(大垣市墨俣町)
美濃路の起宿と大垣宿の間にある宿場町。古来鎌倉街道の宿場でもあった。
またこの地は長良川墨俣の渡しと、川湊でも栄えた。墨俣城が一夜城といわれるのも、水運によって築城資材の調達が容易だったからである。
「すのまた」の名の由来も、揖斐川や長良川が網目状に分流合流を繰り返した中洲の付け根であったことから「洲俣」と名付けられたものである。故に古くから洪水で苦しめられた地であり、治水対策によって輪中が形成された。
街道筋には随所に往時の風情がみられ、光受寺、廣専寺、等覚寺、本正寺、満福寺、明台寺といった寺町が形成され、その一角には延喜式神名帳にも名が見える、墨俣神社が鎮座する。
大正時代、犀川事件と呼ばれる治水問題が発生した犀川の堤防には、この時期ならではの桜並木がその存在を主張していた。
美濃路の起宿と大垣宿の間にある宿場町。古来鎌倉街道の宿場でもあった。
またこの地は長良川墨俣の渡しと、川湊でも栄えた。墨俣城が一夜城といわれるのも、水運によって築城資材の調達が容易だったからである。
「すのまた」の名の由来も、揖斐川や長良川が網目状に分流合流を繰り返した中洲の付け根であったことから「洲俣」と名付けられたものである。故に古くから洪水で苦しめられた地であり、治水対策によって輪中が形成された。
街道筋には随所に往時の風情がみられ、光受寺、廣専寺、等覚寺、本正寺、満福寺、明台寺といった寺町が形成され、その一角には延喜式神名帳にも名が見える、墨俣神社が鎮座する。
大正時代、犀川事件と呼ばれる治水問題が発生した犀川の堤防には、この時期ならではの桜並木がその存在を主張していた。
調査依頼が来てまして記事に纏めなきゃいけないんですけど、どなたに聞いたら良いのか分かりません。もしご存知でしたらご教授願います。出来たら紀行文などいただけると嬉しいなぁ~
思いのほか学業が手強くなっておりまして、申し訳ありません。
過去日記をアップします。
しばらくおまちください。
何かの足しになるかどうかもわかりませんが、もし使える場所がありましたら、断りなどいりませんのでご自由にお使いください。
岐阜市教育委員会に立ち寄られたんですか。もしその時の資料が残っているならばお借りできないでしょうか?
担当者の名前とか?ちょっと古すぎるかな?発掘調査されていた頃なのでしょうか?
以前、教委にて「文化財グラフ岐阜、大廻古墳調査報告書、老洞古窯跡群調査報告書」など提供していただきましたが、西山古墳に関しては聞き書きにてお聞きしただけで、資料として我が家に残るものはありません。
ただ、「岐阜市史通史編原始古代中世」に詳細なことが載っているのでコピーにて添付ファイルいたしましょうか?
どこに行けばあるのでしょうか?電子図書としてあるならばアクセスコードをお願いします。手元におありでスキャナーに読み込むということでしょうか。読めるようであればお手数ですが宜しくお願いします。
koureiさん、お願いします。
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