こんにちは。久々の登場となります、真田小僧改め時次郎です。
さて昨日、
今年度の1回目のゼミナールが終わりました。新入生を加えての本ゼミは昨日が最初ということで、岡田先生からレジメの内容あるいは形式に対する様々なご指導を頂きました。私、時次郎としても岡田ゼミ2年目となる訳ですが、改めて自分の至らなかったところに気づき、今後のゼミ、サブゼミにも活かしていかなければならないと再認識している次第です。
岡田先生ありがとうございました。
さて、昨日ゼミが終わり有志で飲んだあと(再来週、ゼミ飲みをやるようすが…)、終電を逃して帰れなくなった私は、
「市川が生んだ神童」ことkasさんと共に
台東区谷中のデ○ーズで夜通し語り合い、昼前にようやく休日営業よろしく専修大学に帰って参りました。昼過ぎから、履修登録の学生ひしめくパソコン室で、「マ○ナビ」やら「リク○ビ」を確認する傍ら過去のデーターの整理をしていると、かつて岡田先生が基礎文受講者に向けて書かれた文章を発掘しました!
岡田先生も先日、ご自身のブログに
「批判するとはどういうことか」というテーマで書かれておられました。(そちらは皆さんすでにご覧になったとは思いますが・・・)
が、今日発掘したものは、その前提としての学問する者の基本的態度についても詳細に書かれており、今後ゼミを行っていく上で私にも、他のゼミ生にも大変参考になると思います。
よって、かなり長いですが、以下に転記します。(情報源は「専修大学法学部・岡田(憲)の告知板」だったと思います。ただ、申し訳ありませんが、いつのものまでかは記憶にございません)
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基礎文を始めてもう三週目に入ろうとするところですが、いまだに慣れない人や、勇気の出ない人、どうしてこんなことしなければならないのかがまだわからない人、わからないけど突き進むしかねぇと開き直っている人・・・などたくさんいると思います。
以下は、基本態度のTips&Advices です。
基礎文での基本態度編
・君たちは今、「100」である。(胸を脹れ!)
曖昧とした、実はよく考えればあまり根拠のはっきりしない漠然とした気持ちとして、君たちは「理想は100だとすると、今の自分は30くらいだろうなぁ」と思っている。つまりは「ぼんやりと自信がない」あるいは「全く自信がない」といった具合だ。でも、30を100の水準まで持っていくのはまことにもって困難だ(我々学者ですら、それは不可能である。当たり前だ)。そこでうだうだしていると、自分の水準を少しでも上げるための「具体的努力のプランニング」をすることができない。そして、そのままでは今後自分の努力の根拠となる「ちっぽけなプライド」すら見出せない。何も始められず、格闘感もその後の「え?それほど捨てたもんでもないじゃん。俺って」といった気持ちにも到達できない。多くの諸君が、そうしたうだうだを引きずって四年を過ごす。我々教員は、そのことが切ない。だから言おう。目がくらむほどの若さを持つ諸君達よ。早くそこから抜け出しなさい。こっちにおいでと。
まず諸君達は、百万回でも自分に言い聞かせなければならない。
「今の自分は100である。これを102にするにはどうしたらよいのかを具体的に考えよ」と。
繰り返す。今、君達は100である(「あいつは東大だから100で、俺はそうじゃないから30だな」じゃない!)。曖昧な理想、曖昧な絶望は捨てよ(もちろん理念は熱く持つべきだ。しかし、作業は醒めたやり方でなければならない。「心は "hot" に頭は "cool" に」だ)。
・大学の授業とは何のためにあるのか?(Not Learning but Finding)
「授業の90分で勉強しよう」という、これまで12年間あまりの間に身につけてきた態度は間違っている。いや、正確に言うとそれは「言われたからやる子供モード」に属するものだ。法律上結婚すら出来る者が子供でどうする。授業の時間に勉強するのではない。授業の90分とは、「いかに自分が知的に未熟であるか」を発見する時間だ。そして、それは紙と肉体に証拠として残されなければならない。それは「わかることとわからないことを交通整理する」という作業になる。簡単に書いているが、「わかる」「わからない」は、諸君達が考えるほど単純なものではない(「わからないの種類」については、後述する)。「ノートを取る(この言葉からそろそろ解放されよう。正確には「ノートを創る」だ)」という作業は、まさにこのことを行う行為だ。ノートを見れば、「自分は何が未熟なのか」がわかる。そうしたノート作成が理想だ。黒板の(ミミズの酔っ払いみたいなキタナイ)文字を写すことなど、全く何の意味もない。ここから脱することが出来ないと、大学生にはなれない。申し訳ないけど、本当にそうなのだ。
・「知らないこと」そのものは、つまらない事実に過ぎない。(それより怖いこと)
ほとんどの諸君が「わからないことだらけ」なのが一年次なのだから、そして基礎文の場合には教室に20数名しかいないのだから、真面目に授業に臨めば臨むほど、未熟さをさらすことになる。だれでも「俺アホですから」などとおどけて見せるが、実のところ「アホだと思われることを死ぬほど怖がる症候群」に襲われている。未成熟さをさらすことはハズカシイ(と思い込んでいる)。
しかし、本当にハズカシイこととは、知識がないことや上手く発言できないことではなく、わからないことを「これはマズイ」と「全く思わない習慣が付いてしまっていること」なのである。しかも基礎文担当教員は全員「どんどん失敗しなさい!」と言っている。本当はこんなにオイシイ状況は人生にはたくさんはない。失敗すれば褒められるなんて。お地蔵さんのように「聞き手専門」をかこつ者は、ハズカシイ場面にあまり遭遇しないだろうが、その陰で恐ろしいほどのコストを払っている。それは「未熟な私」を肉体に刻み付けるチャンスをドブに捨てているということだ。肉体に刻み付けられない思いは瞬きするうちに忘れるものだ。自分の未熟さをハズカシサとともに心と紙に記録しなければ、自分の実現可能性の高いスタート・ラインを設定することができない。100を103にする具体的なプランが立たない(「頑張ります!」ではプランにならない)。
必要なのは、声に出して、ノートに書いてハズカシサを記録することである。そして、そのハズカシサをその後どう生かすかは、次週の90分ではなく、次週までの6日間にかかっている。勉強とは、この6日間に行われると考えるのが大学というところである。授業をコナすな。授業で自分を発見せよ(「やることがないからといってケータイいじくりまわしてんじゃねぇよ!」という「政治学の基礎」の講義のときに挑発した意味は、ここにあるというわけ)。
・声帯を震わせなければならない(言わなきゃわからない)
したがって、基礎文に参加するということは、声帯を振動させることと「ほぼ」同義である。それが嫌なら、大教室で一方通行の講義を聞くだけでよい。つまり、しゃべらなければ「何も始まらない」ということである。懇意ではない多くの人々の前で声帯を振動させることは、諸君達が考えるほど恥ずかしいことではない。「私はここにいる」ということを最も端的に証明するための重要な行為である。存在を確認できない人からは、人は何も得ようとしないし、刺激も与えてくれない。だから、黙っているため「何を考えているのかわからない人」と判断されることが、知的コミュニティーでは一番もったいないことである(日本の一般社会では「沈黙は金」とされがちだが、学問をする人間は全員国境を越えなければならない。国境を越えない学問とは「形容矛盾」である。「日本人のためだけの学問」などというものは抱腹絶倒なものだ)。以心伝心は、日本人の心の特技ではなく、他者への本当の関心などあまりないくせに、傷つくことを過度なまでに恐れる精神の怠惰と脆弱を意味する。人間は臆病で弱い。恐怖に負ける。それはわかる。筆者も連戦連敗ばかりだ。しかし、相撲で言えば0勝15敗ではあまりに切ない。1勝すれば、後はそれの積み重ねだ。よく基礎文の最中「まだ考えがまとまってないのでぇ・・・」と発言を回避する者がいるが、支離滅裂になることだけを避けて、あとは「しゃべり始めてから考え始める」という作戦だってあるのだ。こういう禁じ手は会社の会議では歓迎されないが、そうやって突破口を開こうとするアンビションに支えられてのことであるなら、基礎文では許される(ただし短めに)。諸君達には失うものはない。合言葉は勇気である。
・投げられたボール(言霊)は返してやらなければならない。
基礎文では、誰かが発言をしたら、空気中に漂う他者の言葉を流すことなく思いやりをかけてみるべきだ。放りっぱなしはかわいそうである(自分がコメントを返すべき意味を少しでも発見した場合は)。つまり、できるだけボールを投げ返してやるべきである。自分に積極的な主張がない場合でも、「それはどういうことですか?」と質問をする、「それはもしかして~ということを言いたいのですか?」と確認する、「○○さんの言いたいことは~ではないでしょうか」とフォローする等、発言するとっかかりは無限に存在する。何も常に「私は~だと思います」という発言でなくてもよいのである。なぜならば、勇気をもって発言した時、その勇気は同じように萎縮している他者に伝わり、他者の勇気を引き出させることが多いからだ。言葉は言葉を "inspire"するのである。発言とは他者の発言を引き出すためにあると考えると楽になる。言葉と言葉が交錯し、重なり、化学変化をもたらし、何かのヒントを運んできてくれ、そして全く逆に「沈黙の本当の意味」すらも教えてくれることがある。最悪なのは、基礎文担当教員が、ひたすら「講義」して90分が終わることだ。こうならないために、我々教員はありとあらゆる努力をしているのだ(たまに夢に出てくるんだな。これが。一切学生が沈黙する基礎文。真の地獄だ)。
・恐怖に打ち勝つのは大変だが、全敗してはいけない(転んでも只で起きるな)
他者(自分と同じように恐怖に萎縮している人)の前で声帯を震わせる恐怖に打ち勝つのは大変だ。最初からこの恐怖を克服している者は少数だ。しかし、負け方にもいろいろある。まずは全敗を避けるべきだ。この際必要なのは、自分の萎縮や恐怖とは「どのような萎縮や恐怖なのか」を各人がはっきりとさせることである。もしその萎縮が「愚か者と思われるのではないか」という恐怖が原因であるなら、次に「どの愚かしさ」を自分は気にしているのかを、そっと自分の胸に訊いてみる。なぜならば愚かしいという意味は複数あるからである。「知識がない≠愚かしい」と自分に言い聞かせよう。知識量とは相対的なものであって、知識を持つという価値は、星の数ほどのある世界の価値の一部である。つまり、そのことを理由に人間の人格は一切の評価を受けない。本当に愚かしいのは、何度も言うが「愚かしさの程度と種類を丁寧に考えて、辛いことだがそれを淡々と認め、かつそれをチャンスとして捉え返す勇気と真摯な態度をバカにする態度」なのだ。
・多種類の「わからない」の確定(入り口を探す)
「わからない」なら「尋ねてみる」という習慣をつくるべきだ(呼吸をするように)。しかし、安易に「わかりません」と言うべきではない。「わかりません」にも複数の意味があることを知ろう。どのように「わからない」のかを知ることが「わかる」ことの始まりである。脱「チィチィパッパ」のために。
<「わからない」の種類>・・・非常に重要!
①何で自分がここにいるのかがわからない(基礎文というものが何のためにあるのかがわからない。興味がない)→履修を継続するかどうかをもう一度考えよう。
②質問や議論の意味がわからない(質問を日本語として理解できない)。
③質問や議論に出て来る前提知識がわからない(知識がなくてわからない)。
④質問や議論において、どうしてそういう理解になるのかがわからない(その論理がわからない)。
⑤質問の意味も、論理もわかるが、どうしてこのコンテクストで「そんなこと言うのか」がわからない(発言の目的がわからない)。
⑥あまりにたくさんの発言内容であるため整理がつかなくてわからない(どれがポイントなのかがわからない)。
⑦行われている議論の意味も、論理も、目的も、ポイントもすべてわかるが、それを受けて自分がそれにどのような評価を下すべきなのかが定まらない(態度設定がわからない→つまり評価とその根拠をまだ上手くまとめられない)。
中学生や高校生の時は、「わかりません」というと先生が「答は○○ですね」と教えてくれたが、大学は別世界である。なぜならば我々政治学者ですら、答えが一つに定まらないことばかりだからだ(「政治って何なんですかぁ?」と尋ねられた時の政治学者の気持ちを想像してくれ!)。基礎文担当者全員、テキストについての判断が全く同じということはありえない(だから本当は教員二人でペアになって基礎文をやりたいのだよ)。答えが一つだけなら、我々は学者になる基本的動機を失ってしまう。
そうした基本の考えの上でこの仕事についているから、上記の「わからない」のどれなのかを自分なりに確定せずに「わかりません」と言う者にはあまり有益なものを与えられない。我々教員の立場からすれば、なにかと「わかんないっす」と大雑把なことを平気で言える学生諸君のその「大雑把さ加減」が「わからない」ということになる(「どうして、どの『わからない』なのかを一切詰めることなく、屈託なく「わからない」と言えるのか?ここはチィチィパッパのめだかの学校じゃないのに!そんな大雑把じゃ、こちらも大雑把なことしか返せないのに。払った学費が無駄になるのに!」といったところか)。
発言や討論を通じて、誤ったり、間違ったり、知らなかったりしたことがオープンになってしまったときには、「アホだと思われるかも」ではなく、「わからないということに気がついて幸運であった」と考えよう。この世界で一番不幸なのは、「何がわからないかがわからない」状況から抜け出せないことだからだ。それこそ、ぞっとするほど恐ろしいことだ。
・最後に
「知らないまま、知ろうともしないで、知ることの豊穣な幸福感も知らずに墓石へ」がほとんどの人間の人生である(「そんなに知ってどうするんですか?」と問うものは、今すぐ学校を辞めて、額に汗して働きなさい。本当は、「言葉を媒介に世界を知る」などという本来的に傲慢でイカガワシイ活動である学問などというものは、明日、明後日の人々の幸福に直接貢献などはしないのだ。学問は、必ず「学問を受けることが諸般の事情でできなかった星の数ほどの人々」の犠牲の上に成立しているのだよ。「だ・か・ら・こ・そ」、僕たちは「そんなに勉強して何になるんですか?」などと絶対に口にしてはならないのだよ。学校にいる限りは)。
卒業して社会へ出ると、多忙の最中、こちらから「お願いして」、「コスト(対価)を払って」、しかも幸運なことに「相手にその気があって」、こちらにも「時間がある」という奇跡のような状況が生まれないと、もう誰からも何も教えてもらえないものだ。間違えても、未熟さをさらけ出しても、給料も下がらず、閑職に追いやられたりもせず、解雇もされず、ひたすら得られるものばかりであるという「幸福なる教室」という空間にいることが許される諸君は、て落ち込んでいる場合ではない。社会に出るまで時間はもうたくさんない。
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いかがでしょうか。
ゴールデンウィークの間にこのことを
肝に銘じなおして、次回以降のゼミに臨みたいと思います。
追伸
いよいよゴールデンウィークです。そうです、落語の季節です。
「就活」という魔物が私の心に暗い影を落としていますが、もう気にしていられない!テクスト片手に、浅草演芸場に行ってこようと思います(もちろんお目当ては柳家小三冶さん)。ちなみに新宿の末広亭は「桂歌丸芸歴60周年記念興業」ということで、歌丸さん以下『笑点』メンバーも出演します。お暇なら行ってみてね