(川崎市川崎区榎町)
昔、川崎宿の鎮守である稲毛神社の玉神輿が神社近くの橋の袂で大いに荒れ、この地の深い泥田の中に落ちてしまった。若衆たちが引き上げようとしたが、神輿は静かに沈んでしまったという。やむを得ずその場に小さな祠を祀り、目印に榎を植えた。 この祠は「榎さま」と呼ばれ、女性の病気に御利益があると、多くの参詣者を集めているという。
(愛知県知多郡東浦町緒川 2004年6月20日)
徳川家康の生母、於大の出身家水野氏の菩提寺である乾坤院に隣接するため、於大公園と名付けられた昨年開園の公園である。
(東浦町記事:稲荷神社と石浜貝塚)
(川崎市川崎区旭町)
かつてはこの地発祥という長十郎梨が栽培されていたが、現在は住宅街となり面影はない。江戸時代に多摩川右岸の大師河原で栽培が始まった梨も、大正末期には工業地に変わり、京浜工業地帯の一角として旭町が生まれた。
(愛媛県今治市 2004年5月5日)
泉川の下流、海水域との境に設けられた呑吐樋(どんどび)から今治城の外堀の役割となり今治港に注ぐ川である。外堀時代は現在の五倍の幅があり、その後埋め立てられ、常盤町が形成された。昭和後期までは綿業の染料が流され、時間によって色が違う流れであったが、現在は綺麗になっている。
(真言宗金剛山金乗院平間寺 川崎市川崎区大師町)
初詣参拝者が常に上位の川崎大師を訪れた。川崎大師こと平間寺は、大治三年(1128)尾張の武士平間兼乗が、無実の罪により尾張を追われ、諸国を流浪した後、この川崎の地に辿り着き、漁を生業として貧しい暮らしをしていた。兼乗は仏教に帰依し、弘法大師を崇信していたが、我が身のこれまでの不運さを顧み、また厄年あったため、日夜厄除けの祈願をした。ある夜、高僧が兼乗の夢枕に立ち「我昔唐に在りし頃、我が像を刻み、 海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。今、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げた。兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投じると一躰の木像が引き揚げられた。それは大師の像であり、兼乗はこれを浄め、草庵を結んだ。その頃、高野山の僧尊賢が諸国遊化の途上に立ち寄り、この像と霊験に感泣し、開山したのが始まりと伝わる。
(東京都品川区大井 国指定史跡)
明治10年(1877)アメリカ人動物学者モースが貝の研究のため来日した際、新橋から東京に向かう汽車の窓から貝層が見え、国の許可を取って発掘調査をして発見された縄文後期以降の貝塚である。
(東京都品川区大井)
池上通り沿いに鎮座する神社である。武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀り、安和二年(969)尊永法印が常陸鹿嶋社より勧請し、別当寺(神宮寺)として天台宗来迎院が建立された。神仏判然令によって鹿嶋神社と来迎院は分離され、現在に至っている。
文久二年(1862)築造旧拝殿
(東京都品川区大井)
昭和60年(1985)池上通り沿いの旧安田善助邸、電通吉田記念館跡地に開館したRC造2階建、延床面積2,426m2の区立社会教育施設である。品川区の原始時代から現代までが紹介されており、常設展示は、この地の特色「大森貝塚とモース博士」「東海道と品川宿」である。敷地内には吉田記念館時代の日本家屋がある。
(愛知県安城市花ノ木町 2005年4月17日)
明治24年(1891)東海道線安城駅の開業によって安城村の人口が増加し、大正8年(1919)に至って碧南から誉田別尊(ほむたわけのみこと:応神天皇)を祀る八幡社を横山地区に遷宮したことに始まる。