flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

白隠と常念閣

2019-03-29 00:00:00 | ほとけのいおり

(静岡県富士市原田 2006年5月16日)
 天平勝宝元年(749)行基によって開創したと伝わる藤澤山妙善寺には、次の伝説がある。室町時代、常陸国真壁郡小栗庄に小栗判官満重という城主がいたが、足利持氏に攻められ東海道を西に逃れた。相模国で「照手姫」と人を喰うという馬「鬼鹿毛」を得た後、駿河国に至り妙善寺に照手姫を預けた。小栗判官は更に西に向かい、丹波国の母方の在所に鬼鹿毛を預け、紀伊国熊野に向かった。然し、鬼鹿毛は主人を慕い、丹波国から妙善寺まで戻ったが、そこで力尽き息絶えた。寺では、鬼鹿毛哀れみ、観音堂の下に葬ったのだという。また、江戸時代の臨済宗中興の祖であり、近隣沼津出身である白隠は妙善寺の板嶺周痩首座、梵忠和尚と親交があり、妙善寺に滞在したことがある。その際、観音堂に掲げた号額を書いたという。更に白隠七十八歳の時、妙善寺との書簡において、「この程滝川妙善寺に罷りあり候うち、京都の本屋小川源兵衛方より原宿松蔭寺迄『禅関策進』の再版二十巻参り候よしにて、滝川まで二通り持ちつかわされ申候。老夫も存じよらざる御事故、委細相たづね申候所に(中略)委細承知驚き入り、覚へず老涙を滴して、再三推しいただき、手の舞い足の踏む事も忘れ、歓喜いたし候。子細はこの書物の儀は、老僧若年の時、至極ありがたき霊験これあり、上もなき法恩に預かり、師匠とも父母とも守本尊とも、比類なき大切の書籍と存じ、行脚の内、片時も身を離さず大切に所持仕り候」とある。
    

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