今年は、大河ドラマの清盛の影響があるゆかりの地が注目されています。
後白河法王の院御所・法住寺殿跡地にあるゆかりの法住寺は、現在は敷地もせまく
かっての法住寺殿の面影はありませんが、法王の妻の建春門院が梅を愛したため、
法住寺殿には多くの木々が植えられていたということです。
今も境内には紅白の枝垂れ梅など20~30本あり、一部は今が満開でした。
一本の梅に、薄紅色と白の梅が咲く、「思案梅」と名づけられている梅は、
まだ蕾でしたが、中国風の門脇の、深紅の梅は白い竜宮風の門に映えて、
春の気配が感じられ、鮮やかな紅の梅は、華やかで可憐な風情でした。
法住寺の前は、三十三間堂です。
かっての法住寺は、平安時代中期に藤原為光によって創設された天台宗の寺。
法住寺は、大きな寺領を持っていました。
後白河法皇が御所の法住寺殿を作ると共に、自分の死後を守る墓を、
法住寺の敷地内に作りました。
墓に対峙するように、蓮華王院(三十三間堂)を、御所を守る新日吉神宮・熊野神社を
移し、政務をする政庁までもを含んでいた。
後白河法皇は法住寺殿で院政を司りましたが、木曽義仲の焼き討ちで焼失しました。
年月を経て法住寺殿はその名前や所管を変えましたが、法住寺にちなみ、
その名を残すために現在ある「法住寺」が造られたとのことです。
三十三間堂境内にある法住寺殿の説明文
法住寺門
門脇の白梅
境内
門を入った中にある枝垂れ梅
薄紅色です
一本の梅に、薄紅色と白の梅が咲く、「思索梅」と名づけられている梅は、
まだ蕾でした。
「思案梅」の満開の状態の梅は、ネットからの写真
旧御陵正門
中国風の門脇の、深紅の梅は白い竜宮風の門に映えて、春の気配が感じられました。
鮮やかな紅の梅は、華やかで可憐な風情でした。
門の前からは南大門が見えます。
南大門は豊臣秀吉が文禄4年(1595)に造立した「大仏殿方広寺」(現・国立博物館一帯)の南門と伝えられています。
後白河法王の院御所・法住寺殿跡地にあるゆかりの法住寺は、現在は敷地もせまく
かっての法住寺殿の面影はありませんが、法王の妻の建春門院が梅を愛したため、
法住寺殿には多くの木々が植えられていたということです。
今も境内には紅白の枝垂れ梅など20~30本あり、一部は今が満開でした。
一本の梅に、薄紅色と白の梅が咲く、「思案梅」と名づけられている梅は、
まだ蕾でしたが、中国風の門脇の、深紅の梅は白い竜宮風の門に映えて、
春の気配が感じられ、鮮やかな紅の梅は、華やかで可憐な風情でした。
法住寺の前は、三十三間堂です。
かっての法住寺は、平安時代中期に藤原為光によって創設された天台宗の寺。
法住寺は、大きな寺領を持っていました。
後白河法皇が御所の法住寺殿を作ると共に、自分の死後を守る墓を、
法住寺の敷地内に作りました。
墓に対峙するように、蓮華王院(三十三間堂)を、御所を守る新日吉神宮・熊野神社を
移し、政務をする政庁までもを含んでいた。
後白河法皇は法住寺殿で院政を司りましたが、木曽義仲の焼き討ちで焼失しました。
年月を経て法住寺殿はその名前や所管を変えましたが、法住寺にちなみ、
その名を残すために現在ある「法住寺」が造られたとのことです。
三十三間堂境内にある法住寺殿の説明文
法住寺門
門脇の白梅
境内
門を入った中にある枝垂れ梅
薄紅色です
一本の梅に、薄紅色と白の梅が咲く、「思索梅」と名づけられている梅は、
まだ蕾でした。
「思案梅」の満開の状態の梅は、ネットからの写真
旧御陵正門
中国風の門脇の、深紅の梅は白い竜宮風の門に映えて、春の気配が感じられました。
鮮やかな紅の梅は、華やかで可憐な風情でした。
門の前からは南大門が見えます。
南大門は豊臣秀吉が文禄4年(1595)に造立した「大仏殿方広寺」(現・国立博物館一帯)の南門と伝えられています。
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