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山背大兄一家が滅亡させられた理由に関する諸説(4):若井敏明「山背大兄王 上宮王家滅亡の黒幕はだれか」

2021年10月13日 | 論文・研究書紹介
 山背大兄連載の最後は、大胆な学風で知られる若井敏明氏の、

若井敏明「山背大兄王 上宮王家滅亡の黒幕はだれか」
(『『歴史読本』第59巻4号、2014年4月)

です。若井氏は、聖徳太子について「厩戸皇子による改革の一側面」という示唆に富む論文を書いており、紹介したいと思いつつそのままになっていましので、いずれ取り上げます。

 さて、上記の若井氏の記事の題名のうち、「上宮王家滅亡の黒幕はだれか」という部分は、若井氏自身のものか編集者がつけたものかわかりませんが、そこに重点が置かれた内容ではありません。意外な新説提示と言えるのは、山背大兄を滅ぼして権勢をふるった蘇我入鹿を打倒した「黒幕」は誰かを論じた部分です。

 若井氏は、山背大兄は蘇我氏の血を引くとはいえ、異母妹(聖徳太子の娘)を妃としているのに対し、田村皇子は蘇我馬子の娘である法提郎媛を妃の一人としているため、蘇我氏としては都合が良かったであろううえ、山背大兄が即位すれば、王宮は蘇我氏の本拠地である飛鳥を離れ、斑鳩に移る可能性が高いことも、即位をさまたげた原因だったろうと説きます。
 
 そして、田村皇子が即位して舒明天皇となると、隋との外交を進めていた聖徳太子とは異なる外交政策をとるようになったとします。それどころか、『旧唐書』によれば、舒明への代替わりに際して派遣した遣唐使の帰国に同行してきた唐使の高表仁が時の王子が礼を争い、以後、倭国は唐との国交を断ってしまうことになります(『新唐書』では「高仁表」が「王」と礼を争ったとしています)。

 『隋書』倭国伝が説く倭国の外交担当者は聖徳太子だったと見る若井氏は、太子は隋にへりくだっった態度をとり、隋にならった改革を行おうとしていたと述べ、中国に毅然とした態度をとったとして評価するなら、聖徳太子ではなく、唐と礼を争ったその「王子」を第一にあげてほしいものだと説いています。これは、若井氏ならではの卓見です。

 そこで若井氏は、聖徳太子の政策を受け継ぐ山背大兄は、舒明天皇の朝廷内では疎外されていた可能性が高いとします。舒明天皇が亡くなっても、山背大兄に継がせず、舒明の后であった宝皇女が即位して皇極天皇となりますが、舒明天皇の子には古人大兄もおり、その古人大兄の娘を宝皇女が生んだ葛城皇子(中大兄皇子)が后としていることから見て、古人大兄はかなりの年長と見られるのに即位しなかったのは、何らかの事情があったのだろうと若井氏は説きます。

 可能性としてありうるのは、複数の有力候補がいて一本化できなかったための皇后が即位したという事情であり、この場合は、有力な対立候補は山背大兄ということになります。

 となれば、上宮王家の存在は、蘇我氏が主導する皇極朝における不安定要素ということになりますので、それを除くため、蘇我入鹿が軍勢を差し向け、山背大兄を自害させてしまうに至ったのだろうと若井氏は説きます。

 問題はその後です。その蘇我氏も、皇帝を頂点とする唐のような君臣秩序をめざす勢力によって打倒されてしまいますが、入鹿斬殺で始まるクーデターは、堅固な城ともなりうる飛鳥寺を占拠して武力拠点としたことによって成功します。それには、事前の打ち合わせがなされていたはずであり、飛鳥寺の寺主であった僧旻法師が知らないはずがないとします。

 僧旻は、聖徳太子によって派遣され、隋・唐で強力な皇帝による政治を見て帰国し、塾で中臣鎌足や入鹿を指導していた人物です。その入鹿が聖徳太子の子である山背大兄一家を滅ぼしたことが、僧旻をクーデターとその後の政治改革の「黒幕」たらしめたのではないか、というのが若井氏が「ひそかに考えている」ことだそうです。

 最後の部分は、根拠の弱い推測ですが、考えてみるべきこともいくつか指摘されています。この連載の最初に書いたように、山背大兄はあまり注目されず、研究も少ない人物ですので、若井氏のこの記事のように、推古朝の後半・舒明朝・皇極朝初期を山背大兄を軸として検討してみるというのは、有意義な試みと思われます。

 あと重要なのは、山背大兄を応援して滅ぼされた境部摩理勢ですね。私は、この当時の状況を「皇室←→蘇我氏」の対立と見るのは間違っており、強大になった蘇我氏内部の対立抗争の時代であって、田村皇子支援派と山背大兄支持派の争いと考えています。 
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