先日、美術館のハシゴをしてきました。
3つの美術館を一日で回ってきたのです。
まず1ヶ所は開館と同時に入館しようとお休みにも関わらず早起きして勇んででかけました。
平日の朝、もしくは金曜日の夕方閉館前に、美術館に行くというのは昔からの私のやりかたです。
少しでも閑静な空気感の中で鑑賞したいという気持ちからいつのころからかそうしています。
まずは、京都市美術館でルーヴル美術館展「日常を描くー風俗画にみるヨーロッパ絵画の真髄」を・・
朝早めだったお陰で比較的ゆっくりのんびりひとつづつ観ることができてとても良かったです。
絵画は力強くまた興味深いものも多くありました。
しかし、私にはヨーロッパの人々の日常は、全く自分の日常に重ねあわすことができず、しばしの海外旅行に行った気分でした。
さて、次に向かったのは京都国立近代美術館での展覧会
ユネスコ無形文化遺産登録記念、北大路魯山人の美「和食の天才」でした。
北大路魯山人という人の存在は知っていても、こんなに身近に感じたのは初めてでした。
魯山人は上賀茂神社の中社中の子として生まれ、没後は西賀茂に眠っています。生い立ちに恵まれず小さい頃から苦労したようです。しかし様々な出会いが魯山人の人生を類まれなるものへと導いたのでしょう・・
その作品は素晴らしかった・・・・
展示を見終えるころにはすっかり虜になり、魯山人その人となりの考え方事象の捕らえ方などをもっと知りたくなったのです。展示販売コーナーに書籍の販売がありました。ここで石田社長に「魯山人の書籍を会社で購入してもよろしいでしょうか」とメールしました。
「よろしい」と、ひとこと(笑)
・・・というのも、この魯山人の展覧会を教えてくれたのは石田社長だったのです。
(後日この書籍を振り返り会社でミーティングをしました)
魯山人の器は「洋風」ではない。ざらざらしていて独特なものがある。しかし民芸調ではない。
5つセットのものでもひとつひとつの図案が均一ではない。
小粋で遊びごころにあふれ、 また「自然」の中に存在するもの、蟹、虫、月、太陽、山、花などがたくさん描かれていました。
私には自分の日常との間に、魯山人の作品たちの存在がとても身近に感じられました。
それはやっぱり私が日本人だからルーヴルより魯山人の方が身近に感じる・・・といった単純なものではないように思うのです。
TOTO通信という雑誌の中で私の好きな建築家横内敏人氏がこう書いています。
『「和」を考えたときに、日本の場合、自然とのつながりがあるのではないかと思います。部分的に見たら「和」の要素はないけれど、全体的に見て「和」を感じる時、僕らが「和」だと思っているのは自然とのつながりではないでしょうか。それは、建物単体の素材感、内外の関係、あるいは景色の切り取り方などのこと。そこになぜ日本人が「和」を見出すかというと、何か特定の宗教を信じていなくとも、自然崇拝が無意識の中にあるからではないかと思うんです。自然の命に慈しみと美しさを感じるし、苔の生えた石を見ると「いいな」と思う、といった具合に。都市化が進んで生活スタイルが変わったとしても、日本人の根っこにはそうした感覚が残っていて、そこに働きかけるのが「和」なのではないか、とも思います。』
そうなんですよね・・魯山人の作品の中には確かにこの「和」が感じられました。
私たちのこころの中にある根っこが共感するのかもしれません。
私たちの住まいづくりにもこの「和」というキーワードが不可欠のように思います。
「和」は和様式だから和風なのではなく「和」という字の持つ意味「やわらぎ」であったり「なごみ」であったり、また「まぜあわせる」そして「たす」ということも含まれます。
石田工務店の家、暮らしをみつめる「マザーハウス」そんな思いを込めて、もっともっと進化させていきたいです。
あ、最後に向かったのは相国寺にある美術館でした。
相国寺の中は静かでこころやすらぎました。
鑑賞したのは「若冲」
特に印象が残ったのは墨絵。白と幾段階もの濃淡の黒の世界でありながら頭の中に残った印象はなんと立体的で鮮やかだったことか・・・
毎日めくるめく時が過ぎておりますが、時間を作って出向いた美術館鑑賞タイムからは、気づくことが多かったのです。
長々と書いてしまいました・・・読んでいただきありがとうございました。
がんばっていきまSHOW
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