ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 薄と鶉ー1

2011-01-15 08:21:04 | 日本文化・文学・歴史
  新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事
                                 大伴家持

 まっさらな年の初めを白い雪で清められた気分でスタートさせるお正月。
われわれ日本人が万葉の昔から抱きつづけてきた心情は今も健在のようで、どの家も街路までも一年中で最も美しく調えられ元旦の朝を迎える風習はすがすがしいものですね。

私のブログも新年を迎えリニューアルしました。これまでの壁紙の秋の風情は気に入っていたのですが、gooブログの新メニューから春らしい「菜の花」にし、テーマも藤原定家の「詠花鳥和歌各十二ヶ月」中の九月の組み合わせ「薄と鶉(うづら)」としました。がその前に、最近テレビを見ていて面白いことに気が付きましたのでその話題からスタートします。

 前回のテーマ「女郎花と鵲」で鵲である「昔脱解」を投影させたと思われる人物の「武内宿禰」が福岡県久留米市にある高良大社や各地にある高良神社の祭神として祀られていましたが、その神名の「玉垂命(たまたれのみこと)」と名づけられた訳が見えてきました。
NHK・BS2で日曜日の夜9時から朝鮮王朝ドラマ「イ・サン」が放送されていますが、1月9日の内容は王であるイ・サンが幼い息子を世子(セジャ・皇太子)に決める儀式が執り行われました。その時に王も世子も特別な冠をつけていました。その冠は頭上が平でいわば本を頭に載せているように見え、その前方と後方からすだれの如く玉が垂れさがっていたのです。「オー!この姿こそ玉垂れ」とひらめきました。

調べてみると、この冠は「冕冠(べんかん)」と称し、天皇または皇太子が大礼の時につける冠で、古くは中国の皇帝が着用し、朝鮮や日本でも着用された王冠でした。
中国の三国時代、呉の孫権や魏の皇帝・曹丕や蜀漢の建国者・劉備玄徳などの絵姿に見ることができますし、日本では後醍醐天皇像や女帝である持統天皇が冕冠を着用した絵や宮内庁御物として19世紀の孝明天皇着用の冕冠があります。いくつかの画像をご覧ください。



 
とすると、武内宿禰も冕冠を着用した可能性がありそうです。前のブログで私は応神天皇と武内宿禰の子供が同日に生まれ、その産屋に飛び込んできたサザキとズクの名前を交換して命名したという『日本書紀』の説話から、名のみか赤子まですり替えられた可能性を言い、武内宿禰の子供が仁徳天皇となり新王朝をひらいたと推量しましたが、「玉垂命」という神名からその可能性が高くなったと感じています。

 さて、ひと月半ほどブログの更新を休んでいましたが、多分新しく訪問して下さった方もおられたようなので、新テーマに入る前に少しこれまでの経過を紹介いたします。

 定家の「詠花鳥和歌各12ヶ月」は詞書によると、後仁和寺宮(道助法親王・後鳥羽院の第二皇子)が「古くから絵に描かれている月並の花鳥を古歌で揃えられないならば、その取り合わせの和歌を新たに作るように」と依頼され詠んだものであり、歌の内容よりその取り合わせが重要視されていると思われます。

そもそもこの花鳥の取り合わせは、『万葉集』の山上憶良詠「秋の七草」の第一の暗号歌に源があり、日本のルーツに関わった国または民族名を伝えようと仕組まれたものである。
和歌の分野で次の暗号は『古今和歌集』の仮名序や古今伝授の秘伝「三木三鳥」。
次の暗号が『新古今和歌集』の選者・藤原定家による『拾遺愚草』中の「詠花鳥和歌各十二ヶ月」の花鳥の取り合わせと思われます。これらがその時代の歌人らの最高峯によって仕組まれ、伝えられたことは、事の重大さを認識していた証でしょう。

 「薄と鶉」の取り合わせの薄は同じ草ながら、尾花・茅・萱・芒と異なる表記があり、第一、第二の暗号解読の結果から<尾花=茅→伽耶>を導きだすものと推量しています。しかし、これまで登場した鳥は古今伝授「三木三鳥」の三鳥として<ももちどり=うぐいす><呼子鳥=鵲><稲負鳥(いなおうせどり)=白鳥(しろとり)>と解きましたが鶉(うづら)は登場していません。藤原定家は何故「尾花」を「薄」とし「鶉」を組み合わせたのか?その理由を考えてみたいと思います。


 
  

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