紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

日米学生気質雑感

2004-11-23 17:05:33 | 教育・学問論
大統領選挙について何かを書こうと思っているうちに多忙にかまけて、すっかり更新が滞ってしまった。
 
昨日、アメリカの大学の先生を迎えて講演会を行なったが、その先生から私の研究室で、「どこからこの音楽が聞こえてくるのか?」と尋ねられた。私の研究室は学生の部室が入っている学生会館に面しており、吹奏楽やジャズ、アカペラなど様々な練習の音が防音が不十分な窓を通して伝わってくるのである。
 
「あそこに部室があって、学生も他では練習できないので練習しているんですよ」と説明したところ、「金曜日の晩ならわかるけどね」とそのアメリカ人の先生が半ば呆れ顔でため息をもらした。金曜の晩どころか、今日のような休日や土日も研究室の目の前の広場にアンプをもちこんでマイクで歌っているグループもいて、休日だから研究室でゆっくり研究をということにならない。
 
アメリカ人の大学教師からすれば、平日はひたすら予習復習・テスト勉強に明け暮れ、金曜日の放課後に初めて解放されて、パーティなどでhang outするのがアメリカの平均的な学生生活なので、「日本の大学生は月曜日からラッパを鳴らしているのか?」と素朴に驚いたに違いない。
 
しかし日本の大学生もバイトのスケジュールには厳密なので決して曜日感覚がないわけではないし、学生を教える日本の教師の方も月曜日から酒を飲んで帰る人も珍しくないので、学生ばかりを責められないだろう。サラリーマンで月曜から飲む人はあまりいないのではないだろうか?
 
「アメリカの大学生は勉強するが、日本の大学生は勉強しない」というのは言い古されたことであり、大部分、真実でもある。「アメリカの大学の授業は学生にとって興味深いが、日本の講義はつまらないので、学生が勉強しない」という人もいるがそれは必ずしも真実ではない。アメリカでも単調で面白くない授業、抽象的で難解な授業は珍しくないが、成績認定が日本より厳格で、課題が多いので勉強せざるを得ないのである。アメリカ留学中に気付いたことは、勉強量もさることながら、学生の勉強スタイルが全く異なることだった。
 
アメリカの、特に白人の学生たちはテスト勉強や宿題などほとんど独力でやっており、友達同士で協力してやることはまれである。ノートの貸し借りなどもってのほか、という空気さえあった。それに対して、アジア系、特に中国人留学生は人数が多いこともあったが、図書館やカフェテリアで10人近いグループで課題に取り組んでいた。アメリカの個人主義といってしまえば、それまでかもしれないが、激しく成績を競い合い、切磋琢磨する環境なので、日本の大学生のようなほのぼのとした友人関係は作りにくいだろう。日本の大学生たちも高校時代はそのような激しい受験勉強を潜り抜けてきたからこそ、大学ではノンビリしてしまうのかもしれない。
 
交換留学で私の勤務校に留学してきたアメリカ人の学生は、流暢な日本語で「日本の大学は全然予習しなくていいので、びっくりしましたが、そのうち慣れてしまったので、アメリカの大学に戻った後が不安です」などとジョーク交じりで述べていたが、例えばゼミ(演習)形式の授業でアメリカ方式を真似しようと思っても、アメリカ人のように「テキストを読んでこないと意見が言えないから読まざるを得ない」とは思わずに、真面目にテキストを読んできても意見を言わない大人しい学生が少なくなかったり、お互いに議論をすることを嫌ったりするのでなかなかうまく行かない。
 
知識を詰め込むのも、議論する力を伸ばすのもどちらの点でも思うようにいってないのが日本の大学の現状なのではないだろうか?大学生のみならず、「朝まで生討論」や「TVタックル」といった政治家や評論家、学者が時事討論する番組を見ても、日本人は議論が下手だと思うが、コンセンサス重視の日本社会では、「異論」を穏やかに唱えることが難しく、「異論」を唱えるとすぐに喧嘩になってしまって、議論→反論→新しい意見・知の発見へといったような弁証法的な展開になりにくいのかもしれない。
 
私たちの世代よりもはるかに学生時代に議論したといっている団塊世代の教師たちの教授会での議論を見ていてもその思いを強くする。教師自身が上手ないから、学生に議論の術や勉強の仕方を教えられないのだろうか?そうとは思いたくないが、学生の議論する力を高めることと、大学での会議の議論の質を高めることはどちらも難しく、改善の道は険しく、とてつもなく長く感じられる今日この頃である。(写真は研究室から見た夕景)


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