日蓮大聖人が久遠元初の御本仏、末法の全人類をお救い下さる仏様であることを顕わすものである。

残された時間は少ない


 大聖人は流罪の地・佐渡の雪中において
 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」と叫ばれた。
 すなわち、日蓮大聖人を信ずるか背くかによって、日本国の有無も、人類の存亡も決するということである。
 いま世界は核兵器使用の第三次大戦の瀬戸際にあり、人類は絶滅の危機に瀕している。
 その中で日本は軍事超大国・中国の侵略に脅えている。
 この国に大慈大悲・絶大威徳の御本仏ましますを無視し、背き続けたゆえに、いま日本は亡国を招かんとしているのである。

 この大国難には、日米安保も第九条も虚しい。

 今こそ全日本人は、大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。
 
 残された時間は少ない。
 
 
 
広告文と遥拝勤行で広宣流布は成る

誰人も否定できぬ三つの大現証
広告文と遥拝勤行で広宣流布は成る


一、人生の目的は成仏・臨終の証拠
二、立正安国論の予言的中
三、国家権力も御頸切れず

広告文と遥拝勤行で広宣流布は成る


戦争法案も第九条も日本を守れない
なぜ西隣に核軍事大国が出現したのか
すべては仏法より事起こる

日蓮大聖人の絶大威徳・大慈大悲を拝せ


遥拝勤行の大功徳
広告文と遥拝勤行で広宣流布は必ず成る


無量無辺の大功徳
戒壇の大御本尊より外に仏に成る道なし


戒壇の大御本尊の無量無辺の功徳
遥拝勤行こそ広布最終段階の信行の姿


勤行とは御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉る修行
遙拝勤行(ようはいごんぎょう)の仕方(しかた)




今こそ全日本人は、
大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、
国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。

 

 日本は今、亡国の前夜を迎えている。
 その亡国は、どのような災難によってもたらされるのかといえば──
 まもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病(感染症)等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆(国内の分裂抗争)と他国侵逼(外敵の侵略)が起こるのである。
 これは凡夫の私が言うのではない。
 日蓮大聖人が立正安国論の奥書に「未来亦然しかるべきか」と示されるところによる。
 日本国は七百年前、この国にご出現された大慈大悲の御本仏・日蓮大聖人を、二度も流罪し、ついには竜の口の刑場で御頸まで刎ねんとした。
 この大逆罪はたちまちに「大蒙古の責め」という大罰となって現われ、国まさに亡びんとした。
 しかるに日本の人々は改悔なく、今に至るまで日蓮大聖人を信ぜず、背き続けている。
 仏法まことならば、どうして国の保つことがあろうか──。
 ここにいま「」来たって、日本国は再び亡国の大難を受けんとしているのである。
 しかしこの恐るべき亡国の大難が起きても、もしその起こる所以を知らなければ、人々はただ恐れ戦くのみで、これが「日蓮大聖人に背くゆえ」とは知るよしもない。
 したがって大聖人に帰依信順することもない。
 そうであれば、日本はそのとき必ず亡ぶ。
 よって日蓮大聖人の弟子として私は、前もってこれを全日本人に告げ知らしめて国を救わんと、本書を著わした次第である。──
 
 末法の世を迎え、御本仏日蓮大聖人が出現され、根源の大法・南無妙法蓮華経をもって全人類を救済される。
 全人類にとって、成仏の叶う唯一の大法を、身命も惜しまずお勧め下さるこの仏様こそ、まさしく主君であり、師匠であり、父母であられる。
 しかるに当時の日本国一同は、この主・師・親三徳の日蓮大聖人を悪口罵詈し、流罪し、ついには御頸までも刎ねんとした。
 この悪逆を見て、どうして諸天が怒らぬことがあろうか。
 ここに一国を罰する大災難が起きたのである。
 さらに御入滅後においても、日本一同がいつまでも背き続け、加えて門下までも御遺命に背いて仏法を乱す時が来れば、諸天はこれを許さず、覚醒せしむるために大罰を下す。
 これが、いま起こらんとしている広布前夜の亡国の大難なのである。
 大聖人はこの在世・滅後の二つの大災難の様相を、新尼抄に一文を以て兼ねて示されている。
 「末法の始めに謗法の法師・一閻浮提に充満して、諸天怒りをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。
 大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、乃至、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん
」と。──
 私が本書の冒頭に「まもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆・他国侵逼が起こる」と記したのは、まさしく立正安国論およびこの御文による。
 まもなく日本にこの大災難が必ず相次いで起こる。
 ゆえに前もってこれを告げ知らせたのである。
 御文を拝する──まず「諸天怒りをなし」とある。
 次文以下の諸災難のすべてが諸天の力用によること、刮目してみるべきである。
 「彗星は一天に……」はすでに平成九年に現じている。
 「大地は大波のごとくをどらむ」はまもなく始まる巨大地震。
 「大旱魃・大火・大水・大風」は異常気象による大災害。
 これら自然の猛威の前には、人間は全くの無力となる。
 「大疫病」とは感染症の大流行。
 「大飢饉」とは食糧危機と経済的飢渇たる国家破産。
 「大兵乱」とは自界叛逆と他国侵逼である。
 そして「一閻浮提(全世界)の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時」とは、地球規模の大戦乱が起き、世界中の人々が武器を手にする時──ということである。
 いま大量破壊兵器は地球上に拡散し、反米の嵐は収まるところを知らず世界に広がっている。
 いずれ国際テロ組織は大量破壊兵器を手に入れるであろう。
 このテロ組織を背後で操る国々もある。
 そしてついには米中対決にいたる。
 まさしく世界中が殺気立ち、武器を手にする時が来るのである。
 その結果、「諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時」となる。
 この人類滅亡にいたる恐ろしき末法濁悪の未来のため、大聖人は「五字の大曼荼羅」すなわち本門戒壇の大御本尊を、日本国に留め置き給うたのである。──

 
 では、大聖人に背くと、なぜこのように国に災難が現われるのか、罰があらわれるのであろうか。
 それは、宇宙的スケールの力用を持つ「諸天善神」が、日蓮大聖人を常に守護し、その後化導を助けまいらせているからに他ならない。
 立正安国論にはこの理を、災難のおこる原理に約して次のごとく示されている。
 「世皆正に背き、人悉く悪に帰す。
 故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。
 是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる。
 言わずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず
」と。
 文意を端的にいえば──
 もし一国こぞって日蓮大聖人に背くならば、仏法を守護する諸天善神の働きにより、国に災難が起こる──ということである。
 このことは、世間の常識では理解しがたいとは思われる。
 しかし、わかろうとわかるまいと、真実のことはどうしても言わねばならぬ。
 「言わずんばあるべからず」なのである。
 では「諸天」とは何かというと、十界の中の天上界の衆生である。
 この宇宙法界には、仏法を守護する天上界の生命活動を存在している。
 梵天・帝釈・日月・四天等がこれである。
 目には見えないが、その存在を疑ってはならない。
 人類はつい近年まで、ウイルスの存在も、ブラックホールの存在も知らなかったではないか。
 しかし人の知・不知にかかわらず、これらは存在していたのである。
 だから、固定観念にとらわれて諸天の存在を否定すれば、慢心・偏見ということになる。
 まして、大聖人の御化導の上に現われた諸天の厳然の働き、この現実の証拠を見れば、これを否定できる人は一人もないはずだ。
 この諸天の働きはどのようなものかといえば──
 もし一国こぞって日蓮大聖人を迫害すれば、諸天はまず大地震・大彗星・異常気象・大飢饉・大疫病(感染症)等を発生させてその国を諫める。
 しかるに迫害なお止まなければ、人の心に入って自界叛逆せしめ、ついには隣国の王の心を動かしてその国を責めしめる──と経文・御書には示されている。
 地震・異常気象・ウィルスの発生など、自然現象と見られるものも、表面の発生メカニズムは科学者の説明するごとくかも知れぬが、その根底には、諸天の力用が作用しているのだ。
 まさに諸天の力用は時空を超えた宇宙的スケールなのである。
 この諸天が、日蓮大聖人を常に守護し、その御化導を助けまいらせている。
 ゆえに竜の口のあの大現証も起きたのである。
 いかに狂気の権力者が大聖人の御命を奪わんとしても、奪うことはできなかった。
 このことを大聖人は「設い大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば、梵釈・日月・四天等、天照大神・八幡の守護し給うゆえに、罰しがたかるべし」(出世本懐成就御書・別称 聖人御難事)と仰せられている。
 また、大慈大悲の御本仏を流罪・死罪にすれば、諸天は必ずその国を治罰する。
 このことを「日蓮は一閻浮提(世界)第一の聖人なり。
 上一人より下万民に至るまで之を軽毀して刀杖を加へ流罪に処するが故に、梵と釈と日月・四天、隣国に仰せ付けて之を逼責するなり
」(聖人知三世事)と。
 さらに深く見れば、この蒙古の責めは大聖人が諸天に申しつけ、起こさしめ給うたものである。
 これ一国を改悔させ、後生の無限地獄の大苦を今生に消さしめんとの大慈大悲であられる。
 ゆえに「法華経の敵となりし人をば、梵天・帝釈・日月・四天 罰し給いて、皆人に見懲りさせ給へと申し付けて候。
 日蓮 法華経の行者にてあるなしは、是れにて御覧あるべし。
 こう申せば国王等は、此の法師の威すと思えるか。
 あへて憎みては申さず、大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり
」(王舎城事)とは仰せられる。
 このように末法の御本仏は、諸天を随え、申し付ける大境界であられればこそ、その主徳を「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」とお示し下さるのである。──
 
 次いで大聖人は、国中の邪法の代表として念仏宗を挙げ、その邪義を徹底して破折された上で「早く天下の静謐を思わば、須く国中の謗法を断つべし」と国主に促がされている。
 そして文末にいたって、もし邪法に執着して日蓮大聖人に背き続けるならば、必ず他国によって我が国が破られることを断言されている。
 このご予言は安国論の肝要であるから御文を引く。
 「先難是れ明らかなり、後災何ぞ疑わん。
 若し残る所の難、悪法の科に依って並び起こり競い来らば、其の時何んが為んや
」と。
 「先難」とは天変地夭など亡国の前兆としての災難。
 「後災」とは亡国をもたらす他国侵逼・自界叛逆の二難である。
 先難がすでに現われている以上、後災の来ることは疑いないとして、もしこの二難が事実になったら「其の時何んが為んや」と厳しく誡められている。
 ついで後災の二難の恐るべきことを「帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。
 而るに他方の賊来りて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや、豈騒がざらんや。
 国を失い家を滅せば、何れの所にか世を遁れん
」と強々と教示下されている。──
 
 日興上人は鎌倉幕府への申状において「所詮末法に入っては、法華本門を建てられざるの間は、国土の災離日に随って増長し、自他の叛逆歳を逐うて蜂起せん」と仰せ給う。
 この御意は日蓮大聖人の御入滅後においては、三大秘法を立てない間は、国土の災害は日ごとに増大し、自界叛逆・他国侵逼の災難は歳を逐って激しくなる。
 すなわち、日蓮大聖人に背き続けている間は、罰はだんだんと深刻になる、ということであります。
 歴史を見ればこのとおりでしょう──。
 大聖人御入滅後、ほどなくして日本は、天皇が二人同時に立つという歴史始まって以来の事態が発生し、これが五十数年も続いた。
 いわゆる南北朝時代ですね。
 そしてこれに源を発して応仁の乱が始まり、やがて日本全土が血を血で洗う戦国時代になった。
 これが百数十年間も続いたのです。
 さらに明治以降は日清・日露・日中・日米戦争と、相次いで他国との戦争に巻き込まれ、昭和に至って日本は、アメリカを主とする連合国に敗れ、三百数十万の犠牲者を出して悲惨な敗北を喫した。
 まさに大聖人に背き続けるゆえに罰は歳を連って深刻になり、ついに昭和二〇年、始めて敗戦したのです。
 では、罰はこれで終わったのか。
 そうではない。
 「大罰未だ終わらず」であります。
 戦後七〇年の平和というのは、戦勝国アメリカに保護されての「属国的平和」に過ぎないのです。
 アメリカの占領政策の根幹は、日本を弱体化して、二度とアメリカの脅威にならぬ国にするところにあった。
 そのために「日本国憲法」を与えて戦争を放棄させ、交戦権を否認させ、さらに一切の戦力を保持させないことにしたのです。
 だが、これで国家が存立できますか──。
 戦争をしないのはいい。
 しかしもし他国から侵略されたらどうするのか。
 交戦権もない、戦力もないでは、国家は存立できない。
 そこで、必然的にアメリカに守ってもらうということになる。
 これがアメリカの占領目的だったのです。
 すなわち、アメリカに依存しなければ生存できない日本にするということです。
 そしてこの枠組みを法律的に定めたのが、日本国憲法と日米安全保障条約の二つだったのであります。
 かくて日本は、国防という国家にとっての最大事を、アメリカに委ねて生存することになった。
 そしてカネ儲けに専念し、その利益をまたアメリカに還元する。
 すなわち米国債を購入してアメリカの財政に貢献する、というような形の国になってしまった。──
 
 日米安全保障条約というのは、言ってみれば、日本の生命維持装置ですよ。
 これがなくなれば日本は存立できない。
 そして、この安保条約の解消をもっとも強く望んで、様々な工作しているのが中国です。
 遠からずアメリカは国益のために、この条約を解消せざるを得なくなる。
 それは二〇年代に起こると私は思っている。
 同時に日本への侵略が始まるのです。
 もしこの侵略に抗して戦えば日本全土は廃墟となる。
 もし屈伏すれば日本は中国の属領となってすべてが奪われる。
 これが亡国です。
 まさに日本は今、国家存亡の渕に立っているのであります。
 しかし日本の人々は誰もこれを知らない。
 政治家は驕って事態の深刻さを見つめようとしない。
 眼前の人気取りに心を奪われ、国家の安危を憂えないのです。
 大聖人様は富木殿御書に「夫れ賢人は安きに居て危うきを欲い、佞人は危うきに居て安きを欲う」と。
 賢人というのは、まだ事が起こらぬ以前に将来の危機を憂えるが、愚かで心の曲がった者は、危機が眼前に迫っているのに目先の安逸を貪るものである──
 
 敵国条項というのは、国連憲章五三条一項に定められている。
 つまりわかり易く言えば 第二次大戦の敗戦国である日本やドイツが、再びナチズムや軍国主義を復活させて侵略政策を開始するようなことがあったならば、戦勝国のメンバーは安全保障理事会の許可がなくても、一方的に日本あるいはドイツを攻撃してもよい──という定めです。
 中国はこの戦勝国のメンバーに入っているのです。
 国連憲章は国際法上の最上位に位置しているから、日米安保条約よりも優先される。
 もし中国がこれを適用したら、アメリカは手が出せない。
 いやそれ以前に、もうアメリカはすでに中国とは対決できなくなっている。
 「東風41」「巨浪2号」という、アメリカ本土の大都市を一挙に壊滅し得る核戦力を持った中国と対決をしてまで、アメリカは日本を守ろうとはしない。
 「核の傘」はすでにないのです。
 孤立した日本は、どうやって国を守るのか。
 さらに日本の憂いは敵国条項だけではない。
 中国には、日本を侵略する必然があるのです。
 ということは、やがて中国経済は崩壊する。
 国内は大混乱に陥る。
 そのとき、中国共産党が政権を維持するには、反日・憎日を煽って日本を侵略する以外にはないのです。──
 
 諸天の守護がなければ、すべては虚しくなるのです。
 ゆえに大聖人様は「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず、果報つきぬれば所従もしたがはず」(四条抄)と仰せられる。
 国に福運がなくなり、諸天の守護がなくなれば、何をやっても裏目に出てしまうのであります。
 では、どうしたらこの大国難に打ち勝つことができるのか。
 大聖人様は「立正安国」と仰せ給う。
 正しい仏法を立てれば自ずと国は安泰になる。
 さらに大聖人様は「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」と仰せあそばす。
 一国こぞって日蓮大聖人に背くゆえに、諸天はこの国を捨てる。
 ゆえに他国侵逼が今、迫って来たのであります。──
 
 では、日本は中国の脅威に、どう対応したらいいのか──。
 自虐史観の者たちは平和憲法にしがみついている。
 だが、戦争放棄・戦力放棄の「第九条」で国が守れるなどというのは、空虚な観念論にすぎない。
 一方、「日本を取り戻そう」という皇国史観の者たちは「自主防衛」を叫んでいるが、この行き着くところは核武装となる。
 これは一見、現実的兵法のごとくに見える。
 しかし、これはかえって日本の命取りになるのです。
 「運きはまりぬれば兵法もいらず」とは、このことであります。
 いいですか。
 もし日本が核武装を進めたら、どうして中国が黙っていようか。
 必ず先制攻撃をして日本を潰滅させるに違いない。
 その先制攻撃に核を使用する必要はない。
 核を使用すれば国際社会から非難される。
 核弾頭を使用しなくとも、中国はすでに強力な通常弾頭を搭載した、日本に照準を合わせた長距離射程ミサイルを、多数配備しているのです。
 アメリカ海軍アドバイザーで中国軍事に詳しい政治社会学博士の北村淳氏は、著書「尖閣を守れない自衛隊」において
 「中国軍は、日本全土を射程圏に収めているさまざまな長射程ミサイル、すなわち中距離弾道ミサイルと長距離巡航ミサイルを多数保有し、その数は日々、増加し続けている。
 この長射程ミサイルは、中国本土の陸上からでも、上空や海上や海中からでも、日本各地の戦略目標を破壊する攻撃能力を持っている」と。
  「日本各地の戦略目標」とは、原発をはじめとする重要施設です。
 もし日本列島の五四基の原発が、このミサイル攻撃によって、福島原発事故以上の大爆発を一斉に起こしたら、日本は瞬時に潰滅してしまうではないか。
 しかもこれを防ぐ手段は日本にはない。
 また、たとえ先制攻撃を受けずに核武装に成功したとしても、「仏法より事起こる」の侵略、諸天の責めならば、それを防ぐことはできない。
 ゆえに下山抄には「真の天の責めにてだにもあるならば、たとい鉄囲山を日本国に引き回らし、須弥山を蓋いとして、十方世界の四天王を集めて波際に立て並べて防がんとするとも……」と仰せあそばす。
 諸天の真の責めによる侵略、すなわち日蓮大聖人に背くゆえに起きた侵略ならば、いかなる重装備、たとえ核武装をするとも、防ぐことはできないということです。
 だから自虐史観もダメ、皇国史観もダメ。
 平和憲法に頼るのもダメ、核武装に頼るのもダメだと、私はいうのです。
 諸天の守護がなければ、すべては虚しくなるのです。
 この日本には、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人がまします。
 諸天に申し付ける絶大威徳の御本仏がましますではないか。
 どうしてこの御本仏を、杖・柱と頼みまいらせないのか。
 弘安二年十月、二度目の蒙古侵略を前にして脅える幕府に対して、大聖人様は滝泉寺申状を以てこう仰せられた。
 「聖人国に在るは、日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり。
 諸竜を駈り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし
」と。
 久遠元初の御本仏がこの国にましますということは、日本国の大きな喜びであって、これを侵さんとする蒙古国にとっては大きな憂いとなる──と。
 御本仏のご存在は、これほど重大なのです。
 当時の日本はこの御本仏を流罪・死罪に処し奉ったゆえに、諸天はこの国を罰した。
 しかし大聖人様は大慈大悲を以て、冥々のうちに日本国を御守護下された。
 私が成人式で述べたように「大聖人様の御頸は刎ねて刎ねられず、日本国の柱は倒して倒されず、よって日本も亡んで亡びず」であった。
 まさに大聖人様が冥々のうちに御守護下されたのです。
 見てごらんなさい。
 圧倒的な蒙古筆の襲来が、二度が二度とも、不思議の大風によって退けられているではないか。
 まさしくこれ、大聖人様の申し付けによってなされた、諸天の働きであります。──
 さらに大聖人様は同申状に仰せられる。
 「君既に賢人に在さば、豈聖人を用いずして徒に他国の逼めを憂えんや」と。
 時の国主・北条時宗よ、もし賢人であるならば、どうして大聖人を用いずして、いたずらに他国の逼めを憂えるのか──と。
 この仰せは、御在世の日本国と同時に、広布前夜の今の日本国に、仰せ下されたものであります。
  「聖人を用い奉る」とは、国立戒壇を建立するということ。
 すなわち日本一同に日蓮大聖人を恋慕渇仰して南無妙法蓮華経と唱え奉り、国立戒壇を建立することです。
 これよりほかに日本が滅亡を遁れる術は断じてない。──
 
 今こそ全日本人は、大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。

 日本に残された時間は少ない──。
 立正安国論の「其の時、何んが為んや」同奥書の「未来亦然るべきか」の仏語は重い。

 
国家諫暁
立正安国論謹講

 
一国諫暁
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
日蓮大聖人を信ずるか背くかによって、日本国の有無も、人類の存亡も決する

日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ

 
 
 
確固たる歴史認識を持て

明治維新以後の四つの戦争
仏法の鏡に照らして見よ
侵略戦争ではないが罰
「大闘諍」はこれから
「豈聖人を用いずして徒に他国の逼めを憂えんや」
「なぜ聖人の言葉を用いずして、いたずらに他国の逼めを憂えるのか」

自虐史観を捨て 仏法史観に立て

 

日蓮によりて日本国の有無はあるべし
この仰せこそ仏法史観の骨髄・肝心
自虐史観も皇国史観も国を亡ぼす

 

自虐史観もダメ、皇国史観もダメ、早く仏法史観にめざめよ
お救い下さるは日蓮大聖人ただ御一人
早く日蓮大聖人に帰依して国立戒壇を建立すべし

 

日蓮によりて日本国の有無はあるべし
中国の核(東風41・巨浪2)ついに米国本土を制す
日本国亡国の危機、安保条約の解消も



広宣流布は歴史の必然

日蓮大聖人こそ日本の柱、早く国立戒壇を
相次ぐ三災七難は他国侵逼の先兆

米・中両国の力関係に歴史的地殻変動

 
 
 
日蓮大聖人の仏法を実践

人生の目的は実に成仏を得るにある。
成仏とは、生死を乗り越えて永遠に崩れぬ、無上の幸福境界をいう。
日蓮大聖人の仏法を実践すれば、いかなる人も宿命が変わり、現世には幸いを招き、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得る。

なぜ信心(しんじん)せねばならぬか

 
勧誡の二門
 
勧門
一念信解を御教示下された

四信五品抄を拝し奉る

 
誡門
不退の信心を御教示下された

兄弟抄を拝し奉る

 
 
 
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最新の顕正新聞特集号
 

「20年代こそ広布の決戦場」特集号

 
 
 
前科ある上は、なおさら
「日蓮正宗・責任役員会」の議決を以て「国立戒壇否定」を取り消し、
その上で、管長として御遺命の正義を宣示しなければいけない。


 それに付けても憂うべきは、いま日本に迫りつつある災難の根源が、まさに正系門家の御遺命違背にあるということである。──

 されば、すでに言い尽くしたことではあるが、改めて御遺命の大事と宗門の違背について、その大略を申し述べる。
 日蓮大聖人御遺命の戒壇とはどのようなものかについて、これまで学会・宗門は曲会の限りを尽くしてきた。
 しかしその相貌は三大秘法抄・一期弘法抄に赫々明々で、異論をさしはさむ余地もない。

 今その御聖意を謹んで約言し奉れば 広宣流布の暁に、国家意志の公式表明を以て、富士山天生原に建立される国立戒壇こそ、御遺命の戒壇であり、これを事の戒壇という。

 されば第二六世・日寛上人は報恩抄文段に「事の戒壇とは、即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」と仰せられ、その証として一期弘法付嘱書を引いておられる。
 この「事の戒壇」が国立戒壇であることは、第五九世・日亨上人の「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)
 また第六五世・日淳上人の「蓮祖は国立戒壇を本願とせられ、これを事の戒壇と称せられた」(富士一跡門徒存知事の文に就いて)等の諸指南に明々白々である。
 さらに第六四世・日昇上人は昭和三〇年、新御宝蔵たる「奉安殿」の落慶に臨み、次のごとく宣言されている。
 「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れり。
 国立戒壇こそ本宗の宿願なり。…
 血脈付法の法主を継げる日昇、…今落慶の式を行い、此処に戒壇の本尊を永久に安置し奉るなり。
 『時を待つべきのみ、事の戒法とは之れなり』の金言を身に体して、必ず来るべき国立戒壇建立の暁まで守護すべし。
 後々の法主も一心同体たるべきと確信す。
 願くば宗祖大聖尊の法魂、安穏に常住し給わんことを
」と。
 この凛呼たる宣言を拝すれば、二祖日興上人以来、正系門家・富士大石寺が「国立戒壇」を唯一の宿願として来たこと、また国立戒壇建立のその日まで、戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉ることを専一とされて来たこと、了々として明らかである。
 さらに日昇上人は深き慮りを以て「必ず来るべき国立戒壇建立の暁まで守護すべし。
 後々の法主も一心同体たるべきと確信す
」と念言されている。
 次の第六五世・日淳上人は「国立戒壇」堅持の英邁の正師であられた。
 ゆえに総本山の元旦勤行にこと寄せて「この元朝勤行とても…二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります」(大日蓮・昭和34年1月号)と仰せられている。
 悲しいかな、正系門家において国立戒壇の御遺命が堅持されたのは、この日淳上人までであった。
 次は第六六世・細井日達。
 この人も登座直後は「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華・昭和35年1月号)と正論を述べていた。
 だが、この六六世・細井日達と、次の六七世・阿部日顕によって、御本仏の御遺命は破壊されたのであった。
 広布前夜の正系門家を、第六天の魔王が壊乱せぬ道理はない。
 天魔は御本仏の御遺命成就を阻止せんと、まず政治野心に燃える池田大作の身に入った。
 池田は忽ちに「国立戒壇は選挙の妨げになる」との邪見を起こし、国立戒壇を否定するために偽戒壇・正本堂を建て、これを時の貫首に「御遺命の戒壇」と承認させようとした。
 このような非常事態が未来に起こるを慮られ、二祖日興上人は「衆議たりと雖も仏法に相違あらば、貫首之を摧くべき事」とご遺誡されている。
 だが、細井日達は諂いの人。
 大聖人の御眼も恐れず、日興上人の御誡めも無視して、池田大作の意のままに正本堂を御遺命の戒壇と承認し、さらに「国立戒壇は本宗の教義ではない」(大日蓮・昭和50年9月号)と言い放ったのであった。
 このたばかりをなすに当って細井日達は、なんと「事の戒壇」の定義まで変更しているのである。
 次の阿部日顕はさらに諂曲の人。
 中国の天台僧・一行が、真言の善無畏にそそのかされて大日経の疏を造ったごとく、池田大作の意向のままに「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」なる二冊の悪書を著した。
 彼はこの悪書において、三大秘法抄の聖文を切り刻んではその文意を一々に曲会し、あたかも正本堂が御遺命の戒壇に相当するごとくにたばかり、以て国立戒壇を否定したのであった。
 だが、この卑劣をみるべし──。
 彼は小生の平成十六年四月の諌暁書を読むや、その年の八月、総本山に全国の住職を集め、自身の二冊の悪書について次のごとく釈明をする。
 「昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。
 つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。
 そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論である」(大日蓮・平成16年12月号)と。
 曽ては己れの栄達のために池田大作に諂って偽戒壇を賞讃した。
 だが正本堂が崩壊した今となっては二冊の悪書はどうしても破棄せねばならぬ。
 そこで正本堂の大罪をひとり池田になすりつけ、〝正本堂がなくなった今となっては、正本堂についての論義はすべて空論〟と嘯いて、小生の糺明を逃れんとしたのだ。
 これあたかも、イカサマを咎められた博徒が、細工した賽子を打ち砕いて「賽子がない以上、すべて空論」とうそぶくに似ている。
 このような卑劣漢なればこそ、「河辺メモ」における大謗法発言も、身延僧の大石寺招待も平然、そして御本仏一期の御遺命すら破壊し得たのである。
 佐渡御言に云く「外道・悪人は如来の正法を破りがたし、仏弟子等必ず仏法を破るべし。
 師子身中の虫の師子を食む等云々
」と。
 細井日達・阿部日顕の二人こそ、貫首の身として内部から御遺命を破壊した者、まさしく師子身中の虫ではないか。
 かかる時は、日興上人の「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」の御遺誡のまま、仏法を守護せねばならぬのである。
 而して正本堂の誑惑において、戒壇の大御本尊に対し奉る最大の冒涜行為は、正本堂を御遺命の戒壇と見せかけるために、この偽戒壇に大御本尊を居え奉ったことである。
 謹んで思うべし──。
 国立戒壇に安置し奉るべしとて御本仏が留め置き給うた本門戒壇の大御本尊を、あろうことか、国立戒壇を否定するための偽戒壇に居えまいらせたのである。
 御本仏への師敵対、そして戒壇の大御本尊を辱め奉ること、これより甚だしきはない。
 されば御本仏はこの大悪を許し給わず、顕正会をして諌暁せしめ、諸天をして宗門・学会を叛逆せしめ、ついに正本堂を打ち砕かせ給うたのである。
 かくて、宗門・学会一体になって「末法万年の事の戒壇」と讃歎した正本堂は、わずか二六年で潰え去ったのであった。──

 昭和三十九年以来の長きにわたった御遺命破壊のたばかりも、今ようやく最終章を迎えておりますが、この悪事に加わった五人にはみな共通して、戒壇の大御本尊様に対し奉る信心がないことがわかる。
 見てごらんなさい。
 池田大作は、ローマ法王庁に「板漫荼羅に偏狭にこだわらない」と伝えて神父を迎え、また学会版経本から「本門戒壇の大御本尊」の九文字を削除し、さらに原田会長に「弘安二年の御本尊は受持の対象にはしない」などと恐るべき謗言を吐かせている。
 細井日達は、国立戒壇に安置し奉るべき戒壇の大御本尊を、偽戒壇正本堂、しかもキリスト教神父を招いて汚した正本堂に、居え奉った。
 これほどの不敬はない。
 山崎正友は先述のごとく、身延派に「戒壇の大御本尊を攻撃せよ」と嗾け
 阿部日顕と大草はこの大謗法者・山崎と結託した。
 まさしくこの五人は、第六天の魔王に、戒壇の大御本尊様への信を抜き取られてしまったのです。
 大御本尊様への信を失えば、御遺命の国立戒壇を捨てることは当然です。
 これがこのたびの「御遺命破壊」の本質であります。
 だが、大聖人様はこの大悪を断じてお許しにならない。
 ゆえにいま最終章になったのです。
 見てごらんなさい。
 何より偽戒壇・正本堂はすでに打ち砕かれてしまったではないか。
 そして五人を見れば──

 池田大作は平成二十二年五月以来、九年余にわたって「生ける屍」になったままである。
 細井日達は、大事の「御相承」もなし得ずに悪臨終を遂げた。
 山崎正友は、平成二十年十二月に命終して「入阿鼻獄」となっている。──

 阿部日顕は四十年間にわたり「詐称法主」と言われ続け、その間、国立戒壇の誹謗を続けたが、長い病苦の末に昨年九月二十日に命終した。
 その臨終の相も今は隠されているが、やがて明らかになること疑いない。
 これらを見れば、まさに「大陣すでに破れぬ、余党は物のかずならず」との仰せのままであります。──

 また「寄生虫」たる大草などは、宿主を失えば自然消滅するだけです。
 ここに宗門はいま、新しい段階に入らんとしております。
 いつまでも正系門家が御遺命に背いたままでは、「仏法は体、世間は影」であるから、日本が亡んでしまうのです。──

 大聖人様は仰せあそばす。
 「悪は多けれども一善にかつ事なし」また「吾が一門の人々の中にも、信心もうすく日蓮が申す事を背き給わば、蘇我が如くなるべし」と。
 大聖人様に背いて身の保つ者はないのであります。──


 もし戒壇の大御本尊を捨て奉れば、その人は死してのち、必ず阿鼻獄に堕ちる。
 ゆえに法華経の譬喩品には「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」とある。
 この意は、いま末法においては、もし戒壇の大御本尊を信ぜずに謗る者は、死してのち阿鼻獄に入る──ということです。
 「阿鼻獄」とは「無間地獄」のことです。
 無間とは、耐えがたい苦痛が一瞬の間も無く襲うから無間地獄というのです。──

 私は早く八百万学会員を救いたい。
 一日も早く戒壇の大御本尊様に繋がる遥拝勤行に励み、ともに国立戒壇建立に戦う同志となってほしいと、強く念願しております。──


 「議題」には「国立戒壇の名称不使用の件」とあるが、それを説明する「第一号案」(左)には「本宗教義の本質より鑑み」とあって、放棄したのは、単に名称だけではなく「国立戒壇」そのものであることを示している。
 ゆえにこの翌5月に開催された創価学会本部総会において細井日達は「日蓮大聖人は、大聖人の仏法を国教にするなどとは仰せられてない。
 国教でない仏法に『国立戒壇』などはあり得ない」と述べて国立戒壇を否定しているのである。


 私は昨年七月の総幹部会において、早瀬日如管長に対し
 「正本堂崩壊の後も、未だに国立戒壇否定はそのままになっている。
 早く『日蓮大聖人の御遺命は国立戒壇である』と宣言し給え」
 と直諫した。
 だが今に至るまで、何の応対もない。
 ここに思うに、早瀬日如管長は昭和四十年六月以来、宗門の議決機関である「宗会」の議員であった。
 だから当然、昭和四十五年四月の国立戒壇否定の議事録の内容も知っていたに違いない。
 だが、この御遺命破壊を見てもこれに与同していたのである。



 また昭和五十年十月四日の「宗会議員決議書」なる文書には、当時「宗会議員・早瀬義寛」の名を以て署名をしていた。
 この「宗会議員決議書」はいかなる文書かと言うと、解散処分を受けても微動もせず、なおも強く諫暁を続ける顕正会を見て、池田大作が、宗門・学会全体に「猊下に背く顕正会(当時・妙信講)」を印象づけるために作成させたものです。
 ゆえにまず宗門に「宗会議員決議書」を昭和五十年十月四日付で作成させ、その四日後に「創価学会副会長室決議」を作制し、これを共に広く宗門・学会に頒布しているのです。
 この「宗会議員決議書」の中には、次のような文言がある。
 「近来法主上人の再々の御指南にもかかわらず異義を唱える者がありますが、これこそ大謗法と断ぜざるを得ません」と。
 これ御遺命たる国立戒壇を死守する顕正会を「大謗法者」と断じたものである。
 このような決議書に「宗会議員・早瀬義寛」は十六人の議員と共に署名している。
 学会にへつらっての所行とはいえ、いかにも情けない。
 これも大聖人様を忘れているからこそ、このようなことができるのである。
 これらの前科ある上は、なおさら「日蓮正宗・責任役員会」の議決を以て「国立戒壇否定」を取り消し、その上で、管長として御遺命の正義を宣示しなければいけない。
 さもなければ、大聖人様に申しわけないではないか。

 

「近代宗門の歴史と今日の問題」
大石寺の清濁が日本の命運決する
未曾有の濁乱、未曾有の国難到来か



真言密教は亡国の悪法
大御本尊様への信を失えば、御遺命の国立戒壇を捨てる
修羅と悪竜の合戦

大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす
「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ

 

仏法と皇室の関係
仏法と王法とは本源躰一
国立戒壇建立こそ大聖人の究極の大願

大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす
「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ

 

大聖人を無視しての、いかなる政策も軍備も虚しい
御遺命破壊と同時進行で進んだ原発設置

大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす
「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ

 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第十章 御遺命守護の戦い

「諫臣国に在れば則ち其の国正しく、争子家に在れば則ち其の家直し」
御遺命成就の戦い

 
 
 
顕正会発足より今日までの弘通の足跡
 

顕正会発足より今日までの弘通の足跡

 
冨士大石寺顕正会々長浅井先生 著
 

今こそ全日本人は、大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。

2020-05-05 | 一国諫暁 冨士大石寺顕正会々長浅井先生 著

立正安国論
 文永元年七月十六日

 旅客来りて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変地夭・飢饉疫癘遍く天下に満ち、広く地上に迸る。
 牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。
 死を招くの輩既に大半に超え、之を悲まざるの族敢て一人も無し。
 然る間、或は利剣即是の文を専にして西土教主の名を唱え、或は衆病悉除の願を持ちて東方如来の経を誦し、或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め、或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え、有るは秘密真言の教に因つて五瓶の水を灑ぎ、有るは坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄し、若くは七鬼神の号を書して千門に押し、若くは五大力の形を図して万戸に懸け、若くは天神地祇を拝して四角四堺の祭祀を企て、若くは万民百姓を哀れみて国主国宰の徳政を行う。
 然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥飢疫に逼り、乞客目に溢れ死人眼に満てり。
 臥せる屍を観と為し、並べる尸を橋と作す。
 観れば夫れ二離璧を合せ五緯珠を連ぬ、三宝世に在し百王未だ窮まらざるに、此の世早く衰え其の法何ぞ廃れたる、是れ何なる禍に依り、是れ何なる誤に由るや。──

 主人の曰く、──
 汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。
 然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。
 十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。
 国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん。
 此の詞此の言、信ずべく崇むべし。


立正安国論奥書

 文応元年太歳庚申之を勘う。
 正嘉より之を始め文応元年に勘え畢んぬ。
 去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の尅の大地震を見て之を勘う。
 其の後文応元年太歳庚申七月十六日を以て宿屋禅門に付して故最明寺入道殿に奉れり。
 其の後文永元年太歳甲子七月五日大明星の時弥々此の災の根源を知る。
 文応元年太歳庚申より文永五年太歳戊辰後の正月十八日に至るまで九ケ年を経て、西方大蒙古国自り我が朝を襲う可きの由牒状之を渡す。
 又同六年重ねて牒状之を渡す。
 既に勘文之に叶う。
 之に準じて之を思うに、未来亦然る可きか。
 此の書は徴有る文なり。
 是れ偏に日蓮の力に非ず、法華経の真文の感応の至す所か。
 文永六年太歳己巳十二月八日之を写す。


立正安国論謹講


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第一章 日蓮大聖人とはいかなる御方か
一、 末法濁悪の世を救い給う御本仏



基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第一章 日蓮大聖人とはいかなる御方か
二、三大秘法を以てお救い下さる ~ 五、 末法下種の主・師・親、大慈大悲の御本仏



基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
一、二十年にわたる御修行 ~ 四、諸天善神とは



基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
五、公場対決を迫る ~ 六、竜の口大法難



基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
七、佐渡御流罪



基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
八、出世の本懐 成就 ~ 九、日興上人に御付嘱




教を知る


 世にある一切の教法の勝劣・浅深を知る、これが教を知ることである。
 諸宗の元祖はことごとく経の勝劣に迷っている。
 ただ中国の天台・日本の伝教のみほぼこれを立て分けたが、未だ仏法の根源である文底秘沈の大法だけは明かしていない。
 ここに大聖人は「鳥はとぶ徳人にすぐれたり、日蓮は諸経の勝劣を知ること華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の弘法にすぐれたり」(開目抄)と仰せられ、五重相対・五重三段・三重秘伝等の教判を以て、余すところなくその奥底を尽くし給うた。
 この大聖人の御指南により、一切の教法の中には、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法こそ最大深秘の正法であると知るを、教を知るというのである。
 以下、五重相対・五重三段・三重秘伝について要旨を説明する。

(一)五重相対

 一切の教法の浅きから深きに至って五重の段階に分け、それぞれを比較相対して、勝劣・浅深を決する教判が五重相対である。
 これを図示すれば次のようになる。


 
①内外相対
 
 内とは内道で、仏教のこと。
 外とは外道で、仏教以外の一切の宗教。
 キリスト教・イスラム教・ヒンズー教・儒教・神道、また新興宗教の天理教・PL教等はみな外道である。
 仏教と外道の根本的違いは、因果の道理を立てるか否かにある。
 たとえば外道はキリスト教にみるごとく、天地万物は神が造ったと説く。
 しかし仏教は、宇宙にある一切の存在は因縁和合により生滅するもので誰人が創造したものでもないと説く。
 このように外道の教えは因果を無視するゆえに虚妄、仏法は原因結果の法則の上に生命・宇宙の実相を説くゆえに真実である。
 開目抄には外道のはかなさを「外典・外道の四聖・三仙、其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫、其の名は賢なりといえども実には因果を弁えざること嬰児のごとし」と仰せられている。
 また儒教は現世だけの道徳的因果は説くが三世の因果を知らず、また人間界だけを見て余界を見ない。
 ゆえにその生命観は浅狭で、三世にわたる真の幸福を知らない。
 ゆえに大聖人は儒教の賢聖を破されて「過去・未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず、不知恩の者なり、まことの賢聖にあらず。
 孔子が『此の土に賢聖なり、西方に仏図という者あり、此れ聖人なり』といゐて外典を仏法の初門となせしこれなり
」(開目抄)と御指南されている。
 以て仏教と外道の勝劣は明らかである。
 
②大小相対
 
 仏教の内にも大乗経と小乗経がある。
 小乗経とは、釈尊一代五時の説法の中には阿含時の十二年間に説かれた四経で、増一阿含・長阿含・中阿含・雑阿含等の経々をいう。
 乗とは教法を乗り物にたとえたもので、衆生を教に乗せて運ぶという意味である。
 小乗は小さな乗り物でわずかな人を近いところに運ぶだけの教えである。
 ゆえに乙御前御消息には「小乗経と申す経は小舟のごとく、わづかに人の二人・三人等は乗すれども百千人は乗せず、設ひ二人・三人等は乗すれども此岸につけて彼岸へは行きがたし」と。
 「わづかに人の二人・三人等」とは、舎利弗・目連等の二乗(声聞・縁覚)のために説かれたゆえである。
 また「此岸につけて彼岸へは行きがたし」とは、阿羅漢果などの小さな悟りは得ても、成仏の大果報はとうてい得られないとのことである。
 すなわち釈尊は、当時インドにおいてバラモンによる享楽主義がはびこるのを見て、まず現世の享楽をいましめるために人生を苦・空・無常・無我と説き、さらに五戒・十戒・二百五十戒等の厳しい戒律を設けた。
 これが小乗経なのである。
 このように小乗経は戒律を主とし、煩悩断滅を目的としたおくまでも一時的方便の教えである。
 もし小乗経の小果に執着すれば、いたずらに空理にふけり無気力と利己の殻に閉じこもらざるを得なくなる。
 ゆえに釈尊は後の権大乗において、小果に固執する二乗を厳しく弾呵している。
 また法華経には「一向に小乗を説きて法華経を説かざれば、仏慳貪に堕すべし」とも説かれている。
 さらに一念三千の上から論ずれば、一念三千は十界互具より始まるのであるが、小乗・阿含経は未だ十界すらも明かしていない。
 このことを開目抄には「俱舎・成実・律宗等は阿含経によれり、六界を明めて四界を知らず。
 十方唯一仏と云って一方有仏だにもあかさず、一切有情・悉有仏性とこそとかざらめ、一人の仏性猶ゆるさず。
 而るを律宗・成実宗等の十方有仏・有仏性なんど申すは、仏滅後の人師等の大乗の義を自宗に盗み入れたるなるべし
」と破されている。
 小乗経に依る宗派は、俱舎・成実・律の三宗であるが、このうち律宗だけがどうやら今日余命を持っている。
 また地域的にみると、小乗経は現在東南アジアのミャンマー・タイ・カンボジャ・ラオス・スリランカ等の諸国に信奉されているが、これら諸国民の苦悩と無気力は小乗経の害毒を如実に示すものである。
 早く三大秘法の東洋広布が実現されねばならない。
 
③権実相対
 
 大乗経のうちにも、権大乗と実大乗がある。
 実大乗とは法華経であり、権大乗とはそれ以前の華厳経・大日経・阿弥陀経・般若経等の諸経である。
 念仏宗・真言宗・禅宗などはこの権大乗を依経としている。
 権とは真実に対して権という意味で、釈尊一代五十年の説法のうち前四十余年の経々はすべて権教で、後八年の法華経だけが実教である。
 この権実相対は一代仏教の勝劣を判ずる上で、最も基本的な立て分けである。
 すなわち釈尊は成道の始めから法華経を説くことが目的であったが、衆生の機根が未だ熟していないことを見て、まず権教である方便を四十余年の間説き、後に真実たる法華経を説いたのである。
 ゆえに法華経の開経たる無量義経には「種種に法を説くこと方便力を以てす。
  四十余年には未だ真実を顕わさず。
  是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず

 また法華経方便品には「世尊は法久しくして後、要す当に真実を説くべし
 さらに「正直に方便を捨てて、但無上道を説く
 さらに法華経譬喩品には「余経の一偈をも受けざれ」と説かれている。
 これらの経文は、〝法華経以前の四十余年の経々は方便の教えであるから正直にその方便を捨て、唯一の成仏の法たる法華経だけを信ぜよ〟との釈尊自身の重大なる宣言・命令である。
 この仏勅に背く者は誰人であれ「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」(法華経譬喩品)の罪人である。
 では爾前(法華経以前)の諸経と法華経は、その内容においてどこがちがうのかといえば、開目抄に「予愚見をもって前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、其の相違多しといえども、先ず世間の学者もゆるし我が身にもさやとうちをぼうる事は、二乗作仏・久遠実成なるべし」と、明確に御指南されている。
 「二乗作仏」とは二乗の成仏が許されたこと、「久遠実成」とは釈尊が久遠の昔よりすでに仏であったということである。
 法華経以前の諸経には、絶えてこの義は見られない。
 この二乗作仏によって迹門・理の一念三千が顕われ、久遠実成によって本門・事の一念三千が明らかになる。
 まさに法華経の一代諸経に勝れたるゆえんは、この二乗作仏と久遠実成にあるのである。
 さて二乗作仏についていえば、舎利弗・目連等の二乗は灰身滅智の小乗経を修して、自分では悟りを得たかのごとく思って小乗に執着した。
 この執着を破するため、釈尊はその後長期にわたる権大乗経において、徹底して二乗の利己心を呵責し、「永不成仏」の者として、作仏を許さなかった。
 しかるに法華経にいたって始めて「舎利弗は華光如来・迦葉は光明如来」等と、成仏の記別が授けられたのである。
 この二乗作仏がなにゆえ大事かといえば、もし二乗が作仏しなければ菩薩も凡夫も成仏できないことになる。
 なぜなら菩薩・凡夫の生命にも二乗が具している。
 もし所具の二乗が作仏しなければ、能具の菩薩・凡夫も作仏できない。
 菩薩・凡夫が作仏しなければ九界も作仏せず、したがって九界即仏界の義はなく、一念三千も顕われない。
 しかるに法華経に至って二乗作仏が明かされれば、永不成仏の二乗すらなお成仏、いわんや菩薩・凡夫においておやである。
 ここに九界即仏界となり、十界互具・一念三千の義が始めて顕れるのである。
 ゆえに開目抄には「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つ脱れたり」と。
 この法相が権実相対である。
 
④本迹相対
  
 真実の法華経のうちにも本門と迹門がある。
 すなわち法華経二十八品において前の十四品を迹門といい、後の十四品を本門という。
 この本迹二門の勝劣は天地水火の相違がある。
 治病大小権実違目には「法華経に又二経あり、所謂迹門と本門なり。
 本迹の相違は水火天地の違目なり、例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり
」と。
 爾前と迹門とは多くの相違ありといっても、教主の釈尊が始成正覚の仏ということにおいては同じである。
 しかるに本門寿量品に至って「然るに善男子、我実に成仏してよりこ已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」と。
 この一文は、爾前・迹門において大衆が〝釈尊は三十にして始めて正覚を成じた仏〟と思っていたことを、一言にして打ち破り、久遠五百塵点劫の本地を開顕した重大なる説法である。
 かくて見れば、印度出現の釈尊は久遠本地の仏が衆生化導のため迹(あと)をたれた仏である。
 前十四品はこの垂迹の仏の所説であるから迹門といい、後十四品は久遠開顕の本地の仏の所説であるから本門というのである。
 仏の発迹顕本は大衆に成仏の実益を得さしむためである。
 迹門おいて二乗作仏・一念三千が一住説かれているが、化導をする仏が未だ始成正覚では仏界の本有常住がない。
 仏界が本有常住でなければ九界も同じである。
 ゆえに十界互具も過去のない現在だけのものとなり、一念三千も本無今有となる。
 また二乗作仏についても、およそ作仏とは根源の種子を覚知することである。
 しかるに迹門においては未だ久遠の下種が明かされていないから二乗作仏も本有今有である。
 また成仏とは三惑を断ずることであるが、未だ仏の本因本果を知らなければ見惑・思惑であり、ゆえに二乗作仏の文はあっても有名無実である。
 このように迹門は一念三千も二乗作仏も、ともに本無今有・有明無実の失がある。
 開目抄に「しかりといえどもいまだ発迹顕本せざればまことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし、根なし草の波の上に浮べるににたり」と仰せられているのはこれである。
 しかし続いて開目抄には「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって本門の十界の因果をとき顕す、此れ即ち本因本果の法門なり。
 九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備りて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし
」と。
 すなわち本門寿量品の発迹顕本によって、いままで爾前迹門で説かれてきた蔵・通・別・円四教の仏果も仏因もともに打ち破られ、ここに本門の「十界の因果」が顕れるのである。
 ここにいう「十界の因果」とは十界各具の因果ではなく、因は九界、果は仏界を表わす、すなわち釈尊の因行を挙げて九界を収めるのである。
 また「本因本果の法門」とは文上・文底に通ずる重要な文であるが、いま文上に約して解釈すれば、「本因」とは無始の九界で本因常住を表わす。
 ゆえに寿量品には「我本菩薩の道を行ぜし時、成ずる所の寿命今猶未だ尽きず」と説かれている。
 また「本果」とは無始の仏界で本果常住を表わす。
 経には「我実に成仏してより已来、甚大久遠にして寿命無量阿僧祇劫なり、常住にして滅せず」と説かれている。
 このように本門において始めて九界の衆生も永遠常住となり、ここに本有常住の十界互具・百界千如・事の一念三千が顕れるのである。
 また寿量品の久遠実成が顕れれば、東方の薬師如来・西方の阿弥陀如来など諸仏もみな釈尊の分身である。
 諸仏が釈尊の分身である以上、諸仏の弟子たる観音・勢至等の迹化・他方の大菩薩も、ことごとく釈尊の弟子たることが明らかになる。
 ここに本門寿量品において迹化・他方の菩薩も始めて根源・最初下種の師を知り、本地難思境智の妙法を信じて名字妙覚の悟りを開くことができたのである。
 まさに寿量品の一品こそ、在世の衆生にとって成仏得脱の唯一の正法である。
 ゆえに開目抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずば、天に日月の無く、国に大王なく、山河に珠無く、人に神のなからんがごとし」と仰せられている。
 かくのごとく本迹の勝劣を判ずるのが、本迹相対である。
 
⑤種脱相対
 
 種脱相対とは、日蓮大聖人の下種益の仏法と、釈迦仏の脱益の仏法との勝劣を判ずる法門である。
 この種脱相対こそ大聖人の本懐・秘奥の御法門である、たとえ日蓮宗を名乗るとも、不相伝の諸派などは夢にもこれを知らず、ただ正系門家の冨士大石寺のみよく知るところである。
 種脱相対はまことに甚深の法門であり、これを理解するには、まず種熟脱の三益ということを知らねばならない。
 すなわち「」とは下種のことで、まず仏が妙法を説き、始めて衆生の心田に仏種を下すこと。
 「」とはその仏種を調熟・育成すること。
 「」とは純熟した仏種を覚知せしめ、ついに仏と等しい境界を得せしめる、すなわち成仏せしむることである。
 「種熟脱の法門・法華経の肝心なり」(秋元御書)との仰せのごとく、種熟脱の法門は法華経のみとかれるところで、この三益こそ仏が衆生を成仏せしむるための化導の始終・全貌である。
 ゆえにこの三益の相が明かされなければ、たとえ成仏を論ずるとも実には虚しい。
 ゆえに観心本尊抄には「設い法は甚深と称すとも、未だ種熟脱を論ぜざれば還って灰断に同ず、化の始終無しとは是れなり」と仰せられている。
 仏は凡夫の想像を絶する長遠の時間にわたり、種熟脱の化導をされているが、この三益の相に迹門・本門・文底を重々の浅深がある。
 まず迹門の三益は、三千塵点劫の昔、大通智勝仏の第十六番目の王子(釈尊の前身)が父王の法華経を覆講した時を下種とする。
 そして釈尊在世の前四味(爾前経)を熟とし、法華経にいたって大通の種子を覚知するのが脱である。
 ただしこの三益は迹門当分の一住の説である。
 もし本門が顕れれば、最初の下種は三千塵点劫よりはるか久遠の五百塵点劫にさかのぼる。
 この時、迹門の三益すべて中間の熟益に位置することになる、これが一重立ち入った本門の三益である。
 この本門の三益を観心本尊抄に「久種を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為し、本門に至って等妙に登らしむ」と御指南されている。
 すなわち下種は久遠五百塵点劫、熟は中間の大通仏および爾前・迹門、そして本門寿量品に至って等覚・妙覚の位に登らしめるのが熟である。
 しかし文底の眼あけてこれを見れば、久遠五百塵点劫も未だ最初の下種ではない。
 真実最初の下種は、五百塵点劫をさらにあかのぼること復倍上数・久々遠々の久遠元初であり、その下種の法体は久遠名字の妙法・事の一念三千の南無妙法蓮華経に限るのである。
 ここで下種に聞法と発心の二義があることを知らねばならない。
 聞法下種とは最初に法を聞いた真実の下種、発心下種とはその後の化導により信心修行の心を発したことに名づける。
 ゆえに発心下種は、下種といっても聞法下種に対比すればなお熟脱に属し、真実の下種ではない。
 迹門において三千塵点劫を下種というのは迹門当分の一住の説で、もし本門が顕れれば三千塵点劫は発心下種となり、さらに文底の実義顕れれば五百塵点劫も発心下種となる。
 ここに真実の聞法下種は、ただ久遠元初のみとなるのである。
 また最初の聞法下種の法体が、文底秘沈の南無妙法蓮華経に限るということは「一念三千の法門は、但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまえり」(開目抄)
 「一念三千の仏種に非ざれば、……有明無実なり」(本尊抄)
 「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(秋元御書)等々の御指南に明らかである。
 かくて本門の得脱を見れば、「脱は必ず種に還る」のごとく、一会の大衆は、文底未だ顕れざる体外の寿量品を聞いて菩薩の最高位たる等覚の益を得、また文底すでに顕われた体内の寿量を聴聞して久遠元初の下種の位に立ち還り、本地難思境智の妙法を信じて名字妙覚の極位に登ったのである。
 前引の本尊抄に「本門に至って等妙に登らしむ」と仰せられる御意はここに在る。
 さてここで今度は、久遠元初の最初下種から、三千年前の釈尊までの三益を概観してみよう。
 久遠元初において未だ教えも無い時、一人の聖人あって自身の生命を深く観ぜられ、ついに因果俱時不思議の一法の生命の極理を、南無妙法蓮華経とお覚りになられた。
 この最初の仏を久遠元初の自受用身とも、本地無作三身とも本因妙の教主釈尊とも申し上げる。
 この本仏は御自身証得の南無妙法蓮華経を、我も唱え人にも勧めて、荒凡夫の心田に仏種を下された。
 これすなわち三大秘法の化導であり、この時が久遠元初の最初の下種である。
 この法を聞く大衆に順逆の二縁があった。
 順縁の者は素直に信じて退転せず、一生のうちに即身成仏を遂げることができた。
 しかし逆ったり、あるいは信じても途中で退転した者は、久遠元初の下種仏中においてついに得脱することができず、悪道に堕して無数劫を経たのである。
 これら過去下種の大衆を救うため、久遠元初の御本仏は無数劫ののち、名字凡夫の本身を隠し、三十二相で身を荘り垂迹された。
 この垂迹第一番の仏が五百塵点劫本果の釈尊である。
 この本果第一番以降が熟脱の化導であり、色相荘厳の仏が四教八教を説くこと印度の釈尊の説法と全く同じである。
 以来三千塵点処々に垂迹示現し、最後得脱の総仕上げに出現されたのが、三千年前の釈尊である。
 かくて釈尊は爾前迹門を説いて調熟し、最後本門寿量品を説いて久遠元初の種子を覚知せしめ、なお在世にもれた衆生に対しては、正像二千年間において小乗・権大乗・迹門を縁として、本門悟りに入らしめたのである。
 ここに釈尊の脱益の化導は完結した。
 ここに迎えた末法は、過去に下種を受けた者は一人もなく、ことごとく本未有善の荒凡夫である。
 この時、久遠元初の自受用身末法に出現し、南無妙法蓮華経を以て下種の化導を遊ばすのである。
 まさしく末法は久遠元初の再現である。
 ゆえに日寛上人は「末法今時は全く是れ久遠元初なり、運末法に居すと雖も而も宗は久遠に立つ、久遠は今に在り、今は則ち久遠なり」(当流行事抄)と。
 しかしこの久遠元初の自受用身とは誰人におわすか、すなわち日蓮大聖人の御事である。
 撰時抄に云く「欽明より当帝にいたるまで七百余年、いまだきかず、いまだ見ず、南無妙法蓮華経と唱えよと他人をすすめ、我も唱えたる智人なし。……
 日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑いなし。
 これをもってすいせよ、漢土・月支にも一閻浮提も内にも、肩をならぶ者はあるべからず
」と。
 大聖人の名字凡身の御身の御振舞いをよくよく拝せば、久遠元初の自受用身と全同である。
 ゆえに本因妙抄に云く「釈尊久遠名字即の位の御身の修行を、末法今時日蓮が名字即の身に移せり
 また百六箇抄に云く「今日蓮が修行は、久遠名字の振舞に、芥爾計りも違わざるなり
 さらに云く「久遠元初の天上天下唯我独尊は日蓮是れなり」と。
 これらの甚深の御指南を以て、日蓮大聖人こそ久遠元初の自受用身と深く信じ奉るべきである。
 この下種の御本仏、脱益仏法と下種仏法を明確に立て分けさせ給いて、観心本尊抄に云く「在世の本門と末法の初は一同に順円なり。
 但し彼は脱、此れは種なり。
 彼は一品二半、此れは但題目の五字なり

 また寿量品の御義口伝に云く「此の品は在世の脱益なり、題目の五字計り当今の下種なり。
 然れば在世は脱益、滅後は下種なり、仍て下種を以て末法の詮と為す

 また上野抄に云く「今末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし、但南無妙法蓮華経なるべし」と。
 さらに開目抄に云く「一念三千の法門は、但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまえり
 その文底の秘法を本因妙抄に明かして云く「文底とは久遠実成の名字の妙法を余行に渡さず、直達正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是れなり」と。
 種脱相対の明文白義、あたかも天日のごとくである。
 而して、文底秘沈の大法の正体とは、まさしく日蓮大聖人出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊である。
 ゆえに我らこの御本尊を信じて南無妙法蓮華経と退転なく唱えれば、必ず一生に中に即身成仏が叶うのである。
 下種の大法は熟脱仏法の歴劫修行と異なり、一生のうちに種熟脱がある。
 ゆえに十如是事に云く「此の覚に入って仏を顕はす程は久しき様なれども、一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり。
 此の道に入ぬる人にも上中下の三根はあれども、同じく一生の内に顕はすなり。
 上根の人は聞く所にて覚を極めて顕はす。
 中根の人は若は一日、若は一月、若は一年に顕はすなり。
 下根の人はのびゆく所なくてつまりぬれば、一生の内に限りたる事なれば、臨終の時に至りて、諸のみえつる夢も覚てうつつになりぬるが如く、只今までみつる所の生死妄想の邪思・ひがめの理はあと形もなくなりて、本覚のうつつの覚にかへりて法界をみれば、皆寂光の極楽にて、日来賤しと思ひし我が此の身が三身即一の本覚の如来にてあるべきなり
」と。
 まことに懇切丁寧の御指南である。
 下種仏法はこのように一生のうちの種熟脱・即身成仏の大法である。
 なんと有難いことではないか。
 しかるにもしこの大法において退転すれば、必ず三千塵点・五百塵点を経て苦悩に沈むこと、舎利弗のごとくなるのである。
 以上種脱相対を了る。
  
(二)五重三段

 五重三段は大聖人が観心本尊抄に示された教判で、開目抄の五重相対と双璧をなす大事の法門である。
 三段とは序分・正宗分・流通分のことで、序分とは仏が教法を説くに当って、その序開きに相当する部分、正宗分とは教法の正意そのものの部分、流通分とはすでに説かれた正宗分を流布せしむる意を以て説かれた部分である。
 すなわちこの三段を五重に立て分け、以て仏の化導の中心目的がどこにあるかを探り、文底秘沈の南無妙法蓮華経こそ本地唯密の正法であり正法正意の本尊であることを顕わすのが、五重三段の法門である。
 五重三段の名目を示せば、まず広く釈尊一代五十年の諸経を一経として括ったうえで三段を立て分けたのが一代一経三段、またその正宗分に当る法華経十巻について三段を立て分けたのが法華一経三段、以上を総の三段という。
 次に法華経の中において、迹門・本門・文底のそれぞれに三段を立てて本尊を明かす。
 すなわち迹門熟脱三段・本門脱益三段・文底下種三段、これが別の三段である。
 以上の五重三段において、前の四重は第五の文底下種三段を顕わすための施設・階梯である。
 いま五重三段の内容を略示すれば、次のごとくなる。

 ①一代一経三段
  序分…華厳経より般若経に至るまでの法華経以前の諸経。
  正宗分…無量義経・法華経・普賢経の十巻。
  流通分…涅槃経等。

 ②法華一経三段
  序分…無量義経と序品。
  正宗分…方便品より分別功徳品の十九行の偈に至る十五品半。
  流通分…分別功徳品の現在の四信より普賢経に至る十一品半と一巻。

 ③迹門脱益三段
  序分…無量義経と序品。
  正宗分…方便品より人記品に至る八品。
  流通分…法師品より安楽行品に至る五品。

 ④本門脱益三段
  序分…涌出品の前半の半品。
  正宗分…涌出品の後半・寿量品・分別功徳品の前半の一品二半。
  流通分…分別功徳品の後半から普賢経まで。

 ⑤文底下種三段
  序分…一代五十年の諸経ならびに十方三世諸仏の微塵の経々の体外の辺。
  正宗分…久遠元初の唯密の正法たる南無妙法蓮華経。
  流通分…一代五十年の諸経ならびに十方三世諸仏の微塵の経々の体内の辺。
 
 第五の文底下種三段こそ、末法のための文底下種の本尊を明かされた重大の御法門である。
 これについて少し説明すれば、正宗分は久遠元初唯密の正法たる南無妙法蓮華経。
 そして釈尊一代五十余年の諸経・十方三世の微塵の経々ならびに八宗の章疏の、体外の辺は序分となり、体内の辺は流通分となる。
 体外とは未だ久遠元初を知らざる立場であり、体内とは久遠元初を知って開会された立場である。
 いまこの法相顕われれば、三世諸仏の微塵の経々は一塵も余すことなく、十方法界の仏法の露は一滴も漏さず、みなことごとく文底下種の南無妙法蓮華経の序分となり、流通分となるのである。
 まさに前代未聞の法相ではないか。
 では、なぜ三世十方の諸仏の微塵の経々が文底下種の序分・流通分になるのかといえば、三世十方の諸仏はみな久遠元初の自受用身の垂迹であり、その微塵の経々はことごとく久遠元初の名字の妙法より生ずるからである。
 ゆえに日寛上人は人法体一のこの文底下種の御本尊の功徳について「是れ則ち諸仏・諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣する処なり。
 故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸く此の文底下種の本尊に帰せざるは莫し。
 譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。
 故にこの本尊の功徳無量無辺にして広大深遠の妙用あり。
 故に暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるは無く、罪として滅せざるは無く、福として来らざるは無く、理として顕われざる無きなり
」と御指南されている。
 
(三)三重秘伝

 三重秘伝とは、権実・本迹・種脱の三重の相対を以て、一念三千の法体を明かされる肝要の法門である。
 開目抄に云く「一念三千の法門は、但法華経の、本門寿量品の、文の底に秘してしづめたまえり」と。
 この御文について日寛上人は三重秘伝を御指南された。
 すなわち「但法華経」とは権実相対、「本門寿量品」とは本迹相対、「文の底に秘してしづめたまえり」とは種脱相対である。
 このことを少し説明すれば
 爾前の諸経には未だ一念三千が明かされていない。
 迹門は諸法実相に約して初めて一念三千を明かしている。
 ゆえに「但法華経」という。
 これ権実相対第一の法門である。
 次に迹門に一念三千を明かすとも未だ発迹顕本していないから理の一念三千である。
 本門は本因・本果・本国土に約して事の一念三千を明かす。
 ゆえに「本門寿量品」という。
 これ本迹相対第二の法門である。
 次に本門文上は事の一念三千を明かすとも、なお理上の法相・迹中の本であるから文底に比較すればなお理の一念三千に属し、在世の脱益である。
 ただ文底のみ人法体一の真の一念三千・久遠下種名字の妙法が秘沈されている。ゆえに「文の底に秘してしづめたまえり」という。
 これ種脱相対第三の法門である。
 ゆえに「但法華経」の「」の字は一字であるが、その意において下の三句に冠するのである。
 されば一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底秘沈の大法こそ、最大深秘の正法であり、末法下種の法体である。
 このように、権実・本迹・種脱の三重の相対を以て、仏法の究極である文底下種・事の一念三千を明かす法門を三重秘伝という。
 以上、五重相対・五重三段・三重秘伝等を以て、一切の教法の中には文底秘沈の三大秘法こそ最高・最正の教法であると知るを、教を知るというのである。

折伏理論解説書 日蓮大聖人の仏法
──付── 宗教批判の原理 三証と五綱判




「念仏無間」「禅天魔」「真言亡国」「律国賊」



 無量義経

 四十余年には未だ真実を顕わさず

 法華経・方便品

 世尊は法久しうして後。
 要ず当に真実を説くべし

 世尊は方便を捨てて、但だ無上道を説く


 法華経法師品

 我が所説の諸経、而も此の中に於て法華最も第一なり。乃至、
 我が所説の経典無量千万億にして、己に説き、今説き、当に説かん。
 而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり


 三大秘法抄

 法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は、此の三大秘法を含みたる経にて渡らせ給えばなり。
 秘すべし、秘すべし


 観心本尊抄

 在世の本門と末法の初は一同に純円なり。
 但し彼は脱、此れは種なり。
 彼は一品二半(寿量品と前後の半品)、此れは但だ題目の五字なり


 上野抄

 今末法に入りぬれば、余経も法華経も詮なし、但南無妙法蓮華経なるべし


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第六章 日蓮大聖人と釈迦仏の関係



出世本懐成就御書

 去ぬる建長五年四月二十八日、乃至、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年なり。
 仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先々に申すがごとし。
 余は二十七年なり其の間の大難は各々かつしろしめせり。

出世本懐成就御書を拝し奉る



三大秘法の開合の相



本門の本尊 本門の題目 本門の戒壇
三大秘法抄を拝し奉る


人の本尊
開目抄を拝し奉る


人即法の本尊
観心本尊抄略拝




御遺命たる「国立戒壇建立」



一期弘法付嘱書

  日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。
  本門弘通の大導師たるべきなり。
  国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。
  時を待つべきのみ。
  事の戒法と謂うは是なり。
  就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
  弘安五年壬午九月 日
  日蓮 在御判
  血脈の次第 日蓮 日興


三大秘法抄

 戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。
 時を待つべきのみ。
 事の戒法と申すは是れなり。
 三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり



基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第九章 日蓮大聖人の御遺命




1、広宣流布を偽る ~ 2、一期弘法付嘱書における「国主」の曲会
「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」



3、三大秘法抄の曲会 「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」について ~ 「勅宣並びに御教書を申し下して」について
「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」



3、三大秘法抄の曲会 「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」について ~ 「時を待つべきのみ」について
「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」



4、「事の戒壇」の定義変更による誑惑
「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」



5、その他の国立戒壇否定の僻論 ~ 6、正本堂の正体
「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」



報恩抄

 智証の門家・園城寺と、慈覚の門家・叡山と、修羅と悪竜の合戦ひまなし。
 園城寺をやき、叡山をやく。


真言密教は亡国の悪法
大御本尊様への信を失えば、御遺命の国立戒壇を捨てる
修羅と悪竜の合戦
大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす

「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ



仏法と皇室の関係
仏法と王法とは本源躰一
国立戒壇建立こそ大聖人の究極の大願
大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす

「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ



大聖人を無視しての、いかなる政策も軍備も虚しい
御遺命破壊と同時進行で進んだ原発設置
大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす

「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ





四十二度の国家諫暁


第二祖・白蓮阿闍梨日興上人


原殿御返事

 身延沢を罷り出で候事、面目なさ、本意なさ、申し尽くし難く候へども、打ち還し案じ候へば、いずくにても、聖人の御義を相継ぎ進らせ世に立て候わん事こそ詮にて候へ。
 さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候ぬ。
 日興一人、本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べきに仁に相当って覚え候へば、本意忘るること無く候。


日興跡条条事

  一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内・山寺等に於いて、半分は日目嫡子分として菅領せしむべし。
    残る所の半分は自余の大衆等之れを領掌すべし。
  一、日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大本尊 日目に之を授与す、本門寺に懸け奉るべし。
  一、大石寺は御堂と云い墓所と云い、日目之を菅領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり。
    右日目は十五歳の歳日興に値って法華を信じて以来、七十三歳の老体に至るまで敢えて遺失の儀なし。
    十七の歳日蓮上人の所甲州身延山に詣で、御在住七年の間常随給仕し、御遷化の後弘安八年より元徳二年に至る五十年の間奏聞の功他に異なるに依って、此くの如く書き置く所なり。
    仍って後の為、証状の如し。
    十一月十日 日興 判



第三祖・新田卿阿闍梨日目上人


 日蓮聖人の弟子日目、誠惶誠恐謹んで言す。──
 仏滅後二千余年の間、正像末の三時流通の程、迦葉・竜樹・天台・伝教の残したもうところの秘法三あり。
 所謂 法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり。──
 法華本門の正法を立てらるれば、人も栄え、国も栄えん。──
 日目、先師の地望を遂げんがために、後日の天奏に達せしむ。



基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第八章 冨士大石寺の歴史




第一次 一国諫暁
1997年7月16日

日本国民に告ぐ!
日蓮大聖人に帰依しなければ
日本は必ず亡ぶ





第二次 一国諫暁
2004年4月28日

再び日本国民に告ぐ
日蓮大聖人に背く日本は
必ず亡ぶ


 日本はいま、亡国の前夜を迎えている!
 まもなく起こる巨大地震の連発を号鐘として国家破産・異常気象・食糧危機・大疫病(感染症)等が続発し、そののち他国侵逼の大難がこの国を襲うであろう──
 その原因は
 一には 日本一同が未だに日蓮大聖人に背き続けていること
 二には 創価学会が政治のために、大聖人の唯一の御遺命たる「国立戒壇建立」を抛ったことである
 日本に残された時間は少ない
 早く日蓮大聖人の仰せのままに立正安国を実現しなければ取り返しのつかぬことになる──




 日本は今、亡国の前夜を迎えている。
 その亡国は、どのような災難によってもたらされるのかといえば──
 まもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病(感染症)等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆(国内の分裂抗争)と他国侵逼(外敵の侵略)が起こるのである。
 これは凡夫の私が言うのではない。
 日蓮大聖人が立正安国論の奥書に「未来亦然しかるべきか」と示されるところによる。
 日本国は七百年前、この国にご出現された大慈大悲の御本仏・日蓮大聖人を、二度も流罪し、ついには竜の口の刑場で御頸まで刎ねんとした。
 この大逆罪はたちまちに「大蒙古の責め」という大罰となって現われ、国まさに亡びんとした。
 しかるに日本の人々は改悔なく、今に至るまで日蓮大聖人を信ぜず、背き続けている。
 仏法まことならば、どうして国の保つことがあろうか──。
 ここにいま「」来たって、日本国は再び亡国の大難を受けんとしているのである。
 しかしこの恐るべき亡国の大難が起きても、もしその起こる所以を知らなければ、人々はただ恐れ戦くのみで、これが「日蓮大聖人に背くゆえ」とは知るよしもない。
 したがって大聖人に帰依信順することもない。
 そうであれば、日本はそのとき必ず亡ぶ。
 よって日蓮大聖人の弟子として私は、前もってこれを全日本人に告げ知らしめて国を救わんと、本書を著わした次第である。──

 大聖人はこの在世・滅後の二つの大災難の様相を、新尼抄に一文を以て兼ねて示されている。
 「末法の始めに謗法の法師・一閻浮提に充満して、諸天怒りをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。
 大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、乃至、
 諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん
」と。──
 私が本書の冒頭に「まもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆・他国侵逼が起こる」と記したのは、まさしく立正安国論およびこの御文による。
 まもなく日本にこの大災難が必ず相次いで起こる。
 ゆえに前もってこれを告げ知らせたのである。
 御文を拝する──まず「諸天怒りをなし」とある。
 次文以下の諸災難のすべてが諸天の力用によること、刮目してみるべきである。
 「彗星は一天に……」はすでに平成九年に現じている。
 「大地は大波のごとくをどらむ」はまもなく始まる巨大地震。
 「大旱魃・大火・大水・大風」は異常気象による大災害。
 これら自然の猛威の前には、人間は全くの無力となる。
 「大疫病」とは感染症の大流行。
 「大飢饉」とは食糧危機と経済的飢渇たる国家破産。
 「大兵乱」とは自界叛逆と他国侵逼である。
 そして「一閻浮提(全世界)の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時」とは、地球規模の大戦乱が起き、世界中の人々が武器を手にする時──ということである。
 いま大量破壊兵器は地球上に拡散し、反米の嵐は収まるところを知らず世界に広がっている。
 いずれ国際テロ組織は大量破壊兵器を手に入れるであろう。
 このテロ組織を背後で操る国々もある。
 そしてついには米中対決にいたる。
 まさしく世界中が殺気立ち、武器を手にする時が来るのである。
 その結果、「諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時」となる。
 この人類滅亡にいたる恐ろしき末法濁悪の未来のため、大聖人は「五字の大曼荼羅」すなわち本門戒壇の大御本尊を、日本国に留め置き給うたのである。

 今こそ全日本人は、大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。

 日本に残された時間は少ない──。
 立正安国論の「其の時、何んが為んや」同奥書の「未来亦然るべきか」の仏語は重い。

国家諫暁 
立正安国論謹講


一国諫暁 
日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ

 
冨士大石寺顕正会々長浅井先生 著
 

なぜ信心(しんじん)せねばならぬか

2020-01-01 | 仏法(ぶっぽう)の実践(じっせん)


 日蓮大聖人は、末法濁悪の人と国を、根底からお救い下さる大慈大悲・絶大威徳の御本仏であられる。

人生の目的は成仏にある


 人生の目的を知らずに生きているのは、行先不明のバスに乗っているのと同じである。
 人生の目的は実に成仏を得るにある。
 成仏とは、生死を乗り越えて永遠に崩れぬ、無上の幸福境界をいう。
 日蓮大聖人の仏法を実践すれば、いかなる人も宿命が変わり、現世には幸いを招き、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得る。
 これが成仏の境界である。
 死後の未来のことなどわからぬ、という人もあろう。
 しかし仏法は空理・空論ではない。
 すべて証拠を以て論ずる。
 その証拠とは臨終の相である。
 臨終は一生の総決算であると同時に、臨終の相に、その人が死後の未来に受けるべき果報が現われる。
 だから臨終は人生の最大事なのである。
 ゆえに日蓮大聖人は
 「されば先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と仰せられている。
 では、地獄に堕ちる相、あるいは成仏の相とはどのようなものかといえば
 大聖人は
 「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。
 善人は設い七尺八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる、又軽き事鵞毛の如し、輭なる事兜羅綿の如し
」と。
 すなわち、地獄に堕ちる者は、死してのち遺体が黒くなるうえ、硬く、重くなり、恐ろしい形相となる。
 一方、成仏する者は、臨終ののち色が白くなり、軽く、柔らかく、かつ何とも柔和な相となるのである。
 臨終の相だけは人の意志の及ぶところではない。
 この因果の法則を説き切るのは、日蓮大聖人の仏法だけである。
 地位や財産による幸福はすぐに崩れる。
 現当二世(現世と来世)にわたり永遠に崩れぬ幸福は、成仏の境界以外にはない。
 日蓮大聖人こそ、我ら凡夫を仏にして下さる大慈大悲の御本仏であられる。

立正安国論の予言的中


 国家の興亡盛衰の根本原因は仏法の正邪による。
 もし国中が邪法を信じて正法に背けば国に災難が起こり、正しい仏法を立てれば国は安泰になる。
 これ仏法と国土を守護する諸天善神の力用による。
 日蓮大聖人は時の国主に対し、立正安国論を以て
 「念仏・真言・禅・律等の邪法に執着して、法華経の肝心たる三大秘法を立てなければ、この国必ず他国侵逼の大難を受ける」(取意)と諫められ、さらに
 「国を失い家を滅せば、何れの所にか世を遁れん」と警告された。
 しかし日本は四方を海で囲まれている。
 当時、この他国侵逼の御予言を信ずる者は誰もいなかった。
 だが十四年後、御予言は事実となった。
 世界を席捲した大蒙古が、日本を亡ぼすに足る圧倒的な兵力を以て二度も襲来したのである。
 日蓮大聖人の御予言は、海外情勢などによる推測などではない。
 実に、仏法を守護する諸天善神に申し付ける絶大威徳を以ての御断定であれば、違うことがないのである。
 もし他国侵逼が事実になれば、人々は始めて改悔の心を起こし、死後の無間地獄の大苦を消滅させることができる。
 立正安国論の御予言はまさにこの大慈大悲であられる。
 ゆえに大聖人は
 「現世に云いおく言の違わざらんを以て、後生の疑いをなすべからず
 また
 「あへて憎みては申さず、大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり」と仰せられている。
 また、この予言的中を見れば、もし日本国一同が日蓮大聖人を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉り、御遺命のままに国立戒壇を建立すれば、日本は仏国となって真に安泰になること、断じて疑いない。
 これが「立正安国」の実現である。

国家権力も御頸切れず


 日蓮大聖人の折伏に対し、教義上の反論ができぬ邪僧らは、民衆を煽動し国主に讒奏して、大聖人の命を奪わんとした。
 かくて、ついに国家権力による死罪が執行された。
 文永八年九月十二日の深夜、大聖人は竜の口刑場の「頸の座」に坐し給うた。
 そして大刀まさに振り降ろされんとしたその刹那、「月のごとく光りたる物」が突如出現し、太刀取は目がくらんでその場に倒れ伏し、数百人の兵士たちも一斉に逃げ出し、みなことごとく砂浜にひれ伏してしまった。
 ひとり頸の座にまします大聖人は高声に
 「頸切るべくわ急ぎ切るべし。
 夜、明けなば見苦しかりなん
」と死刑執行を催促された。
 しかし近よる者とてない。
 まさに国家権力が、ただ一人の大聖人の御頸を切れず、かえってその絶大威徳の前にひれ伏してしまったのである。
 このような不可思議・荘厳な光景は、この地球上に未だ曽てない。
 この思議を絶する大現証こそ、日蓮大聖人が久遠元初の御本仏、末法の全人類をお救い下さる仏様であることを顕わすものである。

残された時間は少ない


 大聖人は流罪の地・佐渡の雪中において
 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」と叫ばれた。
 すなわち、日蓮大聖人を信ずるか背くかによって、日本国の有無も、人類の存亡も決するということである。
 いま世界は核兵器使用の第三次大戦の瀬戸際にあり、人類は絶滅の危機に瀕している。
 その中で日本は軍事超大国・中国の侵略に脅えている。
 この国に大慈大悲・絶大威徳の御本仏ましますを無視し、背き続けたゆえに、いま日本は亡国を招かんとしているのである。

 この大国難には、日米安保も第九条も虚しい。

 今こそ全日本人は、大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。
 
 残された時間は少ない。
 
 
 
なぜ信心(しんじん)せねばならぬか

人生の目的は実に成仏を得るにある。
成仏とは、生死を乗り越えて永遠に崩れぬ、無上の幸福境界をいう。
日蓮大聖人の仏法を実践すれば、いかなる人も宿命が変わり、現世には幸いを招き、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得る。

 
 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
 
三毒(貪欲-餓鬼界・瞋恚-地獄界・愚癡-畜生界)強盛の大衆に仏法を理解させるための理論を解説
 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第一章 日蓮大聖人とはいかなる御方か
一、 末法濁悪の世を救い給う御本仏

 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第一章 日蓮大聖人とはいかなる御方か
二、三大秘法を以てお救い下さる ~ 五、 末法下種の主・師・親、大慈大悲の御本仏

 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第二章 人生の目的と幸福論

 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第三章 十界論

 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第四章 三世常住の生命

 
大聖人の弟子として身につけるべき基本の教学
 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第五章 仏法の実践


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第六章 日蓮大聖人と釈迦仏の関係


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
一、二十年にわたる御修行 ~ 四、諸天善神とは


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
五、公場対決を迫る ~ 六、竜の口大法難


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
七、佐渡御流罪


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
八、出世の本懐 成就 ~ 九、日興上人に御付嘱


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第八章 冨士大石寺の歴史


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第九章 日蓮大聖人の御遺命


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第十章 御遺命守護の戦い


宗教の正邪を判断する原理
 
折伏理論解説書 日蓮大聖人の仏法
──付── 宗教批判の原理 三証と五綱判

 
御書講義
 
「有難い」と「広宣流布」
松野殿御返事を拝し奉る


「信心口唱と広宣流布のお手伝い」
佐渡御書を拝し奉る

 
勧誡の二門
 
勧門
一念信解を御教示下された

四信五品抄を拝し奉る

 
誡門
不退の信心を御教示下された

兄弟抄を拝し奉る

 
冨士大石寺顕正会々長浅井先生 著
 

遙拝勤行の仕方
冨 士 大 石 寺 顕 正 会


遙拝勤行(ようはいごんぎょう)の仕方(しかた)

2020-01-01 | 仏法(ぶっぽう)の実践(じっせん)

 
 末法の仏道修行は勤行と折伏に尽きる。
 勤行とは御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉る修行であり、これを人に勧めるのが折伏である。
 勤行は自身の修行であるから「自行」といい、折伏は他人を教化し救う修行であるから「化他」という。
 末法、ことに広宣流布以前の謗法充満の世においては、自行と化他が車の両輪のごとく相俟って、始めて完璧な仏法の実践となる。
 大聖人は自行化他にわたる仏法の実践について「南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧んのみこそ、今生人界の思出なるべき」(持妙法華問答抄)
 「我もいたし、人をも教化候へ」(諸法実相抄)
 「唯我れ信ずるのみに非ず、又他の誤りを誡めんのみ」(立正安国論)等と御教示下されている。
 
遙拝勤行(ようはいごんぎょう)の仕方(しかた)

 
 では遙拝勤行(ようはいごんぎょう)の仕方(しかた)を具体的(ぐたいてき)に説明(せつめい)する。
 まず富士大石寺(ふじたいせきじ)の方角(ほうがく)に向(むか)って正座(せいざ)し、数珠(じゅず)を手(て)に掛(か)け至心(ししん)に合掌(がっしょう)する。
 合掌(がっしょう)の指先(ゆびさき)は鼻(はな)の下(した)に向(む)かうようにする。
 二人以上(ふたりいじょう)が一緒(いっしょ)に勤行(ごんぎょう)する時(とき)は、一人(ひとり)が前(まえ)に出(で)て唱道(しょうどう)し、他(ほか)はこれに和(わ)する。
 
富 士 大 石 寺(ふじたいせきじ)



 最初(さいしょ)に

 題目(だいもく)「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」を三唱(さんしょう)する。

 方便品(ほうべんぽん)を読誦(どくじゅ)する。

 「妙法蓮華經。(みょうほうれんげーきょう)
 方便品。(ほうべんぽん)
 第二。(だいにー)
 爾時世尊。(にーじーせーそん)
 従三昧。(じゅうさんまい)
 安詳而起。(あんじょうにーきー)
 告舎利弗。(ごうしゃりほつ)
 諸佛智慧。(しょーぶッちーえー)
 甚深無量。(じんじんむーりょう)
 其智慧門。(ごーちーえーもん)
 難解難入。(なんげーなんにゅう)
 一切聲聞。(いッさいしょうもん)
 辟支佛。(ひゃくしーぶつ)
 所不能知。(しょーふーのうちー)
 所以者何。(しょーいーしゃーがー)
 仏曾親近。(ぶつぞうしんごん)
 百千萬億。(ひゃくせんまんのく)
 無數諸佛。(むーしゅーしょーぶつ)
 盡行諸佛。(じんぎょうしょーぶつ)
 無量道法。(むーりょうどうほう)
 勇猛精進。(ゆうみょうしょうじん)
 名稱普聞。(みょうしょうふーもん)
 成就甚深。(じょうじゅーじんじん)
 未曾有法。(みーぞううーほう)
 隨宜所説。(ずいぎーしょーせつ)
 意趣解難。(いーしゅーなんげー)
 舎利弗。(しゃりほつ)
 吾從成佛已來。(ごーじゅうじょうぶついーらい)
 種種因縁。(しゅーじゅーいんねん)
 種種譬喩。(しゅーじゅーひーゆー)
 廣演言教。(こうえんごんきょう)
 無數方便。(むーしゅーほうべん)
 引導衆生。(いんどうしゅーじょう)
 令離諸著。(りょうりーしょーぢゃく)
 所以者何。(しょーいーしゃーがー)
 如來方便。(にょーらいほうべん)
 知見波羅蜜。(ちーけんはらみつ)
 皆已具足。(かいいーぐーそく)
 舎利弗。(しゃりほつ)
 如來知見。(にょーらいちーけん)
 廣大深遠。(こうだいじんのん)
 無量無礙。(むーりょうむーげー)
 力。(りき)
 無所畏。(むーしょーいー)
 禪定。(ぜんじょう)
 解脱。(げーだッ)
 三昧。(さんまい)
 深入無際。(じんにゅうむーさい)
 成就一切。(じょうじゅーいッさい)
 未曾有法。(みーぞううーほう)
 舎利弗。(しゃりほつ)
 如來能。(にょーらいのう)
 種種分別。(しゅーじゅーふんべつ)
 巧説諸法。(ぎょうせッしょーほう)
 言辭柔輭。(ごんじーにゅうなん)
 悦可衆心。(えッかーしゅーしん)
 舎利弗。(しゃりほつ)
 取要言之。(しゅーようごんしー)
 無量無邊。(むーりょうむーへん)
 未曾有法。(みーぞううーほう)
 佛悉成就。(ぶッしつじょうじゅー)
 止舎利弗。(しーしゃりほつ)
 不須復説。(ふーしゅーぶーせッ)
 所以者何。(しょーいーしゃーがー)
 佛所成就。(ぶッしつじょうじゅー)
 第一希有。(だいいちけーうー)
 難解之法。(なんげーしーほう)
 唯佛與佛。(ゆいぶつよーぶつ)
 乃能究盡。(ないのうくーじん)
 諸法實相。(しょーほうじッそう)」

 から読(よ)み、

 最後(さいご)の

 「所謂諸法。(しょーいーしょーほう)
 如是相。(にょーぜーそう)
 如是性。(にょーぜーしょう)
 如是體。(にょーぜーたい)
 如是力。(にょーぜーりき)
 如是作。(にょーぜーさー)
 如是因。(にょーぜーいん)
 如是縁。(にょーぜーえん)
 如是果。(にょーぜーかー)
 如是報。(にょーぜーほう)
 如是本末究竟等。(にょーぜーほんまッくきょうとう)

 は三回繰(さんかいく)り返(かえ)す。

 寿量品(じゅりょうほん)を読誦(どくじゅ)する。

 「妙法蓮華經。(みょうほうれんげーきょう)
 如來壽量品。(にょーらいじゅーりょうほん)
 第十六。(だいじゅうろく)
 爾時佛告。(にーじーぶつごう)
 諸菩薩及。(しょーぼーさつぎゅう)
 一切大衆。(いッさいだいしゅー)
 諸善男子。(しょーぜんなんしー)
 汝等當信解。(にょーとうとうしんげー)
 如來誠諦之語。(にょーらいじょうたいしーごー)
 復告大衆。(ぶーごうだいしゅー)
 汝等當信解。(にょーとうとうしんげー)
 如来誠諦之語。(にょーらいじょうたいしーごー)
 又復告諸大衆。(うーぶーごうしょーだいしゅー)
 汝等當信解。(にょーとうとうしんげー)
 如來誠諦之語。(にょーらいじょうたいしーごー)
 是時菩薩大衆。(ぜーじーぼーさつだいしゅー)
 彌勒爲首。(みーろくいーしゅー)
 合掌白佛言。(がッしょうびゃくぶつごん)
 世尊。(せーそん)
 唯願説之。(ゆいがんせッしー)
 我等當信受佛語。(がーとうとうしんじゅーぶつごー)
 如是三白已。(にょーぜーさんびゃくいー)
 復言。(ぶーごん)
 唯願説之。(ゆいがんせッしー)
 我等當信受佛語。(がーとうとうしんじゅーぶつごー)
 爾時世尊。(にーじーせーそん)
 知諸菩薩。(ちーしょーぼーさつ)
 三請不止。(さんしょうふーしー)
 而告之言。(にーごうしーごん)
 汝等諦聴。(にょうとうたいちょう)
 如来祕密。(にょーらいひーみつ)
 神通之力。(じんづうしーりき)
 一切世間。(いッさいせーけん)
 天人及。(てんにんぎゅう)
 阿修羅。(あーしゅーらー)
 皆謂今釋迦牟尼佛。(かいいーこんしゃかむにぶつ)
 出釋氏宮。(しゅッしゃくしーぐう)
 去伽耶城不遠。(こーがーやーじょうふーおん)
 座於道場。(ざーおーどうじょう)
 得阿耨多羅三藐三菩提。(とくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだい)
 然善男子。(ねんぜんなんしー)
 我實成佛已來。(がーじつじょうぶついーらい)
 無量無邊。(むーりょうむーへん)
 百千萬億。(ひゃくせんまんのく)
 那由佗劫。(なーゆーたーこう)
 譬如五百千萬億。(ひーにょーごーひゃくせんまんのく)
 那由佗。(なーゆーたー)
 阿僧祇。(あーそうぎー)
 三千大千世界。(さんぜんだいせんせーかい)
 假使有人。(けーしーうーにん)
 抹爲微塵。(まッちーみーじん)
 過於東方。(かーおーとうぼう)
 五百千萬億。(ごーひゃくせんまんのく)
 那由佗。(なーゆーたー)
 阿僧祇國。(あーそうぎーこく)
 乃下一塵。(ないげーいちじん)
 如是東行。(にょーぜーとうぎょう)
 盡是微塵。(じんぜーみーじん)
 諸善男子。(しょーぜんなんしー)
 於意云何。(おーいーうんがー)
 是諸世界。(ぜーしょーせーかい)
 可得思惟校計。(かーとくしーゆいきょうけー)
 知其數不。(ちーごーしゅーふー)
 彌勒菩薩等。(みーろくぼーさッとう)
 倶白佛言。(くーびゃくぶつごん)
 世尊。(せーそん)
 是諸世界。(ぜーしょーせーかい)
 無量無邊。(むーりょうむーへん)
 非算數所知。(ひーさんじゅーしょーちー)
 亦非心力所及。(やくひーしんりきしょーぎゅう)
 一切聲聞。(いッさいしょうもん)
 辟支佛。(ひゃくしーぶつ)
 以無漏智。(いーむーろーちー)
 不能思惟。(ふーのうしーゆい)
 知其限數。(ちーごーげんしゅー)
 我等住。(がーとうじゅう)
 阿惟越致地。(あーゆいおッちーぢー)
 於是事中。(おーぜーじーちゅう)
 亦所不達世尊。(やくしょーふーだッせーそん)
 如是諸世界。(にょーぜーしょーせーかい)
 無量無邊。(むーりょうむーへん)
 爾時佛告。(にーじーぶつごう)
 大菩薩衆。(だいぼーさッしゅー)
 諸善男子。(しょーぜんなんしー)
 今當分明。(こんとうふんみょう)
 宣語汝等。(せんごーにょーとう)
 是諸世界。(ぜーしょーせーかい)
 若著微塵。(にゃくちゃくみーじん)
 及不著者。(ぎゅうふーちゃくしゃー)
 盡以爲塵。(じんにーいーじん)
 一塵一劫。(いちじんいッこう)
 我成佛已來。(がーじょうぶついーらい)
 復過於此。(ぶーかーおーしー)
 百千萬億。(ひゃくせんまんのく)
 那由佗。(なーゆーたー)
 阿僧祇劫。(あーそうぎーこう)
 自從是來。(じーじゅうぜーらい)
 我常在此。(がーじょうざいしー)
 娑婆世界。(しゃーばーせーかい)
 説法教化。(せッぽうきょうけー)
 亦於餘處。(やくおーよーしょー)
 百千萬億。(ひゃくせんまんのく)
 那由佗。(なーゆーたー)
 阿僧祇國。(あーそうぎーこく)
 導利衆生。(どうりーしゅーじょう)
 諸善男子。(しょーぜんなんしー)
 於是中間。(おーぜーちゅうげん)
 我説燃燈佛等。(がーせつねんとうぶッとう)
 又復言其。(うーぶーごんごー)
 入於涅槃。(にゅうおーねーはん)
 如是皆以。(にょーぜーかいいー)
 方便分別。(ほうべんふんべつ)
 諸善男子。(しょーぜんなんしー)
 若有衆生。(にゃくうーしゅーじょう)
 來至我所。(らいしーがーしょー)
 我以佛眼。(がーいーぶつげん)
 觀其信等。(かんごーしんとう)
 諸根利鈍。(しょーこんりーどん)
 隨所應度。(ずいしょーおうどー)
 處處自説。(しょーしょーじーせつ)
 名字不同。(みょうじーふーどう)
 年紀大小。(ねんきーだいしょう)
 亦復現言。(やくぶーげんごん)
 當入涅槃。(とうにゅうねーはん)
 又以種種方便。(うーいーしゅーじゅーほうべん)
 説微妙法。(せつみーみょうほう)
 能令衆生。(のうりょうしゅーじょう)
 發歡喜心。(ほッかんぎーしん)
 諸善男子。(しょーぜんなんしー)
 如來見諸衆生。(にょーらいけんしょーしゅーじょう)
 樂於小法。(ぎょうおーしょうぼう)
 徳薄垢重者。(とくはッくーじゅうしゃー)
 爲是人説。(いーぜーにんせつ)
 我少出家。(がーしょうしゅッけー)
 得阿耨多羅三藐三菩提。(とくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだい)
 然我實成佛已來。(ねんがーじつじょうぶついーらい)
 久遠若斯。(くーおんにゃくしー)
 但以方便。(たんにーほうべん)
 教化衆生。(きょうけーしゅーじょう)
 令入佛道。(りょうにゅうぶつどう)
 作如是説。(さーにょーぜーせつ)
 諸善男子。(しょーぜんなんしー)
 如來所演經典。(にょーらいしょーえんきょうでん)
 皆爲度脱衆生。(かいいーどーだッしゅーじょう)
 或説己身。(わくせッこーしん)
 或説佗身。(わくせッたーしん)
 或示己身。(わくじーこーしん)
 或示佗身。(わくじーたーしん)
 或示己事。(わくじーこーじー)
 或示佗事。(わくじーたーじー)
 諸所言説。(しょーしょーごんせつ)
 皆實不虚。(かいじつふーこー)
 所以者何。(しょーいーしゃーがー)
 如來如實知見。(にょーらいにょーじッちーけん)
 三界之相。(さんがいしーそう)
 無有生死。(むーうーしょうじー)
 若退若出。(にゃくたいにゃくしゅつ)
 亦無在世。(やくむーざいせー)
 及滅度者。(ぎゅうめつどーしゃー)
 非實非虚。(ひーじつひーこー)
 非如非異。(ひーにょーひーいー)
 不如三界。(ふーにょーさんがい)
 見於三界。(けんのーさんがい)
 如斯之事。(にょーしーしーじー)
 如来明見。(にょーらいみょうけん)
 無有錯謬。(むーうーしゃくみょう)
 以諸衆生。(いーしょーしゅーじょう)
 有種種性。(うーしゅーじゅーしょう)
 種種欲。(しゅーじゅーよく)
 種種行。(しゅーじゅーぎょう)
 種種憶想。(しゅーじゅーおくそう)
 分別故。(ふんべッこー)
 欲令生諸善根。(よくりょうしょうしょーぜんごん)
 以若干因縁。(いーにゃッかんいんねん)
 譬喩言辭。(ひーゆーごんじー)
 種種説法。(しゅーじゅーせッぽう)
 所作佛事。(しょーさーぶつじー)
 未曾暫廢。(みーぞうざんぱい)
 如是。(にょーぜー)
 我成佛已來。(がーじょうぶついーらい)
 甚大久遠。(じんだいくーおん)
 壽命無量。(じゅーみょうむーりょう)
 阿僧祇劫。(あーそうぎーこう)
 常住不滅。(じょうじゅうふーめつ)
 諸善男子。(しょーぜんなんしー)
 我本行菩薩道。(がーほんぎょうぼーさつどう)
 所成壽命。(しょーじょうじゅーみょう)
 今猶未盡。(こんゆーみーじん)
 復倍上數。(ぶーばいじょうしゅー)
 然今非實滅度。(ねんこんひーじつめつどー)
 而便唱言。(にーべんしょうごん)
 當取滅度。(とうしゅーめつどー)
 如來以是方便。(にょーらいいーぜーほうべん)
 教化衆生。(きょうけーしゅーじょう)
 所以者何。(しょーいーしゃーがー)
 若佛久住於世。(にゃくぶッくーじゅうおーせー)
 薄徳之人。(はくとくしーにん)
 不種善根。(ふーしゅーぜんごん)
 貧窮下賤。(びんぐうげーせん)
 貧著五欲。(とんぢゃくごーよく)
 入於憶想。(にゅうおーおくそう)
 妄見網中。(もうけんもうちゅう)
 若見如來。(にゃッけんにょーらい)
 常在不滅。(じょうざいふーめつ)
 便起憍恣。(べんきーきょうしー)
 而懐厭怠。(にーえーえんだい)
 不能生於。(ふーのうしょうおー)
 難遭之想。(なんぞうしーそう)
 恭敬之心。(くーぎょうしーしん)
 是故如來。(ぜーこーにょーらい)
 以方便説。(いーほうべんせつ)
 比丘當知。(びーくーとうちー)
 諸佛出世。(しょーぶッしゅッせー)
 難可値遇。(なんかーちーぐう)
 所以者何。(しょーいーしゃーがー)
 諸薄徳人。(しょーはくとくにん)
 過無量。(かーむーりょう)
 百千萬億劫。(ひゃくせんまんのッこう)
 或有見佛。(わくうーけんぶつ)
 或不見者。(わくふーけんしゃ)
 以此事故。(いーしーじーこー)
 我作是言。(がーさーぜーごん)
 諸比丘。(しょーびーくー)
 如來難可得見。(にょーらいなんかーとッけん)
 斯衆生等。(しーしゅーじょうとう)
 聞如是語。(もんにょーぜーごー)
 必當生於。(ひッとうしょうおー)
 難遭之想。(なんぞうしーそう)
 心懐戀慕。(しんねーれんぼー)
 渇仰於佛。(かつごうおーぶつ)
 便種善根。(べんしゅうーぜんごん)
 是故如來。(ぜーこーにょーらい)
 雖不實滅。(すいふーじつめつ)
 而言滅度。(にーごんめつどー)
 又善男子。(うーぜんなんしー)
 諸佛如來。(しょーぶつにょーらい)
 法皆如是。(ほうかいにょーぜー)
 爲度衆生。(いーどーしゅーじょう)
 皆實不虚。(かいじつふーこー)
 譬如良醫。(ひーにょーろういー)
 智慧聰達。(ちーえーそうだつ)
 明練方藥。(みょうれんほうやく)
 善治衆病。(ぜんぢーしゅーびょう)
 其人多諸子息。(ごーにんたーしょーしーそく)
 若十二十。(にゃくじゅうにーじゅう)
 乃至百數。(ないしーひゃくしゅー)
 以有事縁。(いーうーじーえん)
 遠至餘國。(おんしーよーこく)
 諸子於後。(しょーしーおーごー)
 飲佗毒藥。(おんたーどくやく)
 藥發悶亂。(やくほつもんらん)
 宛轉于地。(えんでんうーぢー)
 是時其父。(ぜーじーごーぶー)
 還來歸家。(げんらいきーけー)
 諸子飲毒。(しょーしーおんどく)
 或失本心。(わくしつほんしん)
 或不失者。(わくふーしッしゃー)
 遙見其父。(ようけんごーぶー)
 皆大歡喜。(かいだいかんぎー)
 拜跪問訊。(はいきーもんじん)
 善安穏歸。(ぜんなんのんきー)
 我等愚癡。(がーとうぐーちー)
 誤服毒藥。(ごーぶくどくやく)
 願見救療。(がんけんくーりょう)
 更賜壽命。(きょうしーじゅーみょう)
 父見子等。(ぶーけんしーとう)
 苦腦如是。(くーのうにょーぜー)
 依諸經方。(えーしょーきょうぼう)
 求好藥艸。(ぐーこうやくそう)
 色香美味。(しきこうみーみー)
 皆悉具足。(かいしつぐーそく)
 擣簁和合。(とうしーわーごう)
 與子令服。(よーしーりょうぶく)
 而作是言。(にーさーぜーごん)
 此大良藥。(しーだいろうやく)
 色香美味。(しきこうみーみー)
 皆悉具足。(かいしつぐーそく)
 汝等可服。(にょーとうかーぶく)
 速除苦腦。(そくじょーくーのう)
 無復衆患。(むーぶーしゅーげん)
 其諸子中。(ごーしょーしーちゅう)
 不失心者。(ふーしッしんじゃー)
 見此良藥。(けんしーろうやく)
 色香俱好。(しきこうぐーこう)
 卽便服之。(そくべんぶくしー)
 病盡除愈。(びょうじんじょーゆー)
 餘失心者。(よーしッしんじゃー)
 見其父來。(けんごーぶーらい)
 雖亦歡喜問訊。(すいやッかんぎーもんじん)
 求索治病。(ぐーしゃくじーびょう)
 然與其藥。(ねんよーごーやく)
 而不肯服。(にーふーこうぶく)
 所以者何。(しょーいーしゃーがー)
 毒氣深入。(どッけーじんにゅう)
 失本心故。(しッぽんしんこー)
 於此好色香藥。(おーしーこうしきこうやく)
 而謂不美。(にーいーふーみー)
 父作是念。(ぶーさーぜーねん)
 此子可愍。(しーしーかーみん)
 爲毒所中。(いーどくしょーちゅう)
 心皆顚倒。(しんかいてんどう)
 雖見我喜。(すいけんがーきー)
 求索救療。(ぐーしゃッくーりょう)
 如是好藥。(にょーぜーこうやく)
 而不肯服。(にーふーこうぶく)
 我今當設方便。(がーこんとうせつほうべん)
 令服此藥。(りょうぶくしーやく)
 卽作是言。(そくさーぜーごん)
 汝等當知。(にょーとうとうちー)
 我今衰老。(がーこんすいろう)
 死時已至。(しーじーいーしー)
 是好良藥。(ぜーこうろうやく)
 今留在此。(こんるーざいしー)
 汝可取服。(にょーかーしゅーぶく)
 勿憂不差。(もッつーふーさい)
 作是教已。(さーぜーきょういー)
 復至佗國。(ぶーしーたーこく)
 遣使還告。(けんしーげんごう)
 汝父已死。(にょーぶーいーしー)
 是時諸子。(ぜーじーしょーしー)
 聞父背喪。(もんぶーはいそう)
 心大憂腦。(しんだいうーのう)
 而作是念。(にーさーぜーねん)
 若父在者。(にゃくぶーざいしゃー)
 慈愍我等。(じーみんがーとう)
 能見救護。(のうけんくーごー)
 今者捨我。(こんじゃーしゃーがー)
 遠喪佗國。(おんそうたーこく)
 自惟孤露。(じーゆいこーろー)
 無復恃怙。(むーぶーじーこー)
 常懷悲感。(じょうえーひーかん)
 心遂醒悟。(しんずいしょうごー)
 乃知此藥。(ないちーしーやく)
 色香味美。(しきこうみーみー)
 卽取服之。(そくしゅーぶくしー)
 毒病皆愈。(どくびょうかいゆー)
 其父聞子。(ごーぶーもんしー)
 悉已得差。(しッちーとくさい)
 尋便来歸。(じんべんらいきー)
 咸使見之。(げんしーけんしー)
 諸善男子。(しょーぜんなんしー)
 於意云何。(おーいーうんがー)
 頗有人能。(はーうーにんのう)
 説此良醫。(せッしーろういー)
 虚妄罪不。(こーもうざいふー)
 不也。(ほッちゃー)
 世尊。(せーそん)
 佛言。(ぶつごん)
 我亦如是。(がーやくにょーぜー)
 成佛已來。(じょうぶついーらい)
 無量無邊。(むーりょうむーへん)
 百千萬億。(ひゃくせんまんのく)
 那由佗。(なーゆーたー)
 阿僧祇劫。(あーそうぎーこう)
 爲衆生故。(いーしゅーじょうこー)
 以方便力。(いーほうべんりき)
 言當滅度。(ごんとうめつどー)
 亦無有能。(やくむーうーのう)
 如法説我。(にょーほうせつがー)
 虚妄過者。(こーもうかーしゃー)
 爾時世尊。(にーじーせーそん)
 欲重宣此義。(よくじゅうせんしぎ)
 而説偈言。(にーせつげーごん)」

 から

 「自我得佛來(じーがーとくぶッらい)
 所經諸劫數(しょーきょうしょーこッしゅ)
 無量百千萬(むーりょうひゃくせんまん)
 億載阿僧祇(おくさいあーそうぎー)
 常説法教化(じょうせッぽうきょうけー)
 無數億衆生(むーしゅーおくしゅーじょう)
 令入於佛道(りょうにゅうおーぶつどう)
 爾來無量劫(にーらいむーりょうこう)
 爲度衆生故(いーどーしゅーじょうこー)
 方便現涅槃(ほうべんげんねーはん)
 而實不滅度(にーじつふーめつどー)
 常住此説法(じょうじゅうしーせっぽう)
 我常住於此(がーじょうじゅうおーしー)
 以諸神通力(いーしょーじんづうりき)
 令顚倒衆生(りょうてんどうしゅーじょう)
 雖近而不見(すいごんにーふーけん)
 衆見我滅度(しゅーけんがーめつどー)
 廣供養舎利(こうくーようしゃーりー)
 咸皆懷戀慕(げんかいえーれんぼー)
 而生渇仰心(にーしょうかつごうしん)
 衆生既信伏(しゅーじょうきーしんぶく)
 質直意柔輭(しちじきいーにゅうなん)
 一心欲見佛(いッしんよッけんぶつ)
 不自惜身命(ふーじーしゃくしんみょう)
 時我及衆僧(じーがーぎゅうしゅーそう)
 倶出靈鷲山(くーしゅつりょうじゅーせん)
 我時語衆生(がーじーごーしゅーじょう)
 常在此不滅(じょうざいしーふーめつ)
 以方便力故(いーほうべんりッこー)
 現有滅不滅(げんうーめつふーめつ)
 餘國有衆生(よーこくうーしゅーじょう)
 恭敬信樂者(くーぎょうしんぎょうしゃー)
 我復於彼中(がーぶーおーひーちゅう)
 爲説無上法(いーせつむーじょうほう)
 汝等不聞此(にょーとうふーもんしー)
 但謂我滅度(たんにーがーめつどー)
 我見諸衆生(がーけんしょーしゅーじょう)
 没在於苦海(もつざいおーくーかい)
 故不爲現身(こーふーいーげんじん)
 令其生渇仰(りょうごーしょうかつごう)
 因其心戀慕(いんごーしんれんぼー)
 乃出爲説法(ないしゅついーせッぽう)
 神通力如是(じんづうりきにょーぜー)
 於阿僧祇劫(おーあーそうぎーこう)
 常在靈鷲山(じょうざいりょうじゅーせん)
 及餘諸住處(ぎゅうよーしょーじゅうしょー)
 衆生見劫盡(しゅーじょうけんこうじん)
 大火所焼時(だいかーしょーしょーじー)
 我此土安穏(がーしーどーあんのん)
 天人常充満(てんにんじょうじゅうまん)
 園林諸堂閣(おんりんしょーどうかく)
 種種寳荘厳(しゅーじゅーほうしょうごん)
 寳樹多華果(ほうじゅーたーけーかー)
 衆生所遊樂(しゅーじょうしょーゆうらく)
 諸天撃天鼓(しゅーてんぎゃくてんくー)
 常作衆伎樂(じょうさーしゅーぎーがく)
 雨曼陀羅華(うーまんだーらーけー)
 散佛及大衆(さんぶつぎゅうだいしゅー)
 我淨土不毀(がーじょうどーふーきー)
 而衆見焼盡(にーしゅーけんしょうじん)
 憂怖諸苦腦(うーふーしょーくーのう)
 如是悉充満(にょーぜーしつじゅうまん)
 是諸罪衆生(ぜーしょーざいしゅーじょう)
 以惡業因縁(いーあくごういんねん)
 過阿僧祇劫(かーあーそうぎーこう)
 不聞三寳名(ふーもんさんぼうみょう)
 諸有修功徳(しょーうーしゅーくーどく)
 柔和質直者(にゅうわーしちじきしゃー)
 則皆見我身(そッかいけんがーしん)
 在此而説法(ざいしーにーせッぽう)
 或時爲此衆(わくじーいーしーしゅー)
 説佛壽無量(せつぶつじゅーむーりょう)
 久乃見佛者(くーないけんぶッしゃー)
 爲説佛難値(いーせつぶつなんちー)
 我智力如是(がーちーりきにょーぜー)
 慧光照無量(えーこうしょうむーりょう)
 寿命無數劫(じゅーみょうむーしゅーこう)
 久修業所得(くーしゅーごうしょーとく)
 汝等有智者(にょーとううーちーしゃー)
 勿於此生疑(もッとーしーしょうぎー)
 當斷令永盡(とうだんりょうようじん)
 佛語實不虚(ぶつごーじッぷーこー)
 如醫善方便(にょーいーぜんほうべん)
 爲治狂子故(いーじーおうしーこー)
 實在而言死(じつざいにーごんしー)
 無能説虚妄(むーのうせッこーもう)
 我亦爲世父(がーやくいーせーぶー)
 救諸苦患者(くーしょーくーげんしゃー)
 爲凡夫顚倒(いーぼんぶーてんどう)
 實在而言滅(じつざいにーごんめつ)
 以常見我故(いーじょうけんがーこー)
 而生憍恣心(にーしょうきょうしーしん)
 放逸著五欲(ほういつぢゃくごーよく)
 堕於惡道中(だーおーあくどうちゅう)
 我常知衆生(がーじょうちーしゅーじょう)
 行道不行道(ぎょうどうふーぎょうどう)
 随應所可度(ずいおうしょーかーどー)
 爲説種種法(いーせッしゅーじゅーほう)
 毎自作是念(まいじーさーぜーねん)
 以何令衆生(いーがーりょうしゅーじょう)
 得入無上道(とくにゅうむじょうどう)
 速成就佛身(そくじょうじゅーぶッしん)

 の自我偈(じがげ)も通(とお)して読(よ)む。

 次(つ)いで

 題目(だいもく)「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」を繰(く)り返(かえ)し唱(とな)える。

 唱え奉る題目(だいもく)「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」の数(かず)は定(さだ)められていないが、通常百遍(つうじょうひゃっぺん)[五分(ごふん)]が一応(いちおう)の基準(きじゅん)とされている。

 唱(とな)え終(お)わってのち、改(あらた)めて題目(だいもく)「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」を三唱(さんしょう)する。

観念文

戒壇大御本尊 御報恩

 「南無本門寿量品(なむほんもんじゅりょうほん)の肝心(かんじん)・文底秘沈(もんていひちん)の大法(だいほう)、本地難思境智冥合(ほんちなんしきょうちみょうごう)・久遠元初自受用報身如来(くおんがんじょじじゅゆうほうしんにょらい)の御当体(ごとうたい)、事(じ)の一念三千(いちねんさんぜん)・無作本有(むさほんぬ)、人法体一(にんぽうたいいつ)、南無本門戒壇の大御本尊(なむほんもんかいだんのだいごほんぞん)、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳(ごいこうばいぞうごりやくこうだいごほうおんしゃとく)の御為(おんため)に」

 の観念文(かんねんもん)を黙読(もくどく)・観念(かんねん)し奉(たてまつ)ったのち、題目(だいもく)「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」を三唱(さんしょう)する。

日蓮大聖人 御報恩

 「南無久遠元初(なむくおんがんじょ)の自受用報身(じじゅゆうほうしん)・無作(むさ)の三身(さんじん)・本因妙(ほんにんみょう)の教主(きょうしゅ)、末法下種(まっぽうげしゅ)の主師親(しゅししん)・大慈大悲(だいじだいひ)、南無日蓮大聖人(なむにちれんだいしょうにん)、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳(ごいこうばいぞうごりやくこうだいごほうおんしゃとく)の御為(おんため)に」

 の観念文(かんねんもん)を黙読(もくどく)・観念(かんねん)し奉(たてまつ)ったのち、題目(だいもく)「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」を三唱(さんしょう)する。

日興上人 御報恩

 「南無法水潟瓶(なむほっすいしゃびょう)・唯我与我(ゆいがよが)・本門弘通(ほんもんぐずう)の大導師(だいどうし)、末法万年(まっぽうまんねん)の総貫首(そうかんず)、第二祖(だいにそ)、南無日興上人(なむにっこうしょうにん)、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳(ごいこうばいぞうごりやくこうだいごほうおんしゃとく)の御為(おんため)に」

 の観念文(かんねんもん)を黙読(もくどく)・観念(かんねん)し奉(たてまつ)ったのち、題目(だいもく)「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」を三唱(さんしょう)する。

日目上人および歴代御正師 御報恩

 「南無一閻浮提の御座主(なむいちえんぶだいのおんざす)、第三祖・新田卿阿闍梨日目上人(だいさんそ・にいだきょうあじゃりにちもくしょうにん)、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳(ごいこうばいぞうごりやくこうだいごほうおんしゃとく)の御為(おんため)に」

 の観念文(かんねんもん)を黙読(もくどく)・観念(かんねん)し奉(たてまつ)ったのち、小声(こごえ)で題目(だいもく)「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」を一回唱(いっかいとな)え、引(ひ)き続(つづ)き

 「日道上人(にちどうしょうにん)・日行上人(にちぎょうしょうにん)・日時上人(にちじしょうにん) 乃至(ないし) 日寛上人(にっかんしょうにん)・日霑上人等(にちでんしょうにんとう)、富士大石寺血脈付法(ふじたいせきじれきだいけちみゃくふほう)の御正師(ごしょうし)、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳(ごいこうばいぞうごりやくこうだいごほうおんしゃとく)の御為(おんため)に」

 の観念文(かんねんもん)を黙読(もくどく)・観念(かんねん)し奉(たてまつ)って、題目(だいもく)「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」を三唱(さんしょう)する。

広宣流布祈念(夕の勤行では省略)

 「祈念(きねん)し奉(たてまつ)る、爾前迹門(にぜんしゃくもん)の謗法対治(ほうぼうたいじ)、本門(ほんもん)の三大秘法(さんだいひほう) 日本乃至一閻浮提広宣流布(にほんないしいちえんぶだいこうせんるふ)・戒壇建立(かいだんこんりゅう)の御遺命(ごゆいめい)、大願成就御祈禱(だいがんじょうじゅごきとう)の御為(おんため)に」

 の観念文(かんねんもん)を黙読(もくどく)・観念(かんねん)し奉(たてまつ)ったのち、題目(だいもく)「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」を三唱(さんしょう)する。

 ついで

 「祈念(きねん)し奉(たてまつ)る、無始以来(むしいらい)の謗法罪障消滅(ほうぼうざいしょうしょうめつ)、現当二世大願成就(げんとうにせだいがんじょうじゅ)の為(ため)に」

 の観念文(かんねんもん)を黙読(もくどく)・観念(かんねん)したのち、題目(だいもく)「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」を三唱(さんしょう)する。

 さらに個人(こじん)として祈願(きがん)があればこのあと観念(かんねん)し、題目(だいもく)「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」を三唱(さんしょう)する。
 
回向
 
 「○○家先祖代々(けせんぞだいだい)の諸精霊(しょしょうりょう)、追善供養證大菩提(ついぜんくようしょうだいぼだい)の為(ため)に」

 と念(ねん)じ、さらに亡(な)くなった親族(しんぞく)などを回向(えこう)する。

 このとき戒名(かいみょう)あるいは俗名(ぞくみょう)を称(たた)え

 「追善供養證大菩提(ついぜんくようしょうだいぼだい)の為(ため)に」

 と念(ねん)じ、題目(だいもく)「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」を三唱(さんしょう)する。

 最後(さいご)に

 「乃至法界平等利益(ないしほうかいびょうどうりやく)、六道四生(ろくどうししょう)・草木国土(そうもくこくど)・悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)、大慈大悲(だいじだいひ)の御内證(ごないしょう)へ同一帰入(どういつきにゅう)なさしめ給(たま)え」

 の観念文(かんねんもん)を黙読(もくどく)・観念(かんねん)したのち、題目(だいもく)「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」を三唱(さんしょう)して勤行(ごんぎょう)を終(お)わる。


 以上(いじょう)の勤行(ごんぎょう)を、朝晩怠(あさばんなま)けずに行(おこな)うことが大切(たいせつ)なのである。
 
冨士大石寺顕正会々長浅井先生 著
 

折伏(しゃくぶく)とは何(なに)か

2020-01-01 | 仏法(ぶっぽう)の実践(じっせん)

 
 末法の仏道修行は勤行と折伏に尽きる。
 勤行とは御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉る修行であり、これを人に勧めるのが折伏である。
 勤行は自身の修行であるから「自行」といい、折伏は他人を教化し救う修行であるから「化他」という。
 末法、ことに広宣流布以前の謗法充満の世においては、自行と化他が車の両輪のごとく相俟って、始めて完璧な仏法の実践となる。
 大聖人は自行化他にわたる仏法の実践について
 「南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧んのみこそ、今生人界の思出なるべき」(持妙法華問答抄)
 「我もいたし、人をも教化候へ」(諸法実相抄)
 「唯我れ信ずるのみに非ず、又他の誤りを誡めんのみ」(立正安国論)等と御教示下されている。
 
 

入信勤行の栞
 
 
「ただ心こそ大切なれ」
 
 
折伏(しゃくぶく)とは何(なに)か

 
 仏法(ぶっぽう)を弘(ひろ)める方法に「摂授(しょうじゅ)」と「折伏(しゃくぶく)」の二大潮流(にだいちょうりゅう)がある。
 摂授(しょうじゅ)とは摂引容授(しょういんようじゅ)といって、たとえ相手(あいて)が低劣(ていれつ)な法(ほう)を信(しん)じていても、これを容認(ようにん)しつつ次第(しだい)に正(ただ)しい教(おし)えに誘引(ゆういん)していく弘教法(ぐきょうほう)である。
 一方(いっぽう)、折伏(しゃくぶく)とは破折屈服(はしゃくくっぷく)の義(ぎ)で、相手(あいて)の間違(まちが)った思想(しそう)・信仰(しんこう)を破折(はしゃく)し、唯一(ゆいいつ)の正法(しょうほう)に帰依(きえ)せしめる剛(つよい)い弘教法(ぐきょうほう)である。
 いかなる時(とき)に摂授(しょうじゅ)を行(ぎょう)じ、いかなる時(とき)に折伏(しゃくぶく)を行(ぎょう)ずるべきかは仏法上(ぶっぽうじょう)の重大問題(じゅうだいもんだい)で、もしこれを撮(と)り間違(まちが)えると成仏得道(じょうぶつとくどう)も叶(かな)わない。

 大聖人(だいしょうにん)は
 「凡そ仏法を修行せん者は摂折二門を知るべきなり、一切の経論此の二を出でざるなり」(如説修行抄)
 「設い山林にまじわって一念三千の観をこらすとも、乃至、時機をしらず摂折の二門を弁へずば、いかでか生死を離るべき」(開目抄)
 「仏法は摂受・折伏時によるべし、譬えば世間の文・武二道の如し」(佐渡御書)
 「修行に摂・折あり、摂受の時折伏を行ずるも非なり、折伏の時摂受を行ずるも失なり、然るに今の世は摂受の時か折伏の時か、先づ是れを知るべし」(聖愚問答抄)と。

 では、いかなる時(とき)に摂受(しょうじゅ)を行じ、いかなる時(とき)に折伏(しゃくぶく)を行(ぎょう)ずるのかといえば、釈迦仏法(しゃかぶっぽう)の利益(りやく)のおよぶ正像二千年間(しょうぞうにせんねんかん)は摂受(しょうじゅ)であり、末法(まっぽう)は折伏(しゃくぶく)でなければならない。
 なぜかといえば、正像二千年(しょうぞうにせんねん)の衆生(しゅじょう)は「本己有善(ほんいうぜん)」といって、過去世(かこせ)にすでに下種(げしゅ)を受(う)けているので、あるいは小乗経(しょうじょうきょう)を縁(えん)とし、あるいは権大乗経(ごんだいじょうきょう)を縁(えん)として法華経(ほけきょう)の悟(さと)りに入(はい)ることが出来(でき)た。
 ゆえに種々(しゅじゅ)の教(おし)えを一応(いちおう)は認(みと)め、漸々(やくやく)と法華経(ほけきょう)に誘引(ゆういん)する摂受(しょうじゅ)が、正像(しょうぞう)の時機(じき)には適(てき)していたのである。
 しかし正像二千年(しょうぞうにせんねん)を過(す)ぎて末法(まっぽう)になると、衆生(しゅじょう)は「本未有善(ほんみうぜん)」で、未(いま)だ下種(げしゅ)を受(う)けたことのない三毒強盛(さんどくごうじょう)の荒凡夫(あらぼんぶ)ばかりとなる。
 この本未有善(ほんみうぜん)の衆生(しゅじょう)にとって成仏(じょうぶつ)の叶(かな)う大法(だいほう)は下種(げしゅ)の南無妙法蓮華経以外(なんみょうほうれんげきょういがい)にはない。

 ゆえに上野抄(うえのしょう)には
 「今末法に入りぬれば、余経も法華経も詮なし、但南無妙法蓮華経なるべし」と。

 末法(まっぽう)においては、成仏(じょうぶつ)の大法(だいほう)は南無妙法蓮華経以外(なんみょうほうれんげきょういがい)にはない。
 よって「一切(いっさい)の邪法(じゃほう)を捨(す)てて、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)と唱(とな)えなさい」と勧(すす)めるのが、末法(まっぽう)の折伏(しゃくぶく)である。
 また折伏(しゃくぶく)は「讃嘆行(さんたんぎょう)」ともいわれる。
 日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の絶大威徳(ぜつだいいとく)・大慈悲(だいじひ)を、御本尊(ごほんぞん)の功徳(くどく)を、歓喜(かんぎ)の心(こころ)で讃嘆(さんたん)すること自体(じたい)が、相手(あいて)の心(こころ)を動(うご)かす折伏(しゃくぶく)となっているのである。
 このように折伏(しゃくぶく)こそ末法(まっぽう)の時(とき)に適(かな)う仏道修行(ぶつどうしゅぎょう)であり、人(ひと)を救(すく)う最高(さいこう)の慈悲(じひ)の行為(こうい)なのである。
 
 
なぜ折伏をせねばばらぬか

 
 折伏は何のために行ずるのかといえば、一には一切衆生を救う広宣流布のため、二には自身の成仏のためである。
 
広宣流布のため
 
 大聖人がいかに大慈悲を以て三大秘法をお勧め下されたかを拝すれば
 「日蓮生れし時よりいまに、一日片時も心安き事はなし。
 此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり
」(上野殿御返事)
 「今日蓮は、去ぬる建長五年四月二十八日より今年弘安三年十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。
 只妙法蓮華経の七字五字を、日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。
 此れ即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり
」(諫暁八幡抄)と。
 まことに母が乳児に乳を含ませるの大慈悲を以て、「南無妙法蓮華経と唱えよ」と一切大衆にお勧め下されたのである。
 そして大聖人の究極の大願は広宣流布にあられる。
 「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり。
 未来も又しかるべし、是れあに地涌の義に非ずや。
 剰へ広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし
」(諸法実相抄)と。
 大聖人がただ御一人唱え始められた南無妙法蓮華経は次第に唱え伝えられ、ついには日本一同に唱える広宣流布の時が必ず来るとの御断言である。
 いま我々の行ずる折伏は、大聖人のこの広布の大願を、御本仏の眷属・地涌の菩薩としてお手伝いするものである。
 広宣流布が達成されれば仏国が実現し、個人も国家も真の安泰を得る。
 この姿を如説修行抄には
 「法華折伏・破権門理の金言なれば、終に権教・権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、天下万民・諸乗一仏乗と成りて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず、雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて、今生には不祥の災難を払い、長生の術を得、人法共に不老不死の理顕われん時を各々御覧ぜよ。
 現世安穏の証文疑い有るべからざる者なり
」と仰せられている。
 もし広宣流布しなければ、国土の三災七難はいよいよ激しくなり、日本はついに亡国にいたる。
 ここに御本仏の厳たる広宣流布の御命令があり、また日興上人の
 「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて随力弘通を致すべき事」の御遺誡がある。
 いま広布前夜の日本を見るに、日本一同に三大秘法に背くゆえに、亡国の先兆たる観測史上最大の巨大地震はすでに起こり、他国侵逼も刻々と迫りつつある。
 仏弟子として誰か奮い立たぬ者があろうか。
 
自身の成仏のため
 
 折伏は人のため国のためのように見えるが、実は自分自身の成仏の修行である。
 広宣流布以前においては、勤行とともに折伏の大精神を持ち続けなければ成仏が叶わない。
 そのわけは、謗法充満の国土において折伏を行じなければ、知らず知らずのうちに自身が一国の謗法に同化してしまう。
 これを「与同罪」という。
 すなわち自身は謗法をしなくても、謗法を見て責める心がなければ、その悪に与したことになるのである。
 「譬えば我は謀叛を発さねども、謀叛の者を知りて国主にも申さねば、与同罪は彼の謀叛の者の如し」(秋元御書)と。
 ゆえに曽谷抄には
 「謗法を責めずして成仏を願はば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。
 はかなし、はかなし
」との厳しい仰せを拝する。
 しかし折伏を行ずれば、この与同罪を免れることができる。
 そして蓮華が泥水の中でも清らかな花を咲かせるように、謗法充満の国土においても少しも謗法に染まることなく、清浄な仏果、一生成仏を得ることができるのである。
 
 
折伏の大利益

 
 折伏は大聖人の大願たる広宣流布のお手伝いをする行為であるから、これを行ずる者には次のごとき大利益がある。
 
格別の御守護
 
 折伏を行ずると、御本仏の冥々の加護が生活に現れてくる。
 これは大聖人が「仏法の命を継ぐ者」として格別に御守護下さるからである。
 大聖人の御化導を命かけて助けまいらせた四条殿に対し
 「殿の御事をば、ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり。
 其の故は、法華経の命を継ぐ人なればと思うなり
」(四条金吾殿御返事)と仰せられている。
 いま広布前夜の濁悪の世で、けなげに折伏を行ずる者はかくのごとく御本仏の格別の御守護を頂くのである。
 
御本仏の眷属としての生命力が湧く
 
 折伏を行ずる者は仏様の使いである。
 ゆえに自然と御本仏の眷属としての生命力が湧いてくる。
 たとえ打ち沈んだ弱々しい境界であっても、折伏を行ずると、生き生きとしてくる。
 そして人を救うに当っての智恵と勇気が自然と具わってくる。
 それまで自分のことだけで頭がいっぱいだった凡夫が、このように人を救い国を憂うる境界に一変するのは、まさに御本仏の眷属・地涌の菩薩としての命が湧いてきたゆえである。
 諸法実相抄には
 「日蓮と同意ならば、地涌の菩薩たらんか」と。
 大聖人に同心し奉るゆえに「地涌の菩薩」の命が湧き出てくるのである。
 
過去の罪障が消滅する
 
 折伏は宿命転換の強き実践法である。
 そもそも現世の不幸はすべて過去世の罪業に因る。
 この宿業の報いとして、あるいは十年・二十年、あるいは一生、あるいは今生にその罪を滅することができなければ、未来にその大苦を持ち越すかも知れない。
 だが、折伏を行じて難を受けたり悪口をいわれれば、その罪障が消滅するのである。
 「忠言は耳に逆う」(曽谷殿御返事)と。
 たとえ人格者のような顔をしている者も、折伏を受けると本性をむき出し瞋恚をあらわすことがある。
 これは元品の無明が出てくるのである。
 また「お前は貧乏してるくせになんだ、もっと立派になったら来い」などと、いわれなき軽賤をする者もあろう。
 しかしこれらの悪口によって、こちらの罪障は消えていくのである。
 大聖人は開目抄に
 「今日蓮、強盛に国土の謗法を責むれば、此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出せるなるべし
 ──一国の謗法を折伏したゆえに流罪・死罪の大難が起きたことは、過去世の重き罪障が、折伏の功徳によりいま招き出され消滅している姿である──と。
 大聖人に過去の罪障などあるべきはずもない。
 これは「示同凡夫」といって、我等凡夫の身に同じて罪障消滅の原理をお示し下されているのである。
 いま私達も、大聖人のお味方をして受けた難ならば、その難はかえって我が身の罪障消滅となるのである。
 
 
折伏の心がけ

 
慈悲と確信
 
 折伏は、仏様の使いとして一切大衆を救う行為であるから、何よりも御本尊絶対の確信と、慈悲の思いに立たなくてはならない。
 そして「この人も御本尊を信ずれば必ず幸せになれる」との慈悲の思いをこめて、柔和に諄々と御本尊の功徳を説き聞かせていこう。
 
勇気と忍耐
 
 折伏を行ずるに当っては、勇気を持たなくてはいけない。
 たとえ相手が社会的地位の高い者であろうと大学者であろうと、こと仏法に関しては無智なのであるから、仏様の使いとして臆してはならない。
 「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(教行証御書)
 「仏の御使となのりながら臆せんは無下の人々なり」(下種本仏成道御書)と。
 また末法の大衆は貪・瞋・癡の三毒が強く、正法を素直に聞く者は少ない。
 小さな親切は誰にも理解され感謝されるが、人を根底から救う大きな慈悲はかえって理解され難く、時には謂れなき悪口・罵詈されることもある。
 ゆえに忍耐の心がなければ、末法の大衆を救うことはできない。
 釈尊は末法に三大秘法を弘通する上行菩薩の徳を称えて
 「其の志念堅固にして、大忍辱力あり」(涌出品)と説かれているが、大聖人の忍難の御振舞いを拝せば、まさにこの経文のごとくである。
 「此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆う道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。
 然ども、いまだこりず候
」(曽谷殿御返事)
 「日蓮一度もしりぞく心なし」(辧殿尼御前御書)
 「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事は、をそれをもいだきぬべし」(開目抄)と。
 大聖人がこのように大忍辱力を以て難を忍ばれたのは、ひとえに大慈大悲のゆえである。
 いま私達は慈悲においては御本仏の千万分の一にも及ばないが、大聖人への忠誠心のゆえに、よく耐え忍ぶ強靭な心が湧いてくるのである。
 
理論闘争ではない
 
 折伏は理論闘争ではない。
 日蓮大聖人の大慈悲と御本尊の功徳を教え人を救うのが目的であるから、いたずらに論議のための論議に終始してはならない。
 まして相手と対等の立場に立って興奮したり、感情的になって相争うようなことがあってはならない。
 あくまでも仏の御使いとして一段高い慈悲の立場に立つべきである。
 大聖人はもったいなくも、我等末弟の仏法上の位を、釈迦仏法の極位の菩薩に超過するのみならず、諸宗の元祖に勝出すること百千万億倍であるとして
 「請う、国中の諸人、我が末弟等を軽ずる事勿れ。乃至、
 天子の襁褓に纒れ、大竜の始めて生ずるが如し。
 蔑如すること勿れ、蔑如すること勿れ
」(四信五品抄)とまで仰せ下されている。
 どうしてこのような高い位を許し給うのか、それは、たとえ智解はなくとも、三大秘法をたもち御本仏の使いとして折伏を行ずるゆえである。
 忘れても三毒の大衆と対等の立場に立って相争うようなことがあってはならない。
 また折伏に当っては、いたずらに荒い言葉を発したり、粗暴な態度をしてはならない。
 非常識な言動はかえって法を下げることになる。
 「雑言・強言・自讃気なる体、人目に見すべからず、浅猨しき事なるべし」(教行証御書)と。
 ただし、仏法をあなずる者に対しては、師子王の気魄を以てその驕慢を打ち砕かねばならぬ。
 また仏法の正邪を決する法論等においては
 「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず。
 彼々の経々と法華経と、勝劣・浅深、成仏・不成仏を判ぜん時、爾前・迹門の釈尊なりとも物の数ならず、何に況んや其の以下の等覚の菩薩をや。
 まして権宗の者どもをや。
 法華経と申す大梵王の位にて、民とも下し鬼畜なんどと下しても其の過有らんやと意得て宗論すべし
」(教行証御書)との仰せのままに、邪法・邪義を破折する気魄を持たねばならない。
 
折伏には徒労がない
 
 折伏には徒労ということがない。
 相手が素直に入信すればこれほどの喜びはないが、たとえ反対しようとも、逆縁下種といって、相手の生命にはすでに仏種が下されたことになる。
 よって必ず将来、信心にめざめて成仏するのである。
 「当世の人、何となくとも法華経に背く失に依りて地獄に堕ちん事疑なき故に、とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし。
 信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり
」(法華初心成仏抄)と。
 この仰せのごとく、順逆二縁ともに救い切る、との確信に立って、あせることなく胸を張って堂々の折伏を行じようではないか。
 
 

特 別 講 習 会
折 伏 理 論 書 講 義

人生の目的は実に成仏を得るにある。
成仏とは、生死を乗り越えて永遠に崩れぬ、無上の幸福境界をいう。
日蓮大聖人の仏法を実践すれば、いかなる人も宿命が変わり、現世には幸いを招き、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得る。


三毒(貪欲-餓鬼界・瞋恚-地獄界・愚癡-畜生界)強盛の大衆に仏法を理解させるための理論を解説
 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第一章 日蓮大聖人とはいかなる御方か
一、 末法濁悪の世を救い給う御本仏

 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第一章 日蓮大聖人とはいかなる御方か
二、三大秘法を以てお救い下さる ~ 五、 末法下種の主・師・親、大慈大悲の御本仏

 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第二章 人生の目的と幸福論

 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第三章 十界論

 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第四章 三世常住の生命

 
大聖人の弟子として身につけるべき基本の教学
 
基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第五章 仏法の実践


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第六章 日蓮大聖人と釈迦仏の関係


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
一、二十年にわたる御修行 ~ 四、諸天善神とは


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
五、公場対決を迫る ~ 六、竜の口大法難


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
七、佐渡御流罪


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第七章 日蓮大聖人の一代御化導
八、出世の本懐 成就 ~ 九、日興上人に御付嘱


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第八章 冨士大石寺の歴史


宗教の正邪を判断する原理
 
折伏理論解説書 日蓮大聖人の仏法
──付── 宗教批判の原理 三証と五綱判

 
「此の六巻の書の師子王ある時は、国中の諸宗諸門の狐兎、一党して当山に襲来すといえども、敢て驚怖するに足らず」

冨士大石寺第廿六世日寛上人御著 六巻抄
冨士大石寺顕正会発行

 
 
 
今こそ全日本人は、
大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、
国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。

 

 日本は今、亡国の前夜を迎えている。
 その亡国は、どのような災難によってもたらされるのかといえば──
 まもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病(感染症)等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆(国内の分裂抗争)と他国侵逼(外敵の侵略)が起こるのである。
 これは凡夫の私が言うのではない。
 日蓮大聖人が立正安国論の奥書に「未来亦然しかるべきか」と示されるところによる。
 日本国は七百年前、この国にご出現された大慈大悲の御本仏・日蓮大聖人を、二度も流罪し、ついには竜の口の刑場で御頸まで刎ねんとした。
 この大逆罪はたちまちに「大蒙古の責め」という大罰となって現われ、国まさに亡びんとした。
 しかるに日本の人々は改悔なく、今に至るまで日蓮大聖人を信ぜず、背き続けている。
 仏法まことならば、どうして国の保つことがあろうか──。
 ここにいま「」来たって、日本国は再び亡国の大難を受けんとしているのである。
 しかしこの恐るべき亡国の大難が起きても、もしその起こる所以を知らなければ、人々はただ恐れ戦くのみで、これが「日蓮大聖人に背くゆえ」とは知るよしもない。
 したがって大聖人に帰依信順することもない。
 そうであれば、日本はそのとき必ず亡ぶ。
 よって日蓮大聖人の弟子として私は、前もってこれを全日本人に告げ知らしめて国を救わんと、本書を著わした次第である。──

 末法の世を迎え、御本仏日蓮大聖人が出現され、根源の大法・南無妙法蓮華経をもって全人類を救済される。
 全人類にとって、成仏の叶う唯一の大法を、身命も惜しまずお勧め下さるこの仏様こそ、まさしく主君であり、師匠であり、父母であられる。
 しかるに当時の日本国一同は、この主・師・親三徳の日蓮大聖人を悪口罵詈し、流罪し、ついには御頸までも刎ねんとした。
 この悪逆を見て、どうして諸天が怒らぬことがあろうか。
 ここに一国を罰する大災難が起きたのである。
 さらに御入滅後においても、日本一同がいつまでも背き続け、加えて門下までも御遺命に背いて仏法を乱す時が来れば、諸天はこれを許さず、覚醒せしむるために大罰を下す。
 これが、いま起こらんとしている広布前夜の亡国の大難なのである。
 大聖人はこの在世・滅後の二つの大災難の様相を、新尼抄に一文を以て兼ねて示されている。
 「末法の始めに謗法の法師・一閻浮提に充満して、諸天怒りをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。
 大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、乃至、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん
」と。──
 私が本書の冒頭に「まもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆・他国侵逼が起こる」と記したのは、まさしく立正安国論およびこの御文による。
 まもなく日本にこの大災難が必ず相次いで起こる。
 ゆえに前もってこれを告げ知らせたのである。
 御文を拝する──まず「諸天怒りをなし」とある。
 次文以下の諸災難のすべてが諸天の力用によること、刮目してみるべきである。
 「彗星は一天に……」はすでに平成九年に現じている。
 「大地は大波のごとくをどらむ」はまもなく始まる巨大地震。
 「大旱魃・大火・大水・大風」は異常気象による大災害。
 これら自然の猛威の前には、人間は全くの無力となる。
 「大疫病」とは感染症の大流行。
 「大飢饉」とは食糧危機と経済的飢渇たる国家破産。
 「大兵乱」とは自界叛逆と他国侵逼である。
 そして「一閻浮提(全世界)の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時」とは、地球規模の大戦乱が起き、世界中の人々が武器を手にする時──ということである。
 いま大量破壊兵器は地球上に拡散し、反米の嵐は収まるところを知らず世界に広がっている。
 いずれ国際テロ組織は大量破壊兵器を手に入れるであろう。
 このテロ組織を背後で操る国々もある。
 そしてついには米中対決にいたる。
 まさしく世界中が殺気立ち、武器を手にする時が来るのである。
 その結果、「諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時」となる。
 この人類滅亡にいたる恐ろしき末法濁悪の未来のため、大聖人は「五字の大曼荼羅」すなわち本門戒壇の大御本尊を、日本国に留め置き給うたのである。──

 今こそ全日本人は、大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。

 日本に残された時間は少ない──。
 立正安国論の「其の時、何んが為んや」同奥書の「未来亦然るべきか」の仏語は重い。

 
 
国家諫暁 
立正安国論謹講

 
一国諫暁 
日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第九章 日蓮大聖人の御遺命


基礎教学書 日蓮大聖人の仏法
第十章 御遺命守護の戦い

 
 
「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ
早瀬日如管長がたとえ今、口頭で「国立戒壇が正しい」と述べたとしても、それは個人の見解になってしまう。
国立戒壇否定が責任役員会議決でなされ、宗門の公的意志となった以上、同じ手続を以てこれを否定しなければいけない。



真言密教は亡国の悪法
大御本尊様への信を失えば、御遺命の国立戒壇を捨てる
修羅と悪竜の合戦
大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす

「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ



仏法と皇室の関係
仏法と王法とは本源躰一
国立戒壇建立こそ大聖人の究極の大願
大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす

「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ



大聖人を無視しての、いかなる政策も軍備も虚しい
御遺命破壊と同時進行で進んだ原発設置
大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす

「国立戒壇否定」を機関決定で取り消せ

 
冨士大石寺顕正会々長浅井先生 著
 

遙拝勤行の仕方
冨 士 大 石 寺 顕 正 会