flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

美杉村

2005-11-25 21:34:58 | 城郭・城下町

(三重県一志郡美杉村 2005年7月11日)
-海抜上昇- 
 向かう道中だけが大雨となり、山間に向かう列車は自転車並の速度となった。
この辺りの住民は老若男女問わず声が大きい。然し仲間内だけであって、外部の者には人見知り傾向にある。田舎の特徴である。
 比津…降り立つ駅に到着した。
この頃には強い陽射しが照りつけるようになっていた。
この場所に駅があること自体不思議な感じがする程の風景があった。
駅から南進、急な坂を歩き北畠霧山城へと差し掛かる。
標高約600m、北畠本拠地を見下ろすこの城は、砦の役目を果たしたところでもある。
そして多気地区を下り始めた。


-隠れ里-
 その本拠地跡に鎮座する北畠神社に到着した。
ひっそりとした人の気配も感じられない空間に朱塗りの社殿。
その一角に北畠館が存在した頃に造られた庭園があった。
入園料がいるようであり、社務所を訪ねると誰もいない様子。呼び出しボタンを押すと、境内の外から奥さんと思われる人が現れた。
そして岩と苔蒸した庭園を眺め、六百年前の形に触れた。
帰り、その奥さんに北畠氏のことを尋ねることとした。
会話の中で流石歴史的なことは理解されているなと感じた。そこで、我が家の北畠との関わりを尋ねることとした。


-探偵調査-
 …詳しいことは主人(宮司)に聞かないと…ということであり、帰り次第調べて貰うこととし、神社を後にした。
付近には村の埋蔵文化財センター、ふるさと資料館があり、見学すると殆んどの内容が北畠関連のことであり、この村の北畠による影響度を伺い知ることができた。
伊勢本街道を歩き、新しい飼坂トンネルをくぐり坂を下ると奥津という集落に出る。ここから名松線の気動車に乗り、村の中心地八知へ。
駅前の役場を訪ね、先程の神社と同じ内容の質問をしたが、やはり詳細なことが分からず、また後日連絡を貰うこととし、美杉の里を後にした。 


(関連記事:多気北畠 伊勢本街道奥津 伊勢竹原

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徳島

2005-11-25 14:26:10 | 街道・宿場町

(2005年7月18・19日)
…ただなんとなく和歌山から船で徳島に向かった。
途中、和歌山港線というローカル線に乗り、フェリーに直結。乗り込むと、窓があまりなく、動き出すとエレベーターに乗っているような体に感じる重力の波動。乗り物酔い経験のない私でも、何か落ち着かない感じがした。寝不足のせいか?船が大きく揺れ、波に船体を打ち付ける度に周囲から悲鳴があがる。大潮流を横切るため、日常的なようであるが、波浪注意報が出ていたため尚更である。水道を横切り二時間、阿波入りした。  
 フェリーから市営バスに乗り換える。市街地に近付くにつれ、乗客も増えていった。
駅まで行き、鳴門方面へと出向こうと思っていたが、城跡が見えたのでここで降りることとした。鋭角な石垣の城内に入り、博物館へと足を進めた。終始、マンツーマンのガイドが付き、「徳島は蜂須賀二十六万石の藩で…」蜂須賀といえば、尾張の武士、愛知のことを振ってみると、ナカナカ詳しい解説者、これだけの城下の規模でありながら市指定史跡に止まっているのは都市計画開発の思惑があるからだ…等、この場所の歴史の裏表が分かった気がした。  今は残存しないが、本丸ではなく二の丸に天守が有ったといわれる城を後にし、市街地へ向かうこととした。四国で一番小さい県都であるが、商業が栄えている。やはり水が豊富で港のある城下町がポイントであろうか。また水辺がしっかり整備されているのも、観光が廃らない理由の一つであろう。

休日と平日両方の姿を見たが、私の住む近隣同規模の都市と比較にならない程の賑やかさがあった。夜、宿泊先のテレビを見ていると、昼博物館に取材に来ていた四国放送ローカルニュースで館内が紹介されていた。

  翌朝、宿泊先に近い、官公庁へ向かった。観光がしっかりしているこの地も、生涯学習関連はそれ程でもないようである。アーケードを抜け、阿波おどり会館最上階から市高台「眉山」へと通じる市営ロープウェイ乗場に向かった。円筒形に近い、小型のゴンドラが二基一組で走行する。それが二組。決して輸送力が大きいとはいえないが、需要相当といったところか。海抜約280m、市街、吉野川河口、紀伊水道が望める頂きは“青い国四国”を更に認識させる光景であった。

 山頂には展望台、食事処、資料館、テレビ中継所、神社等が有り、程良いハイクコースといったところか。その食事処のおばさんが、自分家で採れた野菜をくれた。頂きの施設は、いつの日が廃れてしまうのではないかという雰囲気を感じ、記念写真を多く撮っておくことにした。
 麓に戻り、商店街を漫歩いて、懐かしい方言を聞きながらこの地の風土に触れた。そしてまた連絡フェリーに乗り、紀伊水道の潮を掻き分けて進み、帰路の紀州路へと向かった。

 (関連記事:眉山 牟岐線 徳島城 鳴門
コメント (6)
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