(神奈川県鎌倉市材木座)
道路脇に低く小さい欄干がある。今は下流側が暗渠になった古川に架かる橋であるが、命名に関して次の伝説がある。元弘三年(1333)稲村ヶ崎を越え鎌倉入りした新田義貞は、防戦する幕府軍(北条氏)がこの橋の辺りで乱れ始めたため、乱橋と呼ばれるようになったという。然し、それ以前の鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の宝治二年(1248)六月の条に「十八日寅刻 濫橋の辺一許町以南 雪降り其の辺霜の如し」とあり、既に存在していたことが分かる。ただ、乱ではなく濫の字を用いているため、川の氾濫を由来とする名前ではないかと推測ができる。
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