flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

三方原 犀ヶ崖

2007-12-18 00:00:04 | 城郭・城下町

(静岡県浜松市中区 県指定史跡)
 この日は「遠州大念仏宗円堂」を改修して開館した、犀ヶ崖資料館に立ち寄り、職員の方からのご説明を受けた後、同所にある徳川軍本多忠真顕彰碑(討死場所)、江戸時代の俳人大場蓼太の句碑、徳川軍夏目吉信顕彰碑(討死場所)等を訪れた。
(三方原古戦場犀ヶ崖碑)
(本多忠真顕彰碑)
 
(旧宗円堂)
 
(夏目吉信顕彰碑)
 三方原丘陵地に裂けるこの溝は、深さ約13mであり、浜松城北側に向かって次第に幅の広がった地形となっている。元々水脈のあった谷が、地震によって広がり、このような地形になったのだという。享保元年(1716)の「遠州濱松城圖」には、「犀ヶ掛」とし、深さ五十間(90m)と書かれている。
 元亀三年(1572)武田信玄勢と戦った徳川家康勢は、軍勢が相手の半分であったこともあり浜松城へ敗退した。そして武田勢はこの犀ヶ崖近くに陣を構え、野営しているところを徳川勢は攻め、この犀ヶ崖に布を敷いて武田勢を落とし込んでいったという。それが地名の「布橋」の由来となったとされる。
 戦いの後、谷底から人馬の呻き声が聞こえたり、けが人が続出したり、イナゴが大発生するなど災いが発生したため、住民は祟りと思い、僧侶を招いて念仏を唱えたところ次第に鎮まったとされ、その後遠州大念仏として毎年供養が行われるようになった。

(関連記事:曳馬城 姫街道鹿谷 奥山線跡

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千国

2007-12-17 00:00:05 | 街道・宿場町
(塩の道 長野県北安曇郡小谷村)
 親沢を渡ると千国の集落である。
糸魚川側と松本側との千国街道の中継地点であったため、往時は栄えたようである。江戸時代には松本藩の千国番所が設けられ、通行税徴収と人改めが行われた。そして番所の近くからは、標高1338mの柄山越えの善光寺道が分かれていた。
また、千国集落の北端には天長五年(828)創立の諏訪神社が鎮座する。
         
(関連記事:千国街道仁科
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牧内城 天野屋敷

2007-12-16 00:00:52 | 城郭・城下町
(愛知県岡崎市大和町)
 妙源寺から二つの牧内城跡へ向かう。

 旧碧海郡西牧内村、鹿乗川のほとりに築かれたこの城は、一色左京大夫が築城し、その後、牧内松平忠高が居城したという。また、文亀元年(1501)松平親忠没後初七日の大樹寺警護連判状に、牧内松平忠高の名がある。
 現在農協の敷地となっており、隣接する天野氏の牧内城(天野屋敷)の末裔一門として石祠が建てられている。
 天野氏の牧内城は、一色氏、牧内氏の牧内城の北西に隣接し(或いは同一か)、天野惣馬が居城したという。(三河天野氏諸派か)惣馬は、永禄三年(1560)今川義元に属して、桶狭間の戦いで討死したという。現在、末裔が居住している。

 この後は、北隣筒針へ向かった。
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郡上八幡城

2007-12-15 00:00:07 | 城郭・城下町
(積翠城 郡城 岐阜県郡上市八幡町 県指定史跡)
 永禄二年(1559)それまで郡上郡を領していた東氏を攻め落とし、代わって東氏臣であった遠藤盛数によって標高354mの八幡山に築城されたのが八幡城である。また、盛数の娘に、山内一豊の妻となった千代がいるとされる。(近江坂田郡飯村、若宮友興娘説あり)
  
 盛数の子慶隆は、後に織田信長に属し、天正十六年(1588)豊臣秀吉によって加茂郡小原城(白川町)移封させられる。代わって安八郡曽根城(大垣市)より稲葉貞通が四万石で入城、貞通は城郭の拡大を行った。然し、貞通は「関ケ原」で西軍につき、先の遠藤慶隆、飛騨高山の金森可重ら東軍勢に攻められ、再び遠藤氏の居城となった。
     (東殿山)
 慶隆、慶利、常友、常春と続き、元禄五年(1693)当主常久は早世であったため改易となった。代わって常陸笠間井上正任が五万石で入った。
   
 元禄十年(1697)正任の子正岑(まさみね)のとき丹波亀山へ移封、出羽上山から金森頼時が入った。延享四年(1747)頼時の孫頼錦(よりかね)は幕府奏者番(礼式管理)となり経費が嵩んだことで年貢に付加され、いわゆる宝暦騒動といわれる郡上一揆が起き混乱、宝暦八年(1758)改易となった。
 代わって丹後宮津より青山幸道(よしみち)が四万八千石で入り、本丸を麓の旧二の丸に移し、山頂の旧本丸は桜の丸、松の丸となった。そして幸完(よしさだ)、幸孝、幸寛、幸礼(ゆきのり)、幸哉(ゆきしげ)、幸宣と続き廃藩となった。
  
 
 昭和8年(1933)天守台に木造四層五階の模擬天守と隅櫓が建造された。本丸(旧二の丸)には岸剣神社、悟竹院が建ち、山内一豊と千代の銅像がある。また、三の丸跡には安養寺が建っている。

(関連記事:郡上街道八幡 郡上街道の水辺 旧八幡町庁舎
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千国街道 親坂

2007-12-14 00:00:51 | 街道・宿場町

(塩の道 長野県北安曇郡小谷村)
 牛方宿の近くにある、沓掛の石仏群から始まる急坂、親坂。
標高770mの頂きから、650mの麓の親沢まで、長さ約600mの旧道である。
その石仏群の一つ、庚申塔の傍らの木板に、「昔、冬は南小谷の学校まで行くのが大変だった」と書かれている通り、牛馬用に石は敷かれているものの足元が悪く、沿って流れる清水が坂道に流れ出し、沢道となっていた。
  
 下って間もなくして「弘法の清水」がある。草木で埋もれているが、人用と牛馬用の水舟があり、傍らに弘法石像がある。この清水が増幅し「親沢」に注いで千国の集落へ向かって流れ出している。
  
 更に進むと、「錦岩」が現れ、牛方が手綱を通して休ませる「牛つなぎ石」がある。下方に近づくと、「馬頭観音」と刻まれた石碑がある。更に下った親沢の橋のたもとにも「親坂石仏群」と呼ばれる多数の馬頭観音があり、これらは馬の墓標でもあったが、通行の安全も祈る願いも込められている。
       
 親坂の馬頭観音を過ぎると、千国の集落に差し掛かる。

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桑子城 妙源寺

2007-12-13 00:00:55 | 城郭・城下町
(浄土真宗桑子山妙源寺 愛知県岡崎市大和町)
 昭和58年に訪れて以来、24年振りの岡崎市西部大和町に訪れた。
近隣に、昭和63年になって東海道線西岡崎駅ができ、住宅が建ち混んできていた。また、妙源寺周辺も木々が減り、明るくなったように感じた。

      (柳堂 国指定重要文化財)
(昭和58年)
(平成19年)
 文暦二年(1235)碧海郡領主安藤信平は、鎌倉街道を通って京へ帰る途中の親鸞を柳堂に迎え入れ、説法を聞いたという。そして信平はその後出家し念信と名乗り、正嘉元年(1257)明眼寺を創建した。
 天文三年(1534)の記録「池端平岩光吉畠地寄進状」には、明眼寺(後の妙源寺)に畠地を寄進するとあり、「天文参年申午八月九日 池端左京進光吉」とある。(池端城主)
 永禄六年(1563)三河一向一揆の際には、家康がこの明眼寺にて一時退避をし、その際妙源寺と改められている。
 
 安藤氏はこの桑子村に城を構え代々居城(一説には安藤氏祖ともいわれる阿部氏が築いたともいう、近村小針城の阿部氏も関連か)そして信平から十三代後の安藤基家(家重)のとき松平広忠に仕えた。天文九年(1540)基家は、安祥城の戦いで討死した。子基能も、元亀三年(1572)「三方原」で討死している。基能の子直次は、「姉川」「小牧長久手」「関ケ原」の功により徳川頼信の付家老となり、遠江掛川や紀伊田辺の藩主となった。
  
(安藤直次五輪塔)
(平岩親吉五輪塔)
(本多忠豊・忠高墓所)
(高木主水五輪塔)
 境内にはその安藤氏代々の墓所や、平岩親吉、長坂信政(血槍九郎)、本多忠豊、忠高の墓碑、高木主水の五輪塔等がある。また、本多氏裔の科学者、本多光太郎氏の墓碑も同所に存在する。

 続いて牧内城跡へと向かった。
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旧八幡町庁舎

2007-12-12 00:00:52 | 木のたてもの

(岐阜県郡上市八幡町 国指定文化財)
 明治22年(1889)に町制が施行された奥美濃を代表するまち、旧八幡町。その繁栄を象徴するべく、昭和11年(1936)吉田川新橋のたもとに木造二階建て、建築面積455㎡,延床面積899㎡の役場庁舎が築造された。
 平成6年(1994)新庁舎移転まで、この建物は役場として機能した。その後、増築部分の取り壊し等、開庁当時の原状回復が行われ、平成11年(1999)からは郡上八幡旧庁舎記念館(市観光部門)として利用されている。
 

(関連記事:郡上街道八幡 郡上八幡の水辺 郡上八幡城

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千国街道 牛方宿

2007-12-11 00:00:14 | 街道・宿場町
(塩の道 長野県北安曇郡小谷村)
 千国街道は、かつて越後糸魚川から信州松本まで、主に塩や海産物を運んだ街道である。そして今回、先回の簗場地区以来の千国街道歩きとなった。
       
 「牛方宿」は、一般の地名を冠に付けた街道宿場と意味合いは違い、当時の物資輸送手段であった、牛や馬を扱う人「牛方」の泊まる宿として捉えるものであり、街道筋には何軒か存在したという。然し、往時の風情を残すのは、千国鞍掛の牛方宿一軒だけとなり、貴重なものとなった。
    
 江戸時代末期の建物は平成9年に村有形文化財となり、その後修復が施され、平成16年に資料館となった。
  
この後、「親坂」を下り、千国集落へ向かった。

(関連記事:安曇野2007秋 栂池高原
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久保城

2007-12-10 00:00:15 | 城郭・城下町

(小代城 稲荷屋敷 愛知県岡崎市石原町)
 中金城の東、男川に沿った丘陵上に位置し、標高は約180mである。
昭和54年に訪れたとき、辺りは山林であったと思うが、現在次郭跡とされる場所は、自動車部品メーカーの研修所となっていて、それにあわせて城跡が整備され、史跡公園にもなっている。これは平成15年に造られたものである。
   
 郭は地形に合わせて階段上に配し、主郭跡には模擬櫓が造られている。主郭背後は土塁を配し、その向こうは堀切となっていて、堀切の男川側には石積みがみられる。現在、整備された城跡にある石垣は、その整備の際積まれたものであるが、堀切横の石積みは以前からのものであり、昭和53年調査の「額田町中世・近世城郭調査表」には、これを石垣としている。然し、この地域特有の「猪垣」の可能性もあり、判断は難しい。
  
 久保城は、永正初年(1504-)頃、奥平貞昌によって築かれた。
元亀元年(1570)武田勢に攻められた奥平氏一族が、「久保の密談」を行い、奥平貞勝が武田方に、その子貞能と孫信昌は徳川方に付くことを決めたという。また、額田郡誌には、「天正元年より武田家浦野源之亟を置く」という記述がある。
 天正十八年(1590)徳川家康の関東移封に伴い、廃城になったという。
また、城の南側の稲荷沢及び稲荷社を隔てて、奥平貞昌の創建という臨済宗月光山聞桂寺があったが、昭和10年(1935)男川対岸に移転している。

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郡上八幡の水辺

2007-12-09 00:00:09 | 水のほとり

(岐阜県郡上市八幡町)
 山あいのこの地が発展したのは、水が多く集まって来る地だからに違いない。
長良川に吉田川が注ぐところにあるこのまちは、多くの水の音を聴くことができる。
 今回、郡上八幡駅から、下桝形町の武洞谷の清水、やなか水のこみち、吉田川、いがわ小径(島谷用水)、夏には子どもたちが飛び込む新橋を渡り、八幡城三の丸下の柳町用水と水舟、そして名水百選の宗祇水(白雲水)を巡った。
         
 「やなか水のこみち」は、新町から稲荷町に至る路地を昭和63年に、水の町をイメージとして造られた、ポケットパークといわれる小公園である。また、至るところに見られる「水舟」は、流入する清水を飲料用と洗浄用に分けた、言わばこの地方の流し台であり、木製のもの、石製のもの等がある。
 
 宗祇水には大勢の人がみられた。
小駄良川が吉田川に注ぐほとりにあり、名前の由来は文明年間(1469-87)飯尾宗祇が、この泉の傍に居を構えたところからとされる。

 最後に、私が習慣としている水辺での佇みによって、この地の自然と力を感じ取った。

(関連記事:郡上街道八幡 旧八幡町庁舎

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安曇野 2007秋

2007-12-08 00:00:04 | 漂い紀行
  (穂高付近)

 松本から、2年振りの安曇野を北向する。
梓川を越え、豊科、穂高、大町、白馬を経て、あずさ号の終点南小谷に到着した。
(有明付近)
(有明山)
(松川付近)
(常盤付近)
 
(大町 高瀬川)
 
(海ノ口付近)
(海ノ口付近)
 
  
そして、次は千国街道を歩く。

(関連記事:上高地 くろよん 白馬八方 梓橋 安曇野穂高 栂池高原 千国街道簗場 中綱湖 青木湖 アルペンエントランス NORTH大糸 木崎湖
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秋の名残

2007-12-07 18:00:58 | ふるさとの木々
(愛知県豊川市千両町)

イチョウの木の通り道。

梅雨時には、アジサイの花が咲いているこの道。

今年もあと三週間となったが、秋の日がまだそこには残っていた。




(愛知県豊川市樽井町)
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中金城

2007-12-07 00:00:44 | 城郭・城下町
(左近屋敷 愛知県岡崎市中金町)
 乙女川と共に下り、男川と合流するすぐ手前で東に少し上がると、この城跡に辿り着く。
今は茶畑や宅地となっている城跡へは、27年前にも訪れていた。その当時、額田町教育委員会で入手した、「額田町中世・近世城郭遺構調査表」を基に、旧町内を巡ったことを思い出す。この中金城もその一つである。

 中金城は、奥平定直(貞直)が、異母兄である設楽郡清岳村亀山城主奥平貞俊を頼って、上野国甘楽郡より額田郡中金村へ移住したのが始まりとされる。(中金奥平家)
定直、正定、吉定、義次、定次と続き、徳川家康の関東移封に伴い廃城となったという。
 また、左近屋敷の「左近」は、三代吉定の名であり、四代義次は「丸根砦」、「姉川」、「三方ヶ原」、「鳶ヶ巣山」等に参戦、四代定次も、「長篠城」、「小牧」に参戦している。

続いて久保城(小代城)へ向かった。
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郡上八幡

2007-12-06 00:00:41 | 街道・宿場町

(岐阜県郡上市八幡町)
 長良川の上流、吉田川と合流する場所に開けたまち、郡上八幡。
奥美濃の小京都とも言われ、郡上おどりで有名だが、中山道加納(岐阜市)から越前国大野郡石徹白(いしとろ)村(旧福井県/昭和33年より岐阜県白鳥町/現郡上市)に至る郡上街道の通るまちでもある。
   
 私は今まで、高山や油坂峠を経て永平寺へ向かう際に通り抜けてはいたが、降り立ったのは初めてであった。この日は長良川鉄道梅山駅から乗車し、郡上八幡駅を下りると、国鉄越美南線時代の面持ちを残す駅舎や跨線橋がみられ、閑散とした駅前を歩いた。
       
 駅から下桝形町の裏通りを歩き、新町通りに出る。この辺りから観光客とみられる人々が大勢現れ始めた。「やなか水のこみち」や橋本町、左京町の町並み、そして吉田川宮ケ瀬橋を渡り、大岩の上に建つ白龍神社、城山の麓を刳り貫いて祀られた神農薬師、子どもたちが飛び込む吉田川新橋を渡って、今は観光案内処となっている旧八幡町庁舎、その裏手にある「いがわ小径」、八幡城三の丸跡の安養寺前の柳町、二の丸跡(新本丸跡)付近に建つ岸剣神社、秋葉三尺坊悟竹院、釈迦三尊像の善光寺、そして郡上八幡城の城山に上がった。
   
 八幡のまちを見下ろした後は、郡上八幡博覧館、職人町鍛冶屋町の町並み、本町の宗祇水、小駄良川そして吉田川で一休みし、立町、日吉町、いどばたこみち、大坂町、今町、栄町を経て、郡上八幡駅へ戻った。
 

(関連記事:郡上八幡の水辺
(小京都関連記事:信濃松代 筑摩松本 伊那飯田 加賀金沢 飛騨高山 飛騨古川 尾張犬山 三河西尾 伊賀上野 近江長浜 近江八幡

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北国街道 上田宿

2007-12-05 00:00:00 | 街道・宿場町

(長野県上田市)
 午前中の松本から、この地に差し掛かる。
当初、戸倉上山田地区を訪れる予定だったが、急遽変更し、この地に降り立った。故に事前の情報を用意しておらず、私の第六感アンテナを使って歩みを進めてみることにした。然し、この地は私の修行仲間の出身地でもあり、大方の地理歴史は理解していた。

 上田駅を降り、城跡の方向へと歩く…天神商店街を通り、間もなくして「長野行新幹線」高架下に建つ上田天満宮の小祀が目に入った。越後高田藩主が祀っていた天神を譲り受け、上田駅前に祀られたものであり、その後駅前整備でこの地に移転したのだという。
 
 この辺りは、城跡の案内板など全くなく、ただ意識する方位へ歩いていった。坂を上ると、上田城二の丸橋前に辿り着いた。橋を渡って城内に入り、すぐ呼び止められた。
「上田の観光についてお伺いしています」…ここでいろいろ質問をされた。
「実は、海野町商店街に何か見所をつくりたいと思いまして…」
私はその商店街を通ったことがないので、具体的にどのようなことを想定しているのか尋ねると、「近くに温泉地があるので、足湯とか…」
…それは容易に継続可能ですか?
この商店街の場所はどこですか?
「駅からお城へ行く途中で反対方向に向いて行ったところです」
…お城に来る観光客が通ってもらえないわけですね。でも、それをこっちに振り向かせても、風林火山で話題になっている上田城の旬が過ぎると、それも期待できませんね。それよりも、上田は街道が通っていませんでしたか?それを材料にするか、商店街の起点と終点に何か起爆剤のような施設を設けるか、誘致する。もしくは前後の商店街にも協力を得て、お客さんに通り抜けてもらって相乗効果を狙うか。東国から善光寺を経て北陸方面を結んでいた街道筋という周辺の通りとは違うことをアピールまたは視覚的に示したらどうか。あと近場の歴史や伝説等を探し、それに因んだ地までの道のりにする。などはいかがでしょう…と取りあえず申し上げておいた。
     (柳町)
 続いて山本鼎記念館、市立博物館、そして真田線の鉄路跡の散策後は、市立博物館で尋ねた、北国街道の町並み保存に頑張っているという柳町へ向かった。
この町は、まだ整備途中といった感じであったが、努力が感じられ、この一角を商業で盛んにするのか、単に町並み保存として進めていくのか、今後の動向が気になった。またここには「保命水」と呼ばれる清水があり、この町の水道というべき、大切な存在である旨を、自治会により紹介されていた。
  
 城下町故の曲がり角の多い街道を東へ向かうと、原町の上田宿問屋跡、そして先程の話にあった海野町商店街に差し掛かった。
現地を見てみると、自動車の通行も多いながら、地元民の通行も多かった。また、商店も端まで連なり、閉店しているような店舗も見受けられなかった。ただ、街道の面影は全くなく、その後拡幅されたであろう道幅と近代的な店舗、これでは風情で売り込むことは難しく、人通りの量で稼ぐしかないと感じた。地図上で見ると、商店街の終点東方で幾つかの役所、文化施設が固まっており、観光客よりは市民にとっての馴染みのある商店街なのだろうと思った。
 (海野町)
「真田坂」
 北国街道から分かれる松尾町商店街の活性化プロジェクトによって誕生した「真田坂」を下って駅へ。上田の商業が思いのほか振興しているのに比べ、信越本線との切り離しで衰退さと不便さを否めない、第3セクターしなの鉄道線に乗って、今夜の宿篠ノ井へ向かった。

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