(長崎県島原市 市指定史跡 日本100名城91番)
元和四年(1618)松倉重政が近隣の日根野城に代わって島原城を築城したのが始まりである。然し、寛永十四年(1637)松倉氏の領民に対する圧政により島原の乱が勃発。松倉氏は改易され、遠江浜松から高力忠房が入封した。然しながら、寛文八年(1668)子の高長が苛斂誅求(かれんちょうきゅう:必要以上に厳しく年貢を取り立てること)をしたため改易となり、代わって丹波福知山から松平忠房が入封した。松平氏五代を経て、忠祇(ただまさ)のとき、十二歳の幼年であったため、下野宇都宮戸田忠盈(ただみつ)と知行を交換。戸田氏二代を経て安永七年(1774)再び宇都宮松平氏と交換。以後、松平氏八代を経て廃藩を迎えた。廃藩で建物は取り壊され、西の櫓は昭和35年(1960)、天守は昭和39年(1964)、巽櫓(彫刻家北村西望記念館)は昭和47年(1972)、丑寅櫓は昭和55年(1980)にそれぞれ再現されている。
西望記念館となっている巽櫓
国有形 旧三ノ丸御馬見所 江戸末期
市内中野町から移設された景華園遺跡(弥生 墳墓)遺構
丑寅櫓
天草四郎像
西の櫓
東虎口門跡
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