(福岡市中央区西中洲 国指定重要文化財)
明治43年(1910)に開催された、九州沖縄八県連合共進会の来賓接待所として建てられたもので、木造二階建、塔屋付、建築面積396㎡のフレンチルネッサンスを基調とした建物である。翌明治44年には陸軍特別大演習本営として利用され、大正9年(1920)には裕仁親王行啓の際の行在所としても使われた。第二次世界大戦時は福岡聯隊区司令部となり、終戦後は高等裁判所、県立水産高校として利用され、昭和31年(1956)からは県教育庁舎として使用された。昭和56年(1981)教育庁舎移転を機に、半解体修理を行い、昭和62年(1987)に完了している。
今回は職員の方にご説明頂き、館内の様々な特徴を知ることができた。また、平成17年福岡県西方沖地震の際には、若干の内壁が剥がれたものの、大被害は受けなかったということであった。
(災害修復による新旧壁紙の違い)
(換気孔)
明治43年(1910)に開催された、九州沖縄八県連合共進会の来賓接待所として建てられたもので、木造二階建、塔屋付、建築面積396㎡のフレンチルネッサンスを基調とした建物である。翌明治44年には陸軍特別大演習本営として利用され、大正9年(1920)には裕仁親王行啓の際の行在所としても使われた。第二次世界大戦時は福岡聯隊区司令部となり、終戦後は高等裁判所、県立水産高校として利用され、昭和31年(1956)からは県教育庁舎として使用された。昭和56年(1981)教育庁舎移転を機に、半解体修理を行い、昭和62年(1987)に完了している。
今回は職員の方にご説明頂き、館内の様々な特徴を知ることができた。また、平成17年福岡県西方沖地震の際には、若干の内壁が剥がれたものの、大被害は受けなかったということであった。
(災害修復による新旧壁紙の違い)
(換気孔)