実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信三十二号

2011-05-30 17:02:58 | 子ども/学校
 台風二号が通過した。まだ東北・いわきは荒れています。二号機・三号機の水位がまた上がったという。そして、海岸沿いでの浸水。
 今日は様子見で、いわきへの出発は明日としました。今でれば、常磐高速の日立のあたりで間違いなく、愛車とともに吹っ飛ばされることうけあいです。
 「放牧」されている牛たちはこんな中でどうしていることでしょう。


『明治大正史』・『テストの花道』

 柳田国男の『明治大正史』、触発される。
 第二章の「食物の個人自由」を読むと、米に関するくだりが、実に示唆に富んでいる。明治になって食の大きな変化は「温かいものが多くなった」「柔らかいものを好むようになった」「甘くなってきた」の三つである、という。明治からそうなのか、と思わず背筋を伸ばす。
 「強飯」(おこわ)という言い方は足利期に出てきたらしい。つまり、その表記が示すように、その時にはすでに「強」くない(固くない)「飯」の固さがあった、だからあえて「強飯」と言ったようだ。どうもそれ以前は「強飯」という言い方が不要なほど固い飯を、人々は食べていたようだ。口の中でどうしようもなく米がハラハラとばらけてしまうので、仕方なく唾液と混ぜ合わせながら食べるのが(それこそ澱粉状にして)、主流だったらしい。それが今のような固さ(つまり、そんな時代から見ればグチャグチャ状)になったのは明治になってからだという。
 しゃもじの形状の変化も、その米の固さに対応したものであるという。飯が強飯のようだと(昔の「強飯」で、今のお餅のようなものではない)それがポロポロとこぼれてしまうので、同じく「粥」状のものでもそうなる故に、昔のしゃもじはおたまのように充分中をへこませたものだったらしい。確かに資料館でも黒沢明の時代劇などでも、そんなものであった。それが、今のようなあたかも糊状の飯ではその必要はなく、平たい板で用をなすようになった。
 飯を糊状にするには、米を削りすぎるくらいに削って可能だったが、台所・食卓で白い陶器に白く輝く米は、人々の生活上の「奢り」「贅沢」の極みとして、ある理想・目標をなしたらしい。人々は臼の中で米を熱心に叩くようになった。この精米度をあげることに警鐘は鳴らされていた。日本の兵隊が脚気になり、外国の兵隊さんがそうならないのは、米飯と麦食(パン)の違いだとよく言われるが、それは違う。ヨーロッパでも米は食べる。しかし、パエリアにしてもリゾットにしても、米は洗わずに調理される。日本人は精米した上にそれを洗うのだ。ビタミンの摂取の違いは顕著だったと思われる。
 「食料危機」に際し、人々は他の穀類の利用法・栽培に目を向けたり、みそうず(猫まんまのこと)・雑炊・五目ご飯などに解決法を見いだそうとした時期もあったらしいが、外米の雪崩をうつがごとくの登場(いずれも明治期の話)で、それは忘れられたという。「行き止まりの理想」である米が、さらに贅を尽くそうとした時に「さらに白く」と人々が思ったのは、成り行きだったという。

 「給食まだ戻らず」(5月26日読売新聞)の記事が三面を埋めていた。パンと牛乳・冷凍パインの給食は中二の生徒に三分とかからず「完食」される。もちろん腹一杯ではない。給食センターが被災し、通常の給食が出来ないのだ。保護者からおかずやおにぎりを持たせたいという声もあるが、避難先からの通学や避難所から通学している生徒もおり、持参出来ない生徒もいるとして見送られている、という。
 このあと記事は、必要カロリーや栄養不足の不安を書いて結んでいる。
 そういえば、四月上旬のいわきも、私たちが海岸ぞいの壊れた集落から作業を終え、帰路につく頃に児童・生徒を見かけなかったのが、五月に入ってその姿を見るようになっている。簡単な給食が始まっていたのだ。
 新聞の写真を見ると、7~8人のグループに組んだ机で、先に紹介されていた内容の給食を食している。いつもはあるはずのお盆もなく、ビニール袋に入ったパンにジャムの袋を切って直接パンに塗っている。牛乳はパック入りのものだ。ふだん当たり前のように使っていたナイフやスプーン、それでジャムをパンにつけ、パンも焼かれたものがそのままお盆の上に乗っていたはずだ。お盆やスプーン類はあるのだろうが、使えば洗う必要が出てくる。寒々とした机。
 いろいろなことを感じ、考えた。こんな食事でもお盆やナイフがあったら少しは気分も変るのだろうか、かえって貧相になるのだろうか。きっと話も弾まないだろう、食事=生活なのだから。みんな残さずに食べるのかな。など。

 「テストの花道」で東日本の取材をした、子どもたちがみんなで考えた、ので見てほしい、と連絡をいただいた。三陸でボランティアをした中・高校生、スタジオの大学生が話しているのを聞いて、いろいろなことを感じ、考えた。「自分はめぐまれている」「悩みを聞いてあげたい」「勉強の遅れを取り戻す方法を教えたい」等々。
 項目の違いは様々だが、きっと私(たち)も現地で同じような思いと感じを持った。まず「悩みを聞いて『あげたい』」なる言い方だが、この子なりの「何か出来ることはありませんか」なのだと思う。被災地に行く時、物見遊山的な気持ちがないのかどうか、「怖いもの見たさ」と言えるような心がないか、そんな問いかけをせずに被災地に行けた人はきっと少ない。実際、いわき市の街うちに暮らす人なのに「なんか(見に行くの)悪くてねぇ」と言い、私に「どうなってます?」と聞く人さえいるのだ。最近慣れて来ちゃったかなと自戒し、最初に瓦礫で埋まった家の玄関(と言っても原型を留めてないが)に「失礼します」と言って上がった記憶を大事にしたいと思っている私だ。
 「自分はめぐまれている」「勉強の遅れを取り戻す方法」で思う。そして、新聞の給食。そして『明治大正期』。明治の人々ばかりでなく、私たちは「奢り」の上にまた「贅」を重ねてきた。柳田国男はこのあと、人々が白い米の「奢り」の延長に鮨が来るのは仕方がないこととし(正確には違う書き方だ)、「温かさ」の「贅」として「鍋」が登場、とする。その中で人々は数々のものを手放すのだ。柳田の場合「それがいけない」とは言わない。「味気なくなった」という程度の評価であるように思う。
 私たちは今回の震災で様々な影響を受けた。直接被災した方々は、私たちにそんな表現を許さないほどの壊滅的打撃を受けた。そこで問われていることは、繰り返すが「前進する」ことではない。私が給食で思い出すのは、吐き捨てるように生徒が「まずい!」と言って魚や野菜を突き返そうとするシーンであり、給食の時間にコンビニに走り行って弁当を買い、部室の裏でそれを食べる生徒のシーンである。間違って受け取られるのは間違いないので断るが、「給食のありがたさ」や「自由の取り違え」を説教しようというのではない。「オマエたちは恵まれているんだぞ!」と怒鳴るバカをすることではない。
 今は「二度目の戦後」だという。一度目の戦後で、バカな連中は「戦争は終わったんだ。日本は平和になったんだ」と言い、昨日まで「天皇陛下万歳・鬼畜英米」言っていたというのに、その手のひらを返すようにした。しかし、真面目な人々の中で「戦後」はなかなか訪れなかった。
 さて同じく、この「二度目の戦後」で、私たちはきっと多くのものを抱え込んでしまっている。そのことを解決、とは行かない、しっかりとつかんで放さずにいないといけない。つまり、自分たちが望んで、そのようにしてきた「贅」とは「奢り」だったのか。今は「勉強も手につかない」状態は、「肯定した」方がいいのか「否定して、『効率よく遅れを取り戻し』た」方がいいのか、私たちには問われている。


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2 コメント

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自問 (義傷覚)
2013-07-06 11:55:59
ご苦労様です。
我々が、戦って死んでくる事が、将来の日本の、
大発展になる。靖国で会おう。
やって見せて、言って聞かせてさせてみて、
誉めてやらねば人は動かじ。
戦争を知らない私たちが、あたかも、自分の言葉のようにして会社の営業成績を上げるために、
使われている指導教育の一つ。
戦後の日本人がこうして、大発展してきたのに、
それを、わたくたちが今やって何が悪い!
訪問販売会社の大義名分
何と戦って、私たちは今、(被災地)こうした犠牲
を被っているのか。
海外から、次々とやって来る、娯楽、文化、文明、
戦後の我々がそれらを受け入れる為に、広めるために、遊ぶ為に、それが、幸せなんだと思い込むために、発展させ、開発させ、豊かになった。
すべては、未来からお借りした巨額な借金、そして
被災地という甚大な代償。
本当の幸福とは、いったい何だったのか?
何で、戦争が起こったのか、自分の胸に良く手を当てて聞いてみたい者です。
欲望を受け入れる為に?快楽を受け入れる為に?
不安を解消するために?
日々、自分に
問うて行きます。
返信する
廃棄燃料 (義傷覚)
2013-07-06 12:21:25
追伸
そうして、受け入れることによって、発展させた
結果に産み出された 処理できないゴミ問題が、
宇宙開発計画に入っていないことを切に願います。
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