カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

みじかくても中毒になるかも・1

2020-05-11 | なんでもランキング
 本を紹介するのは日常的にしているのだが、私淑(厳密には直接教えはお受けしてますけど)している先生に、何となくお声がかかったことは気にかかっていたし、しかし自分なりのやり方で、と考えているうちに、一定の制限をかけながら厳選して少ない数を紹介しようとしていたはずなのに、どんどん増えていってしまった。でもまあ、今のところ7日間ではなく、十数日間で済みそうなところまでまとまりを見せ始めている。だいぶ端折ってしまってもったいない気分もあるけど、まあ、どのみち仕方のないことである。数日間おつきあいくださるとありがたいことです。



 ということなんだが、まずはちょっと要望を聞くというか、いわゆる本を読まない人から、軽いものでとっかかりやすい本を紹介してくれ、と言われることがある。本を読みたいとは思っていていも、読み続けるのがつらいんだそうだ。その気持ちはみじんも理解できないが、なるほど、短編小説の類なら、傑作がたくさんある。人によっては気に食わないものがあるかもしれないが、一つくらいは食いつきがあってもいいのではないか。それでハマって読書好きになってくれると、巡り巡っていつかは、面白い本を僕に紹介してくれるかもしれない。ぜひお願いします。

 ということで最初に紹介するのは、ものすごくベタで申し訳ないが、星新一である。傑作は多いが、どれから読んでも短いので、いつの間にか数編読んでしまうのではないか。「おーいでてこーい」が教科書などで紹介されているので、すでになじみのある人も多いかもしれないが、まとめて読んでも面白いのである。
 僕は正直言って読書感想文に短い話を読んで手早く仕上げようと思って、星新一に手を出したクチである(小学生の考えだ)。しかししっかりハマって、短編に限っては当時手に入るものは全部読んだ。結局どの話を感想文に書くのか大いに悩んだのであった。当時はエヌ氏のシリーズが好きだったかもしれない。
 さて、大人になって読み返すと、意外に文学性が高いことに驚く。そうして普遍性のある話も多い。こういう作品こそ、読まれ続けるべき作品なのではなかろうか。
 あと関係は無いが、子供のころ眉村卓とか都築道夫とかも読んでいたが、本棚から見つけることができなかった。どこ行ったんだろ。



 紀田順一郎篇のアンソロジーは愛読した。写真は海外篇だが、ここではシュテファン・ツヴァイクの「目に見えないコレクション」をあげたい。ツヴァイクは歴史ものが著名だが、短編集もある。(追伸:これも見つかったのであげておきます)





 日本篇では、野呂邦暢の「本盗人」がいい。ちょっとしたミステリ作品を読むより、野呂作品に浸る方がいいのではないか。これはシリーズであるらしく、「愛についてのデッサン―佐古啓介の旅」という本の連作の一つだという。
(追伸:手に入ったので写真上げておきます)




 さらに紀田には「謎の物語」という編著もある。これもものすごく面白い。結末が分からないのに面白いとはどういうことか、ぜひ試してください。そうして読んだら、きっと人に話して聞かせたくなるだろう。

 話して聞かせたくなる話を量産しているのは、ロアルド・ダールだろう。写真の本に収録された話では無いが(Ⅰに入っている)、なんと言っても「南から来た男」は傑作だ。僕は吉行淳之介のエッセイで高校生の時に初めてこれを知り、その時から何度か買って読んでいるはずだ。けれど手元に無いのは、ひとに貸しているからだ。貸す度戻ってこないのは、手放すのが惜しくなったか、読んでいないかだろう。実に惜しいことである。(後で見つかるが、どうも二冊持っていた可能性が高い。写真上げておきます)




 さらに戻ってこない短編集に「キス・キス」がある。それに収録されている「ミセス・ビクスビーと大佐のコート」 も傑作だ。
 ダールには児童書にも傑作が多いが…、とにかくたくさんあるんで、もう勝手に読んでください。

 ミステリ作品で世界的に評判が高いのは、下記の作品群である。この中でもW・W・ジェイコブズ「猿の手」は、ものすごい傑作だ。恐ろしい話だが、ジワリ来る余韻にしびれて欲しい。


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ヒグマを叱りながら生きる人々

2020-05-10 | culture

 知床の漁師さんが、番屋といわれる漁業の拠点小屋の周辺で、魚を捕りながら生活している。しかしそこには、多くの野生のヒグマが生息している。番屋のすぐそばには、サケの遡上する川も流れている。そういう場所だからこそ定置網の漁にも適しているのだろうし、同時にそれを狙うヒグマもたくさんやってくるわけだ。お互いに生きるためにお互いのやり方でこの地で漁(狩り)をしているのだが、しかしここは世界自然遺産に指定されている土地柄でもある。大自然を世界的に保護するという活動の中にあって、人間が漁をすること、生活をすることには、様々な規制がかかっている様子だ。
 ヒグマの巣窟にあっても、漁師をしている人たちは、銃を携帯しているわけではない。丸腰でヒグマと対峙したとしても、ひるまず大声で「こらっ」と叱るだけだ。叱るときは決して目をそらさず、相手を見据えてしっかりと叱る。バカでかいヒグマであろうと、その気迫に気後れするのか、じきにその場を立ち去っていく。戦えば必ず人間の方が負けてしまうだろう勝負であるはずだが、そんなことをする動物はいるはずないのだし、やはりヒグマはひるんでしまうのかもしれない。また、この場所の歴史も語られており、親子連れなど小さいころから繰り返し叱りつけてきたということもあって、なんだか怖い人間たちであるという刷り込みや学習がなされていったということかもしれない。何しろ半世紀にもわたって繰り返し叱り続けていたらしいし、叱りのコツのようなものも人間には伝授され続けられている様子だ。
 しかしながら長きにわたって撮影されたものらしく、たいへんに不漁の年に、遡上するサケも戻らず、やせ細ったクマたちが、しつこく番屋の周辺をうろついて離れない時期があった。そうして事故には至らなかったようなのだが、一度人間の側に走り近づいてきた個体も映されていた。飢えて気の立っている状態であれば、やはり野生のヒグマであるのだから、かなり危ないことに変わりない様子だった。
 そういう中にあってユネスコの外国人視察団が、この世界遺産の状況を確認にやってくる。大きな材木などが急に海に流れ出ないように防護している川の護岸設備や、漁師たちが川にかけている橋などを、撤去出来ないかという提案(それとも命令)をしているらしい。護岸工事は撤去が決まったようだが、橋の方は、もしもの時に、人間の車での退去などに必要とされるものだから、漁師たちも安易に受け入れられない。自然遺産という環境には反するが、人命にも関わりかねない問題なのだから。
 そういう時にやはり野生のヒグマが現れ、人間たちを取り囲んでしまう。驚いた調査団だったが、クマたちは襲おうとはせずに、周辺にたたずんでいるだけだったのだ。
 人間と野生のクマが共存している場所は、ここ以外には無い。興味は持った様子だが、危ないことには変わりはない、という言葉を残して調査団の米国人責任者は帰っていった。
 結論はよく分からなかったのだが、人間とヒグマの共存という珍しい光景を面白いとは思うものの、やはり自然の中に人間がやってきて、あれこれ経済活動を行うということについては、厳しいものが残されているのかもしれなかった。そのような考え方をする西洋社会とは、相いれない問題のようにも見える。しかしこれを恣意的に理解するということになるのも、逆に人間的なエゴも見えるのではないか。放っておいても済むことなら、それは世界遺産認定ということとは、対立する考えなのではあるまいか。
 などと勝手に考えさせられたが、人間は動物であるはずだが、人間がかかわるものは人工である。要するに自然と対峙した存在であるのならば、この保護にはやはり反するかもしれない。しかしまた考えを伸ばしていくと、自然そのものを放置する措置をとろうとするのもまた人間で、それ自体がやはり人間的な考えのエゴの上に成り立っている自然観でしかない。クマの命は尊いものだが、しかしそのために人間の営みを殺すことも尊いことなのだろうか。殺す対象を選んで気にならない人間というのは、いったい何様の存在なのだろう。
 というわけで、ヒグマを叱りながら生きていく人々は、なかなか難解な存在なのでありました。
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時代がかってふざけている   ハムレット・ゴーズ・ビジネス

2020-05-09 | 映画

ハムレット・ゴーズ・ビジネス/アキ・カウリスマキ監督

 シェークスピアのハムレットを解釈しなおして、現代劇にした作品らしい。元ネタのハムレットはよく知らないので、どのように味付けされているかも、正直言って僕は知らない。しかしながら父が毒殺され、母は父を殺したその一味と結婚し、父の事業を継いだハムレットには、悪だくみに長ける集団が、彼を陥れようとする、といった一連の流れは、なんとなく原作に沿うものなんだろうな、というくらいは、分かる気がする。ハムレットには悪をたくらむ一味の娘があてがわれるが、そうしてハムレットは体だけが目的だったかもしれないが、結局その娘と恋に落ちる。はぐらかされてして苦悩するが、彼女の方もハムレットに気持ちが芽生えていき、こういう形で結ばれることに戸惑いを覚えるようになっていったようだ。そういう中で、策略に気づいたハムレットは、怒りもあって彼女を振りほどいてしまう。復讐劇が始まるわけで、最終的にはたくさん人が死んで、ハムレットも殺されて終わる。よく分からんが、サスペンスとコメディが混ざっている様子であった。
 要するに北欧のカウリスマキ作品であるということだ。あえて白黒で撮影されているが、大げさに時代がかった演出のためかもしれない。実際幽霊が出てきても、ひどく特撮めいたところが無く、トーキー時代のドイツ映画みたいである。会社の陰謀についても、よく考えてみると、そういう陰謀が果たして成功したとして、そんなに楽しいことかな、とも思う。大きな会社らしいが、結局オーナーであるハムレットが強すぎる。悪い方が困らせられて、ハムレットを邪魔に思う方が当たり前ではないか。さらに次々にハムレットから殺されてしまうわけで、可哀そうである。
 変な映画であるというのは分かるが、たぶんそういうものを期待して観ていたことは確かである。カウリスマキ作品は、そういう魅力があるからである。妙に感情を押し殺して、そうして坦々と意外な行動を起こして、面白い、というのが定番だからである。ところがこの作品は、何か感情が揺れ動いて、さらに人がたくさん死ぬ。要するに、あまり出来栄えは良くないのかな、ということであった。まあ、独特の雰囲気を楽しめないことは無いのだけれど。
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特別定額給付金の申請をやってみた

2020-05-08 | 掲示板

 特別定額給付金の申請がネットでできるということで試してみた。パソコンだとマイナンバーカードの読み取りが面倒なので、スマホでやった。マイナンバーカードと銀行のカードも準備した。マイナポータルAPってアプリもインストールするよう書いてあったので、もちろんそうした。準備完了! で、サクサクやるはずだったのだが、これがぜんぜん進まないのである。画面が何度も止まるし、再申請しなおすように何度も言われる。カード読み込みもエラーばっかりだし、何度も何度も数字を入力させられる。どうもうまくいかないので、途中でパソコンでやり方についての学習もやって、これはかなり評判が悪いことも知ったのだが、落ち着いてやれば、結果的に何とかなるというアドバイスも書いてあったので、根気よく、何度も何度もやり直した。これだけうんざりさせられながら辛抱強く付き合ったのは、要するにどのみち後で書類で申請するより、この方が結果的には早いのではないか、と考えたからである。
 そうやって最終的に暗証番号までやっとたどり着いて入力すると、番号が違うという。ムム、ちょいと嫌な予感がしたのだが、なんと、また一番最初からやり直すように指示が出る。長々とやり直すと、今度は時間が超過していると表示が出る。また長々を素早くやるよう心掛けて入力していった。もちろん相変わらず読み込みは遅いわけだが。そうして最終的に表示が出たのは、暗証番号がロックされたということだった。あとは店頭で処理するように、ということだった。
 この久しぶりの呆然とした気持ちを何と表現したらいいのだろうか。この間、映画一本くらいは見ることができたかもしれない。さらにそれ以上に喪失したこの感情を、どうしてくれるんだ! 
 平日にマイホームタウンに戻って(僕の事業所からは下の道で一時間弱)、おそらくこの事態になってマイナンバーカード申請をしたい人が増えているけれど、対応したくないだろう行政窓口に、不快な思いをさせてまで暗証番号の初期化申請をやるのは気が重たいし、さらにそうしたところで、この作業をまたやらされるということを選択したいと思うのだろうか。思うはずないじゃないか!
 ということで、郵送されてくるはずの申請書が届くのを待つことに致します。
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不幸の手紙をもらったこと

2020-05-08 | net & 社会

 子供のころ「不幸の手紙」というのが流行った。誰からか分からないが手紙が送られてきて(普通かってに自分の机の中などに入っている)、この手紙を自分の知り合いの5人(3人とか7人とかもあったようだ)に同じ内容で送るべし。7日以内に送らなければ、あなたは不幸になる。というものだ。これは一世を風靡し、漫画やアニメにもなり、何度も何度も余波が学校を襲った。先生方は沈静化のために、送り先を自分ら先生に送るように指示したり、これを最初に始めた児童生徒を割り出すために躍起になった。僕が知らないだけかもしれないが、ほとんど誰もがかかわっており、いつも終焉はあいまいだったように思われる。
 当然僕ももらったが、なるほどこれか! と思って喜んだ。誰に出すかウキウキする心もあったわけだが、しかしすでに学校では注意発令がなされた後だったように記憶する。少し前に泣き出す女の子がいて、不幸の手紙事件が発覚していたのだ。仕組みを聞いて、なんだそりゃ、と思ったが、なるほど誰が出したのかは全く分からないようだったし、後で聞くところによると、これをやめた人が襲われて意識不明の重体になっているという。それで怖くなった人が、また再開したのではないか、ということだった。いったいこういう情報通は、どこでこんな話を仕入れてくるのは不明だったが、高学年にきょうだいがいるような奴から、そういう話が出ているようなフシがあった。
 僕は友達を同じように不幸に陥れるのは面白いとは感じていたが、しかし皆がちゃんとこの手紙を送り続けてしまうと、誰が失敗して不幸になるのか分からないではないか、と思った。そうであるなら、これはまさに自分で試すべきだ。僕が送らなければ、僕に不幸が降りかかってくるわけだ。交通事故かもしれないし、病気になるのかもしれない。実はたいして信じていないからそんなことを言えるわけだが、それはそれとして、なんだか友達にも自慢できるような気がしないではない。不幸の手紙の不幸が実際に降りかかったヤツとして目立つのではないか。
 ところがである。僕が不幸の手紙をもらっていることは、自然に周りに伝わっていく話なのだ。普段あまり話をしないタイプの女の子が近づいてきて、「そのままにしておくのは、本当にまずいから、やめなさい」と忠告されるのである。他の学校に私の知り合いがいるから、その子宛てに書いてくれたら、私から渡しておいてもかまわないから。などともいわれた。不幸というのは、あなたに降りかかるということで済む問題ではなくて、みんなに迷惑をかけるかもしれない類のものだという。あなたの家族にも迷惑をかけるし、このクラス全体にもひどいことになるかもしれないのだ。
 さすがにこれは精神的に応えた。そんなことを言われてまで手紙を出さないことは、本当に僕の周りのすべての人に迷惑をかけてしまうものだろうか。それに僕がケガをするというようなことを最悪の想定としていたようなのだが、実際は給食で食中毒が出るとか、誰かが階段から落ちて複数の人にまでケガ人が及ぶとか、そいうケースも無いではない、という話もあった。おいおい、いくらなんでもどうしてそんなことが起こるんだ? とは心の奥では思っている。思っているが、だんだん怖くなってしまったのは確かだ。家にかえって兄に言うと、「うおー、不幸の手紙もらった奴はばっちいから近づくな!」などとふざけて取り合ってくれない。恐ろしい気分で蒲団をかぶってあれこれ考えながら寝付けない夜を過ごした。
 しかしまあ、子供である。いつのまにか寝てしまったし、目が覚めてみると朝日は清々しい。普段僕には話し掛けないあの子は、親が学校の先生で賢いらしいし、考えてみると僕が別に付き合っているオカルト・グループとも仲が良かったはずだ。何を考えているかはわかりようがないが、何かこの手紙の連鎖をどうしても止めたくない気分があるんだろう。せっかく皆が恐怖で盛り上がっているのに、それに水を差すような僕に、許せないものを感じているのではないか。などと冷静に考えられるようになった。まあ、しかしこれらをちゃんと話し合って説明する自信はない。
 手紙どうした? などと聞かれることもあったが、「まあ、もう少し」などとはぐらかして、外に出て遊んですごした。
 ところが教室にかえって授業になると、筆箱の中の消しゴムがなくなったり、いすに画鋲が落ちていたり、体操服の入っている袋に、マジックのインクの跡がついていたりすることが続いた。なるほど、不幸の手紙を書き終えない前から、不幸の予告は始まるものらしい。
 実はこれですっかり僕は目が覚めた。不幸の手紙はものすごく恐ろしいものと漠然と感じていたのに、ぜんぜん怖く感じなくなったのである。その前にこういう頭に来ることをする奴の方が許せないし、明確にぶんなぐってやりたい。でもまあ、とにかく面倒である。「その後、出した?」などと聞かれると、うん、済んだよ。と嘘をつくことにした。「誰に?」とも聞かれたが、「適当に」と言っておいた。本当は記憶があいまいだが、他の友人と相談して、そういう風に問答をこしらえたのだったのかもしれない。
 結局その後も嫌がらせのようなものは続いたかもしれないが、僕は手紙を出すことは無く、信じていないとは言いながら、そうしてそれなりにビクビクしながら不幸も待っていたけど、何がそれだったのかは確定することはできなかった。それなりに嫌な出来事は起こり、ウンザリしたりショックを受けたりしたが、それと不幸の手紙との関連は見いだせなかったのだ。不幸なんて、そういうものだろうけど。
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悪魔のチェーン・リアクションを切る(切らないかも)

2020-05-07 | culture

 最初に回ってきたのは幼少期の写真を揚げるというものだった。よく知る先輩から回ってきたものだったし、それ自体に嫌だという感情は無い。事情があって手元には子供のころの写真なんて一枚も無いのはどうしたものかと思うが、遊びにつきあうこと自体はいいのである。ただし…、があるだけで。リンク先など添付の資料があるわけではないので、厳密にコンピュータ・ウイルスの危険がありそう、ということではない。それはまずいいのだが、この写真を回す、または回ってきた条件が付いている。FB上にあげられた写真を見て「いいね」をした人から選択した、ということなのだった。
 SNSでもFB言論というのが荒れにくい原因に「いいね」機能があるとされる。いわゆる賛同を得る、または得られやすいものが揚げられる傾向にある。「ひどいね」というのも出てきて困ったことだと思うが(これもかなり議論はあったようだ)、基本的にUPする人の感性に、「いい」という価値観に基づいてなされる言動や写真が中心となっている可能性が高いことが、このコミュニティの平和をある程度担保しているわけだ。たまに極端な政治的信条を揚げてしまうKYな人がいるのはしょうがないが、これも頭が悪いことの代償だから、皆がスルーしているだけのことである。
 そういうこともあって、食べている写真や見えている風景などを平時はあげていることが多くて、いわゆるリア充報告ともいわれていた。そのように揶揄して言う人の心情は、上から目線に他ならないことへの無自覚があるので、こちら側からも見下して考えていいと思うが、まあ、だから基本的には平和で、さらに気持ちよく「いいね」が押せる環境であったはずなのである。
 しかしそれ自体が、たとえ遊びであってもトラップになっていることが、最大の問題だと思った。選ばれる側に落ち度があって、それは積極的に行動に出た、いわゆる善意や共感に対してなのだ。
 結果的にはいろいろ葛藤はあったにせよ、一日限定で(これも嫌な感じだ)つれあいが持っていた僕の幼少時の写真を揚げた(何しろ自分の幼少時の写真は、僕にはきょうだいがいるので、自分のものであるのかどうか、自分ではよく分からない)。もちろん、「いいね」に関して次のバトンは、誰にも渡すつもりはない。これを始めた人間に対する嫌悪はあるが、それを回した人に対しての敬意はあるからだ。
 その後回ってきたのは、読書週間というものがあるらしいということで、今度は本の表紙を揚げろというものだった。これは複数の人から来た。最初のものも義理があるような気がして、形を変えて写真を揚げて、もちろん誰にも回さない。そして回してきた人にもお詫びした。次の人からは、素直にこのようなことはできない、とお断りをした。そのように言わねばならない自分自身が嫌だし、ものすごく気持ちが荒んでしまって仕方なかった。このような苦痛のある遊びを始めた人の、人間性を激しく呪いたくなった。おそらく悪魔のような人に違いないのである。少なくとも、本に対する愛情のかけらもありはしないだろう。
 そう思っていたのだが、次の日ある友人が、やっぱり本の写真を揚げていた。そこに書いてあったのは、自分はルールを変えて、好きな時に好きなだけ(本)を紹介することと、誰につなげるかは公表しないし、つながないかもしれない。と書いていた。
 おや、っと思って、他の人のもなんとなく見ていくと、あんがい次につながなかったり、いわゆる基本ルールとうたわれていることを無視や改竄している人が、結構いるようなのだった(もちろん、基本を守っているらしい人が大半だけど)。
 僕はそこで初めて、自分の愚かさに打ちひしがれた。なんということだろう。もともと狭量だったのは自分自身だった。これを考え出した人は、ものすごく気の利いたことを始めたように勘違いしているだろうトンチキ野郎には違いなかろうが、それを自由に遊べない子供は僕だった。このようなことで人を苦しめている悪魔のような人はもっと具体的に復讐して断罪したいが、そもそも青空は広いものだったのだ。
 ということで、まあ、問題は多いにせよ。みなさんFBを楽しんでください。出来るだけ気分よく遊んでいけるといいですね。
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スマホを捨てよ、街に出よう!   スマホ依存から脳を守る

2020-05-06 | 読書

スマホ依存から脳を守る/中山秀紀著(朝日新書)

 なぜスマホに依存するんだろうか。この本は、主に依存してしまうような重篤な子供を想定しているけれど、別段依存しているのはそういう特殊な人たちだけではない。完全なる病気として限定すると、そのようにして引きこもってしまうとか、勉学がおろそかになるとかいうことが具体的になりやすい子供に注意が向くのだろうが、実際の所は、大人を含めた我々が問題ではないかと思われる。そうしてそのことに改めて気づかせてもくれる。
 依存症は病気だが、病的な症状というのは、完全に病気と診断される以前にすでに出ている場合がほとんどだ。治療といえば大げさに聞こえるかもしれないが、当然ながらこの時点で、何らかの処置ができると、早期で回復か見込まれる場合がある。環境的な要因が大きいとも考えられるので、そういうものを含めて改善する必要はあろう。要するに何度も失敗は繰り返してしまう恐れはあるものの、それが無駄というわけではないだろう。
 実は依存症治療には、かなり効果が高い治療法が存在するが、それが治療になることくらい誰だって知っているくせに、なかなかそうならない方法がある。それは他でもなく、依存しているものを絶つことである。依存している人間にとっては、それを取り上げられること自体が、考えられないくらい難しそうに思えるに違いない。そうではあるが、実はこれが単純で、かつ強力であるばかりか、他の治療法を圧倒して簡単なのだという。ただ、抵抗があってやらないだけのことなのだ。さらに他に治療をするといっても、例えばスマホなら時間制限などと比較すると、依存のあるものとのかかわりがある中での葛藤の方が大きく、たいてい上手くいかない。依存しているのだからかかわるだけでスイッチのようなものが入って、もっとやりたい欲求に火がついてしまうようなのだ。要するに失敗するために制限をやっているようなことになってしまうのだ。
 いったんそのものから離れるなり絶つなり取り上げるなりした後の退屈な時間を、依存症の人がどのように過ごすのか、ということに意味があるのかもしれない。依存しているので激しく禁断の苦しみを味わうことになるんだろうが、しかしたとえ苦しいとはいえ、別段その人がそのことで死ぬことは無い。他のことだってできるし、それが楽しいとだって思えるはずだ。ご飯も食べるし、散歩もできる。外出してディズニーランドではしゃぐことだってあるだろう。要するに、それこそが治療の意味である。スマホに依存していようと、それなしでも過ごせることは可能だということが、実感として分かるようになり、自分を取り戻せるようになるわけだ。
 幸いというかスマホはパーソナルなもので、人から借りたスマホは他人のものである。自分の好みのアプリが入っているとは限らないし、依存していた同じものではないのだろう。もちろん借りっぱなしでいいのなら、自分なりにカスタマイズできるのかもしれないが、借りにくいし借りられなくすることも、あんがい可能だろう。結局は、そこまでするのは酷だろうという甘さのようなものが、依存症の人が依存症から脱することを困難にしているということだろう。そうして社会生活を送れなくなり、引きこもりなど重篤な状態のまま大人になってしまったりするのだ。
 実は僕も依存的なところにあると思う。今書いたように、制限は難しいとは思われるが、制限方法を試している。メールはすぐに開かないし、SNSも基本的に画面から消した。めんどくさいので使用が大幅に減って、何と少し退屈を感じる。でも格段に読書量が増えている。こんな文章であっても、書いている文章量が増えているかもしれない。書く前にしらべるようなことはまだやっているけど、もともとゲームはしないし、なかなかいい感じではないか。それなりにチェックしていたネットの記事も、だいぶ読まなくなった。ニュースもかなり知らなくなったので、気分もたいへんに良い。これで友達も減るのかどうかは分からないが、分からないならそもそも問題でも無かろう。というわけで、それなりに感謝の本かもしれない。
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白黒はそんなにはっきりした違いだろうか   ブラック・クランズマン

2020-05-05 | 映画

ブラック・クランズマン/スパイク・リー監督

 コロラドスプリングスという町で初めて黒人の警官として採用されたロンだったが、他の白人警察官の多くは差別意識が濃厚で、資料係として働いている時に言葉や態度の嫌がらせが絶えない。せっかく警察に勤めながら面白くない毎日だったのだが、特技である白人の口真似ができることから白人至上主義の団体(あのクー・クラックス・クラン。要するに黒いクランズマンという名前自体が存在しえない団体)に電話で取り込み潜入捜査を始めることになる。しかしながら黒人なので実際に接して仲間に入れるわけではないので、ユダヤ人の同僚を影武者のように立てて、二人で一人の人物に成りすますのである。さらに同時進行で、黒人解放を訴える学生集団に潜伏する。対立するこの二つの団体は、内部ではより過激な主張に偏っていき、不穏な空気は次第に高まっていくのだった…。
 潜入捜査をしているという緊張感が一定以上のサスペンスになりながら、基本的には妙な連中を暴露するコメディのような要素もある。笑えるが、なかなか厳しい笑いだ。こんなことがちょっとでもバレてしまうと、相手は完全にキレることは必至で、要するに殺されるかもしれない。
 さらに黒人団体は、普段は差別的な体制側の手先である警察を嫌悪している訳だが、代表をしているアフロのカワイ子ちゃんがいるという興味もあって、心の葛藤がある。彼女は黒人指導者の講演などを聞いて、ますます過激に運動を展開させようと目論んでいるし、団体の運動自体の拡大を図っている。目立てば目立つほど、街の不穏な空気は高まっていくし、白人ばかりの警察も必ずしも自分の味方ではない。そうしてKKKのような団体は、黒人迫害のための計画と着々と進めていくのである。
 見ている視点には当然黒人側目線(もしくはマイノリティ)があるから、全体的にホラー映画的な緊張感がずっと漂っている。相手の方が感覚的にずっと変だけど、そのクレイジーぶりに同調しなければ(捜査上)生きていられない。同じように汚い口調で、自らの人種をくさしなじる。心の底から憎悪をたぎらせるように、相手をさらに喜ばせるように、過激に黒人を罵倒するのである。それ自体がブラックなコメディになっていて、妙な可笑しみがあるのも確かである。白人が黒人を差別的になじるならば嫌悪感が凄まじく湧いてくるのだが、黒人が同じ言葉で同胞をなじると、なんだか可笑しいのである。なるほど、このような罵りあいというのは、図式がしっかりしてないと、揺らぐ言葉なんだな、ということが確認できた。
 実話をもとにしながら構成されたお話ではあるが、なかなかトンマなクライマックスを迎えて素晴らしい。その後も一筋縄でいかない問題も残りはするわけだが…。
 この作品がたいへんに評価が高かったのは、このようなタブーに素直に向き合っていることと、ふざけ具合もちゃんとそれなりに計算されていることである。警察署内の人種の関係も、実際に好転していっているように見える。一緒に、ある意味で命を懸けて仕事をする仲として、やはり人種などは関係ないことなのだ。そこまで明確には語られないが、妙な黒人がいても、お互いに笑いあったり尊敬しあったりできるようになる。本当に危機は去ってしまったわけではないが、そのような道をすでにアメリカは歩んでいるのだという、そういうメッセージなのではないだろうか。
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時間を奪うSNSよさらば   時間術大全

2020-05-04 | 読書

時間術大全/ジェイク・ナップ、ジョン・ゼラツキー著(ダイヤモンド社)

 「人生が本当に変わる「87の時間技」」。とある。著者たちは、グーグルやユーチューブで働いている第一線の人たちらしい。そうして時間オタクを自認している。彼らはそれらの依存性の強いコンテンツを生み出しながら、その張本人であればこそ、時間を生み出す最大の方法を純粋に教えてくれる。それは普段使っているSNSなどのアプリを削除し、メールなど時間制限を設けて、極力見ないようにすることだと説くのである。これって自殺行為では?
 要するに時間術の最大の敵は、知らず知らずに自分の時間を奪っているものなのである。それは他ならぬSNSやアプリなどが主で、すでに生活の中に密接に絡み合っているからこそ、そのものから離れてしまわねばならない。その後できた有効な時間を確保して、集中して、時には余裕をもって自分の時間を使うことにしか、活路は見出すことはできないのだ。
 そんな簡単なことは誰だって知っているのに、いや、知っているはずだとしても、そうやって離れることの実行が、一番難しいことになっている。スマホも敵だが、テレビだってそうだ。だらだらと時間を奪っている元凶であるのであれば、いっそのこと押し入れに入れてみろ、という。そうしてそういう時間に自分が何をしたかを体験する。退屈したならそれも良し。しかし、その時間にそれまでやれなかったことが本当にできなかったのか? ということを問うている。
 こういう荒療治をデトックスといって、あえて電波の来ない山にこもったり、スマホ厳禁の外遊び(釣りなど)を楽しむ試みがあるのは聞いたことがある。少なくしてつきあうという方法でも、悪いことではないのだけれど、真剣に治療として取り組むのであれば、絶断が一番効果が高いという。これはあらゆる依存症などにも言えることらしく、医学的見地からも有用性が認められている方法である。もともと制限の難しいものだから依存してしまうわけだから、一度完全に断った状態に置かれることが、そのものとの新たな付き合いを構築していきやすいのだという。おそらく禁断症状というか、そのようなショックを自分の中でいったん消化するなりのことを体験しない限り、自分の中に染み付いた依存体質の習慣的な要素を、抜き出したり意識したりすることができない、ということなのではあるまいか。合理的であるが、なかなかに恐ろしいことである。
 実際この話を読んで、僕自身も少なからず衝撃を受けているところである。これはキンドルで読んだのだけど、なんか読みながら今の読んでいる状態自体が、矛盾している行為であるような不安を覚える内容ではないか。僕はパソコンでキンドルを読む場合もあるが、やはりスマホのアプリでも読む。ということはアプリを消すと、この内容は知りうる情報でもなかったのだ。それでは、もう一度紙の本を買いなおすべきだろうか。まあ、それはいいが…。まずは離れている時間を多くして、自分なりに治療していかなければ。
 実はこれまでも、何度も何度もデトックスめいたことはやっていたのである。これらに時間を奪われていることは自覚していた。僕はそれなりにSNSやメールを見る時間の制限も試みてみたが、失敗を繰り返している。メールもすぐに返さないとか、そもそもすぐ見ないとか、LINEもすぐ見ないし、返事の必要なものであっても、そのまま文字で返すかどうかをまずは検討している。ちょっと複雑なものがあれば、迷わず電話する。そういうことは基本として守っている。しかしアプリの削除までは、どうしても踏み切ることができていなかった。まだまだ甘かったんだな、と反省した次第である。
 さてそういうわけで、本自体はたいして内容のある本ではないが、関連して読みたい本がいくつかできた。これらのことが実践できて、大きく時間を使えるよう、関連書籍を読みかえてして、時間構築に努めてみよう。まあ、そういうのがすでに面倒だから、実行が難しいのかもしれませんけどね。
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没入感のあるシリーズ(手塚治虫)

2020-05-03 | なんでもランキング

 没入感のことを考えているときに、やはりどうしても外せない人は、手塚治虫である。僕ら世代の子供のころに、何度も復活した巨人なのでいまさらなのだが、手塚のストーリーテラーとしての才能というのは、凄まじいものがある。映画が好きだったということもあって、展開が映画的な時もあるが、しかし漫画ははるかにその尺自体が長い。ブラック・ジャックのような読み切りで長く連載するという離れ業をやっているので分かるだろうが、短くても高い水準のお話を何本も何本も生み出しているのは、ほとんど人間ワザではない。それでいて長いものもまったくダレずに突き進んでいくスピード感がある。これほどのことをやれる人が過去にいた以上、あらゆる創作家にとっては、それだけで重圧になるのではあるまいか(要するに人間にはそういうことが可能なのだ)。
 特におすすめは「ブッダ」である。僕はこれを読みだすと、とても途中でやめるのが難しくなる。これでは生活に支障が出るので、過去に泣く泣く処分したことがあるくらいだ。人のうちに置いてあるのをうっかりパラパラめくってしまい、その後会話が成り立たなくなったこともある。まったく恐ろしい漫画である。
 手塚の大人向け長編は、みな魔力が強い。「アドルフに告ぐ」も「きりひと賛歌」もとてもいい。そして没入感が凄まじい。非常に残酷な人間模様を描いているが、それをいつの間にか喜んで読んでいる。いや、実は苦痛だが、やめられない。実写でこれをやられると、トラウマになって生きていけなくなりそうだが、手塚のそれは、一定のリアルさを保ちながら、しかし致命傷にはならないのである。やはり漫画だからできる芸当なのではなかろうか。読みながら深く考えさせられている自分がいて、まるで哲学書である。
 短いものでは「鉄の旋律」がいい。これは多くの人が褒めていて、当然である。「三つ目がとおる」や「どろろ」もいいので、もう何でもいいので読んでください。
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ボロ宿と男女の珍道中・日本ボロ宿紀行

2020-05-02 | ドラマ

 「日本ボロ宿紀行」というテレビ・ドラマ・シリーズを見た。元は書籍があるそうだが、それは知らない。過去に一曲だけヒット曲がある歌手に、マネージャー兼プロダクションの社長である若い女がついて旅をする。このマネージャーの春子がちょっと変わっていて、ボロ宿が好きなのである。もちろん、貧乏旅行なので金がないという前提もあるんだが、ちゃんとしたホテルに泊まれないことを逆手に、ひなびた、というかとっくにさびれて閉館してもおかしくないような宿に喜んで泊るのである。歌手である桜庭は、嫌々ながらも金が無いことだし、売り言葉に買い言葉で、売れ残った自分のCDを売りつくすまで、この旅をする義務を背負っているかのような気分があるようだ。それに過去の栄光だとはいえ、ひょっとすると復活できるかもしれない、という望みもあるのだろう。
 そういうことで、実際にあるらしいボロ宿を紹介するというドキュメンタリーと、この二人の珍道中のドラマが合体した物語になっている。お話自体はなんだか古びた浪花節みたいなものだが、妙にしっくりくるのも確かで、売れなくなった歌手の役をしている高橋和也が非常にはまっている感じだ。若い女社長のこなれていない感じも、確かに物語にあっている。けなげというか、一筋に桜庭の歌にかけているものがあって、しかし気が強く、ことごとく桜庭とは対立する。
 実は、退屈している母が、このおてんば娘と歌手が喧嘩しだすと途端に喜ぶのである。母は昭和一桁で、気分的には従順な妻というか女というか、そういうものを理想にしているきらいがある。しかし実際に好きなのは「赤毛のアン」のようなおてんば娘で、さらにカリオストロをはじめとする宮崎駿アニメのファンである。要するに女の子が男に反抗して乱暴な口をきくと、途端に面白がるのである。なるほど、この物語なら母が喜ぶんだな、と思って、スルスルと12話を観てしまった。もっと続いてくれたらよかったのに。
 年は多少離れているが、男女が同じ宿に泊まる(一度は同じ部屋にも泊まる)にもかかわらず、いわゆるセックスというか色っぽさはみじんもない。そういうところはちょっと不自然であるのが普通だが、桜庭も自制が効いているし(恩人の娘とか、もともと相手にしていないとか、いろいろありそうだ)、さらに恋愛に発展する期待もそんなにいだかない。それであっても話が進むのは、ボロ宿が取り持つ怪しさもあるかもしれない。よく考えると妙な話のはずなのだが、それはそれでいいのである。「孤独のグルメ」なんかがそうだけれど、物語自体はそんなに興味なくとも、食っているだけでなんだかまた観たくなるというのがある。ボロ宿には、そのような共通の魅力があるということなんだろうと思う。ググったらなんとプロデューサーなどが同じなんだそうだ。このアイディアは、なかなかの発明であるらしい。是非もっと発掘して欲しい取り合わせである。
 というわけでこれはお勧めなのである。ボロ宿に泊まりたくなるかどうかは人次第だろうが、確かにこんな宿がいまだにあるんだなあ、と感心する。そうして次のシリーズやってくれないかなと切望するものであるから、多くの人の支持が欲しいのである。是非楽しんでください。
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没入感のあるシリーズ(思い出)

2020-05-01 | なんでもランキング

 没入感のある体験を思い起こすと、僕にとってのそれは、シートン動物記だったと思う。学校の図書館にいくつかの訳で、それぞれのシートン動物記があった。はっきりと僕が幾つの年だったかの記憶はあいまいだが、本当にいくつもの違う訳で狼王ロボや熊のワーブ、銀ぎつねの伝記などを繰り返し読んだ。図書館のものを読んだ後に、本も買ってもらって読んだ記憶もあって。藤原英司という名前を記憶しているので、集英社刊のものを与えられたのだろうと思う。こどもにとっては時々退屈な描写もあるのだが、擬人化した動物たちの感情も分かるし、しっかり調査されたのであろう、ドキュメンタリー的な要素も楽しめた。今の目でこれらの作品を読んだら、まただいぶ印象が変わる可能性はあるが、ドキュメンタリーともフィクションともつかないこれらの作風に、子供心に大いに影響を受けた可能性は高いと思う。
 その後没入して読んだというのは漫画が多い。少年漫画はもちろん読んでいたはずだが、僕はどういうわけか陸奥A子や河あきらを好んで読んでいた(おそらく「りぼん」から「別マ」へ移行したのだろう)。特に河あきらの「いらかの波」は、何度も何度も読み返した記憶がある。模写してまがい物のストーリー漫画を描いたりもしていた。そのうちに興味はくらもちふさこ、岩館真理子に移っていった。この二人の作品は、もはや模写までしなかったが、ものすごく影響を受けたと思う。僕は男だったので女の子たちとこれらの作品の話をすることもできず、孤独だった。男の子たちとは、ちゃんとドカベンなどの話題で合わせていたのだ(ほんとは銭ゲバも好きだったけど、読んでいるのは少数派だった)。もちろんドカベンは好きだったからだが、特に土門のファンであり、ちょっとアンチ明訓という気分はあったかもしれない。
 しかしですね、飛ばしてしまったけど、実にたくさん漫画は読んでいるのである。友人のお兄さんに労働者階級の若者がいて(いわゆるヤンキーではあったろう)、週刊誌や月刊誌をたくさん買って家に置いていた。おそらくマンガ好きの青年だっただけなんだろうが、助かるのはこの人が(あまり姿を見たことが無いので、名前は失念した)、割合几帳面で、読んだ雑誌であってもちゃんと本棚に保管していくタイプの人だった。友人の家は子供部屋をアコーディオンカーテンで仕切っただけの作りだったので、本棚に返しさえすれば、これを連続して読むことができた。僕らの貴重なアーカイブであって、一時期は本当にこの家に通ったものだ。今考えると多少家庭に事情があったのか、友人本人がまっすぐ家に帰らないなどの問題が起こってアーカイブ通いはいつのまにか終了してしまったが、小学生の高学年の頃は月のお小遣いが1500円(要するに一日50円)だった僕にとっては、ものすごく貴重な体験だった。だから結局費用対効果の問題もあって、僕は漫画より小説の文庫本を買うことになるのだから、漫画離れの原因は、個人的な貧困にあるのではないかと今は考えている。
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