カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

脱北者の夢とは

2015-12-16 | 境界線

 脱北者を追ったドキュメンタリーを観た。
 現在はシリアからの難民問題が特にニュースになっているが、北朝鮮から逃げてくる人々は基本的に難民とは言わない。韓国と北朝鮮は事実上休戦している状態であるが、そういうことも背景にあるかもしれない。また政治的に虐げられている状態といえども、切迫した命の危険性が無い場合でも国外逃亡するということも含めて、区別しているのかもしれない。また、日本での難民受け入れの慎重さもあって(難民であれば人道的に国際ルール上は受け入れなければならないと基本的にはされている)あえて難民ニュアンスを避けている可能性もある。議論は待たれるところだが、世論的に日本は脱北者を対岸の火事的に傍観しているということは言えるかもしれない。
 北朝鮮と韓国は地続きである。また北朝鮮と中国東北部も地続きだ。日本的な地理だとイメージしにくいが、そのような国境の状態がまずはある。さらに朝鮮語というのは、当たり前だが北も南も同じ言語だ。また中国東北部には朝鮮語を話す地区もある。朝鮮の歴史から考えると当たり前かもしれないが、飛び地で言語が共有できるという背景がある。言語の壁は人間が生きていくうえでの一つの障害だが、他国に出ても、その障害の一つが無いというのは、動機の一つとは考えられる。
 脱北者の個人にはさらに複雑な事情があろうが、それでも国外逃亡にはかなりにリスクがある。見つかれば命の保証すらない。また事情によっては、北朝鮮に残された家族もどうなるかわからない。いかに自分の存在が分からないまま国内から消えることが出来るか。さらに逃亡後、いかに生きていくか。いつまでも気の抜けない日々は続くのだ。
 人道的な立場から支援している人たちもいるが、脱北をサポートすることを仕事としている人々もいる。北朝鮮のお金の価値から考えると、莫大な借金を背負って逃げてくる人もいる。個人が個人の事情だけで逃げている場合だけではなく、家族や親せきなどから支援を受けて、いわば代表として逃げている人もいるようなのだ。
 レポートでは何人かを取り上げていたが、その中の若い男性は、韓国での単純作業の労働が合わないらしく、不満が募り暴力事件を起こして警察に捕まったりしていた。また再起をかけて頑張り直すという感じではあった。
 一度中国へ逃げた後に韓国へ入国するというのが、やはり一般的という感じではあった。先の言語の問題もあるし、恐らくだが、安い外国人労働力を欲する市場が存在するらしい。習慣も近いものがあろうから、他の外国人労働者よりなじみやすいのだろう。
 しかしながら一番需要があるのは他ならぬ若い女性で、要するに夜の街で働く人が大多数であるようだった。言葉が通じる上にそのような仕事に就くことを、ある程度了解しやすいということがあるのではないか。また脱北者が集団でアパートなどを共同のねぐらにしているということもあるようで、その中でも若い女だけを集めて共同生活させるというのが、トラブルが少ないのかもしれない。共同で自炊して節約生活をしている。男のように暴力事件を起こすとか酒におぼれるとかギャンブルをするとか、まあ、そういう危険が少ないということもあるのではないか。見つかればそれなりにリスクがあるが、お互いにメリットがあるので外に情報が漏れにくい。女性というだけで商品価値があるというのは万国共通だから、若い時代に一定期間文句も言わずに働いてもらえるということに、確かな市場価値が見出されているという感じかもしれない。
 中にはそういう生活から貯金をし、勉強をして学校へ入り直し、就職し直す人もいるようだった。辛抱強く段階を経て努力するような、道筋の一つであるともいえるかもしれない。
 そのようにして韓国社会になじんでゆき、今後はどうするのかという質問を受けると、ほとんどの人はまた北朝鮮へ帰るのが夢だという。だんだんとしあわせな生活を手に入れるようになればなるほど、自分だけがしあわせになることが許されないという気持ちになっていくのだという。今はとにかく働くだけ働いて(たぶん何らかの方法で仕送りをして祖国の家族を助け)、そうしてある程度の役割を果たした後は、また祖国へ戻って家族と暮らしたいというのだった。
 最初はちょっと理解しがたい気分だったが、それはたぶん本心なのだろう。人間の社会が残酷なのは、そのような個人をとりあえず無視できるほどの、別の個人の関心問題かもしれない。もちろんこれを見た個人に何かできるわけではない。だからこそ脱北という選択をしてでも何とか生き抜こうという人がいるのであろう。
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油断して大感動のゆるい漫画   すーちゃん

2015-12-15 | 読書

すーちゃん/益田ミリ著(幻冬舎文庫)

 なんだか見くびっていた。ごめん。これが読後の素直な感想。それだけ凄いものを読んでしまったということを素直に認めざるを得ない。最初からそう思っていたわけでは無くて、最初はちょっとノレない自分がいて、なんだこの起承転結のはっきりしない展開は? という感じで不満ですらあった。しかしながらこのゆるい漫画の絵のタッチに騙されてはいけない。吹き出しがちゃんとしてない科白の配置に騙されてはいけない。何というかじわじわ来るのである。女という煩わしさと、人間のエゴと社会の成り立ちが、ちゃんとこの漫画の世界に詰まっているのだ。主人公たちは善良な、しかし既にいわゆる若い子ではなく、そして未婚だ。これはこの時期の女性としては決して絶対的な少数者ではないはずなんだが、しかし、社会的には限りなく微妙な立ち位置にある存在であるらしい。僕にも想像力はあるから、それが困難を含んだ社会的な状況であることくらいは少しくらいは分かっているはずだった。しかし「すーちゃん」を読んで改めて思ったのは、やっぱりぜんぜんちっともわかってはいなかったのだ。「すーちゃん」と「まいちゃん」という二人の同世代らしいご近所の女友達のそれぞれのエピソードが淡々とつづられているだけのお話なんだが、ときどきクスリと笑ってしまうようなちゃんとしたギャグ漫画でもあるわけだが、そういう淡々とした日常が、実はものすごくソリッドに心を引っ掻いていくことがリアルに伝わってくるのである。
 正社員が二人しかいないカフェか飲食店のようなところに勤めている(チェーン店でもあるようだ)すーちゃんは、店に時折来るマネージャーにほのかな恋心を抱いている。バイトの若い女の子たちはちょっとしたことにすぐにいじけてめんどくさい。実家の母から彼氏の有無のことしか電話では聞かれない。しかし、ご近所のまいちゃんとの緩い友達づきあいもあってか、微妙ながら傷つきながら平常心を表面上は保っている感じだ。
 一方のまいちゃんは会社勤めで、営業職に就いている。日々の接待や接客に慣れてきてはいるが、男社会の中にあって、デリカシーの無い環境の中で、やはり日々傷つきながら何とかやっている。付き合っているのは不倫の彼氏だ。既に愛は無いが、男という存在が無いと女として寂しいという思いで、なかなか別れることが出来ない。しかし、この彼氏のような男と結婚するのもまっぴらごめんなのだ。
 二人はご近所だから偶然コンビニやセルフのうどん屋などで顔を合わせる。時折互いの部屋に遊びにも行く。それぞれにいろんなものを抱えているが、立ち入って相手の問題に干渉することは無い。それはお互いに残された矜持というか、強さというか、同世代なりの共感のような、緩やかな連帯のようなものかもしれない。もちろん時折は愚痴り合いもするが、さらっと笑える程度という感じだ。
 この間合いというのが絶妙という気もした。片方は続かない日記。片方は日常ついやってしまう小さい悪事。そういう側面もさらりと紹介される。この二人に共感を抱きながら、ついつい自分のことも考えてしまう。そうだよな、いろいろ思うようにいかない毎日にあって、自分探しもよく分からないし、ピチピチするような若さは失ってしまったけれど、だからといってもう過去に戻れるわけではないし、自分を否定するつもりもない。だけど、何となくもやもやと不幸度のようなものは積もっていくような感じだし、やりきれないものは断ち切れない。
 物語はしかし、ゆるくではあるが、お互いに転機を迎える。それもごくごく日常的に。しかしそれは受動的ではなく、ちょっとした自分の能動的な行動によってなのだ。
 まったくまいりました。完璧に負けてしまった。そうしてちょっとだけ元気になるような、不思議な漫画でありました。男が読んでもたぶん感動すると思います。
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地球の誕生日はいつか

2015-12-14 | Science & nature

 地球の年齢はいくつか、という設問がある。星が生まれた時をいつととらえるかという問題はあるが、基本的に地球が今のような大きさになった時を誕生とするならば、ということになるだろう。星の誕生もいろいろあるらしいが、地球のような岩石の惑星は、チリや小惑星が何度も衝突を繰り返し、段々と大きくなったと考えられている。そうして今のような大きさになる最後らしい比較的同じ大きさくらいの惑星が衝突し、その破片が月として地球の衛星になり一回り大きくなった地球の大きさでほぼ安定したとのことだ。もちろんその後も地球の引力もあって数限りない隕石が落下してきただろうけれど、キリが無いのでその頃を一応地球の誕生と考えようということになろう。
 地球と月が出来上がる惑星同士の衝突はそれなりに激しく、一度ばらばらになりながらも互いの引力でさらに塊をつくった。衝突のエネルギーで灼熱の火の塊のような星だったようだ。そういう状態が長く続き表面の温度が下がるのにも時間がかかる。いまだに地球の内部はマントルなど灼熱世界が地下に眠っているが、冷たい宇宙空間にあって、長期間熱をためられるだけの適当な大きさであるということも言えるのかもしれない。それは人類を含む生物には幸運なことで、後にその重力で大気や水を表面にたたえるちょうど良さもあるのかもしれない。
 ところで地球の年齢を調べるときに、この最初の状態というのが少し厄介なようだ。要するにこの灼熱の環境にある痕跡が、地球表面から分かりえないのだ。その上で地球の表面はプレートテクトニクスという何枚ものプレートでおおわれていることが分かっている。核があってその周りにぶあつくマントルが覆っている。そうして表面を薄く地殻が覆っている。繰り返すがこの地殻はプレートとして表面にいわば浮いているような感じで、ぶつかり合ってマントルに埋もれこんだりする。表面にある古い痕跡は、だから今は地中内部にあって分からない。地球上に残っている古い地層などの研究も進んでいるが、そういう訳で最初の痕跡を探すことが極めて難しいのだ。
 結局地球の年齢は、地球に落ちてきた地球の誕生と同じころらしいとみられる隕石などを分析することで、割り出されている。地球上に最初の痕跡が無いのだから便宜上である。地球が生まれた頃と推測されているところから飛んできて地球に落ちてきた隕石を調べて、そうしてその隕石の状態から年代を割り出す。もちろん比較的古い地球の痕跡とも比較して、おおよそという年代を割り出す訳だ。その計算の仕方には諸説あるにせよ、そうしておおよそ45億5000万年で、誤差は±7000万年といわれている訳だ。7000万年の誤差は人間の寿命から考えるととんでもなく大きなもののように感じられるかもしれないが、そもそもの宇宙スケールの時間から考えると、かなりいい線いっている数値なんだろう。
 45億年という数値が分かる事だけでも大変に素晴らしいことだと思うが、人によっては何の意味の見いだせない時間軸かもしれない。そういう面白さに魅せられる人がいて、ちゃんと精度よく実際に調べられていく人間の歴史がある。もちろん将来的な時間としては、人間はいずれ滅びるわけで、そういう意味では本当に意味は消えてなくなるだろう。今生きている人間はそういうことも感じながら一瞬を生きていくより無いのであろう。
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ウジウジしててもイライラしない  ソラニン

2015-12-13 | 読書

ソラニン/浅野いにお著(小学館)

 芽衣子と種田を軸とした、大学生から社会人に移行する時期の若者の心の葛藤を描いた漫画。種田とビリー(山田)と加藤は、学生時代から組んでいるバンドの仲間である。加藤は留年して6年生だが、ビリーは家業の薬局を継ごうとしている。恐らくこのバンドのフロントマンである種田は、就職でなくバイトをしながら、プロデビューを特に夢見ているが、先に就職した芽衣子のアパートに居候している。しかしながら芽衣子が職場の人間関係に嫌気がさして辞職すると(これは種田が後押しするのだが)、貯金を切り崩していく不安定な生活へ一気に流れていき、微妙な焦燥感があふれていく日常になっていく。あくまであっけらかんとした空気もありながら、着実に若いながらの焦りの中で、それぞれがもがきながら何とか将来の道を見つけようとしている。それは、自分たちが一番好きで打ち込んできたバンドをやるということに素直に収斂すればいいのかもしれないが、現実にはこれは組織的な興業である。それなりに結果が見えそうなところに行くが、結局は大人の都合に呑まれるかの選択を迫られることになってしまう。その場では皆の(特に恋人の種田の)心情を思って、彼女の芽衣子がこの誘いを断ることで、別の次元に進まざるを得なくなっていくのだが…。
 いまどきというか、これはたぶんこの年代の若者が、誰しも少なからず遭遇する社会との折り合いをつける葛藤物語である。既に子供ではないが、しかし完全に大人になり切れていない、まだ脱皮途中の皮がはがれきっていない時期の、人間の焦燥感が見事に描かれている。実のところ忘れてしまった感覚がたくさんあるのだが、その青春の断片を、苦いものにちゃんと向き合いながら、それでいてギャグもちゃんと活き活きしていて、楽しく(?)読める。読んでいるときも読後感も、それなりに重いものがありながら、しかしどこか爽やかさがある。取り返しのつかない悲しさがありながら、それでもちゃんと希望も感じる。僕らの時代の赤い夕陽に向かって走っていくような単純さはひとかけらもない世界観であるが、複雑さを描きながらこじれたままではないのである。これを見事といわずして何と言えばいいのか。そうしてこれは、まぎれもなく青春なんである。悲しく切なく美しい。ストレートなら照れてしまって誰も見向きもしたくないものが、これはじわじわ物語を追うしかないのである。ドラマにもなったらしいが、さもありなん。多くの人が読めば共感する佳作ではないだろうか。
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流行作家は寡作でいいのか

2015-12-12 | 雑記

 小谷野敦の「このミステリーがひどい!(飛鳥新社)」を読んでいたら東野圭吾の批評をしていて、まあ、全体的にはなぜここまで人気作家なのか分からないという話なのだが、その東野圭吾が寡作で単著が88点しかない、と書いていた。デビューから30年で年に2、3作しか発表しない所為だという。それにしても90点近くも単著があって寡作といわれるのはどうなのかと思ったのだが、他の人気作家なら同期間にもっと書くものだということだ。同じく紹介があって、デビュー30年だと、西村京太郎なら200点、赤川次郎は500点に達しているそうだ。凄いですね。
 推理作家ではないが、僕が子供の頃に本屋の文庫本の棚のところに行くと、一番たくさん置いてあった本は片岡義男だったのではなかろうか。あと森村桂(かつら。僕は当時はケイだと思っていた)とか。それにしてもこの二人の当時の勢いは凄かったのに、今はぱったりと見なくなったものだ。ともあれ完全ではなかろうが、片岡義男をWikiってみると、小説が113点、エッセイが44点、評論が10点、写真集12点、翻訳が34点、さらにテディ片岡名義が7点、合計220点あったらしい。なんとなく比較になっているのか分からない結果になってしまったが、たくさんだけど小説だけ考えると、東野圭吾がそんなに少ないとはやっぱり思えない。
 さらにやはり流行作家の売れている感覚というのがあって、東野は相当の金額を売っているという感じがするが、今は個人情報なのか何なのか知らないが、そこのあたりがよく分からない。まあ年収だと2、30億くらいだという話もあるが、これも多いのか少ないのかよく分からない。まあ、多いといえばそうだけど、これだけ売れたのなら当然という感じかもしれない。そうでなければ作家を目指すような奇特な人というのが育たないのではないか。また、本が売れるというだけでなくて、映画化権のような収入もあるだろう。
 余談だが、漫画家などはこの映画化権が少ないという話があって、小説家よりも可哀そうな感じがする。1枚当たりにかかる時間やアシスタントを雇うなどの経費なども鑑みると、漫画家の方が技術もリスクも大きいように思われる。小説家にだってそれなりに大変なこと(取材や資料代など。司馬遼太郎などは年に億単位で本を買っていたらしい)はあるだろうが、中にはスマホで移動中に原稿を書いている(又吉直樹は本当にそんな風に書いているらしい)ような作家もいるという。結局は売れる売れないの商売なので、小説が素晴らしいというだけでは話題性が無いので、美人だとか有名だとか、逆にひどく貧乏な出身だとか、犯罪者であるとかのキャラクターが小説を書かなければならないということになるだろう。実際にそういうケースがそれなりに散見されるわけで、筆一本で人気作家になれるというのは、レアな上にさらに少数派という存在になりつつあるのではないだろうか。
 もっともやはり量産できる才能というのがさらについてなければならない訳で、いくら金持ちになろうとも、本当に割に合う商売なのかはかなり疑わしいと思われるのだった。
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理屈としてはあり得ない訳ではない近未来   21世紀青年

2015-12-11 | 映画

21世紀青年/マイク・ジャッジ監督

 冷凍睡眠の実験台として軍の図書館に勤める天涯孤独なジョーという男と、何故か売春婦のリタの二人が選ばれて、一年間の予定で冷凍される。ところがこの実験指導する担当の人間が不祥事に巻き込まれ、冷凍実験自体が世間から忘れられる。そのまま500年の歳月が流れた。
 背景としては、高学歴で高収入などいわゆる賢い人間は、晩婚化がどんどん進む。そうして当然そのような血を持つ子孫がどんどん減る。何しろもう子供が生まれない。一方で貧乏人の子だくさんというか、バカで足りないような人間は後先考えずにどんどん子供を増やす。そういう人間同士がまた一緒になって子供が増える反面、賢い者同士はパートナーさえ見つけられないから、賢い遺伝子は絶滅する。そういう理屈で500年後の世界が形成されているということになっている。
 要するに人類(本来はアメリカ人だけだと思うけど)は馬鹿だけの世界になっている訳で、冷凍から目覚めた過去からの人間であるジョーとリサは、この世界ではとんでもない天才になっているのである。しかしながら普通にしゃべっているとカマっぽいと馬鹿にされて警察に追われたり、裁判にかけられたりするわけだが、結局天才なので大統領の目に留まり内務大臣に任命され、国の食糧危機などを解決するように命じられる。この世では天才かもしれないが、いわゆる普通の人間がどのようにしてこの危機を脱することが出来るのか、という物語。
 荒唐無稽の悪い冗談で下品極まりないコメディなんだが、最初からバカしかいない世界だと普通のバカではとても理解しがたい軌道の逸し方になってしまっている。そこのところが下品だが安心して笑えるということになるのかもしれない。食糧危機を打開するというか、問題の原因を見つけることが出来たにもかかわらず、その理屈をそもそもその世界の人間は理解できない。しかし限られた時間しかない中で、まさに翻弄されながらもやるしかない状況に陥っていくのである。
 こういう下品なコメディに顔をしかめることは簡単だし、やはり気分が乗らない時にはさらに気分が悪くなるだろうことは間違いあるまい。人を選ぶというか、日本人の感じる下品さ加減よりさらに上をゆく文化的な馬鹿さ加減に、ただただ呆れるより無いだろう。しかしながら正直に告白すると、まあ、僕のような人間はこのような馬鹿もそれなりに楽しめるのである。そういう同類かどうかということはさておいて、別段だれの目を引かなくても人類史上には何の影響もない作品ではあるだろう。だからこそ観たいというモノ好きのためにもこのようにDVD化されたということを感心するより無い。これを見る目のある判断とするか、ただの愚行と考えるかは、やはり観てから判断してはどうだろうか。
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小言を言う魚

2015-12-10 | ことば

 オーストラリアにオールドワイフ(Old wife)という名前の魚がいる。エンゼルフィッシュ(考えてみるとこの名前も変だけど)が胴長になったような縞模様のある魚である。豪州の固有種だという。名前のニュアンスは、古女房というより老婆という意味に近いといわれる。なんでも釣り上げると、ギーギー、ギシギシ鳴くためで、老婆が歯ぎしりをしたり小言を言うような感じがするかららしい。なんとなく老婆にもこの魚にも失礼な感じがするが、豪州人がそう思ったのなら仕方がないことだ。
 魚は種類が多いというのはあるだろうが、時折変な名前のものに出くわす。いや、厳密には名前を付けた人間が悪いはずだが、海の生物の多様性もあってのことか、妙な形姿の魚がいるせいであるようだ。
 見た目がそんな感じのコンペイトウというぶつぶつの多い魚がいる。ググってみて欲しいが、なかなかかわいい。
 タツノオトシゴは十分変な魚だが、これに似たものにタツノイトコやタツノハトコがいる。どちらもタツノオトシゴに似ているだけでなく、海藻などに擬態して見つけにくいという。
 スベスベカスベというエイの仲間もいる。鱗がほとんどなくて本当にすべすべしているらしい。
 見た感じはムツゴロウに似ていて岩場に住むヨダレカケというのもいる。この魚はほとんど岩の上の陸地で生活しているらしい。下あごにあるよだれ掛けのような半円形のひだと上あごを吸盤のようにして岩にくっ付いて藻など食べているらしい。えら呼吸もするが皮膚呼吸もすることで、陸上生活が可能になっているようだ。酸素を効率よく使えるのであろう。
 顔の前面に長いひげがある風貌のためにオジサンという名のヒメジ科の魚もいる。メスだってオジサンである。美味で珍重されるというから、ひょっとしたら食ったことがあるかもしれない。でもオジサンという名で食材が並んでいるのは見たことが無いので、普通に煮魚とかでしれっと食事に出されているのかもしれない。
 カサゴの種類としては大きくもなり、これもやはり美味で食材として人気のあるウッカリカサゴというのもいる。学者の阿部宗明が新種としてこの名前を提唱したとされるが、その理由は他でもなく、別種であるにも関わらず似すぎている為にほとんどカサゴと区別されることないため、「うっかり」分類されないカサゴとしてあえて命名したそうだ。どのみち食われるにせよ、うっかりカサゴのまま食われるのはしのびないということなんだろうか。ウッカリカサゴ・ブランドとしてしっかりと認知された方が、高級魚として市場の価値が上がるのかもしれない。
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異常なはずが、それでいいという安堵感へ   福福荘の福ちゃん

2015-12-09 | 映画

福福荘の福ちゃん/藤田容介監督

 お笑いタレントの大島美幸が男役として主演。僕は知らなかったが、それが話題となっていたらしい。坊主頭だし、あんちゃん顔であることは確かだが、声の質はやはり女のものだし、最初はちょっと無理があるかなという感じもあったが、時間の経過とともにそれなりにしっくりしてくる感じだった。
 塗装職人の福ちゃんは、気は優しくて面倒見のいい兄貴カタギの人物のようだ。同じ職人仲間からお見合いめいたおせっかいを焼かれるが、(相手のことを必ずしも悪いとは思っていないようだが)何か事情があり、女性に極端に奥手なのである。その原因と思われる同級生の千穂が、外資系企業の職をなげうってプロの写真家になろうとする渦中で、過去の隠れたトラウマのために上手くいかないことに気づかされる。そうして過去に福ちゃんにしてしまった悪事を詫びに、福ちゃんのアパートまで謝罪に行くのだが…。
 いわゆる一般的に見てまともそうな人が少ない極端な社会を描いているにもかかわらず、何か身近で、むしろ卑近すぎるくらいののんびりした仲間たちの友情などを描いている。特に精神に異常をきたしている人が多く登場するのだが、性格的にも異常性がある人たちが集まってしまうと、それなりに皆が深刻に悩んでいることが素直に笑えてしまうということなのかもしれない。福ちゃんは、本来的に塗装工の男としてはそんなに乱暴な感じではないが、その面倒見の良さが圧倒的に慕われるということになっている。そういうキャラクターに大島が見事にハマるような感覚になると、もうそれだけでこの映画は成功しているということになるんだろう。普通のデブ男がこの役をやったところで、この感覚的な面白さは半減してしまうかもしれない。また他の個性派すぎる俳優たちの演技も、普通ならキモいというような感じでしか映画に使われていないはずなんだが、この劇中においては、実に愛すべき変な人たちとして、ほのぼのと描かれている。可愛らしいがゆえか、その才能が正当に評価されているのかよく分からない千穂の天然ぶりも絡まって、本来的には残酷になりそうな話が、不思議とそれなりの説得力を持つに至っている。いや、まあ、ファンタジーなんではあるが…。
 よく考えなくても変なコメディだが、そういう異常性がまったく気にならない、不思議な温かみのあるドラマに仕上がっているのではなかろうか。
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いまどきの○○は…

2015-12-08 | HORROR

 ちょっと前だがホームセンターの広い駐車場で空きスペースを見つけてバックして停めようとしたら、スルスルと後から来た車が来て停めてしまった(軽だった)。久しぶりにカッとして車から降りて蹴りを入れようを思ったが、よく見るとかなりご高齢の爺さんで、何とか自重した。停めた後に僕の車にさえまったく気づいていない様子だし、爺さんなりに見事な運転といわねばならない。

 仕事の都合で北島三郎のコンサートに付き添いで見に行ったのだが、客が見事にご高齢の人だかりで圧倒された。この時は開演時間が少し遅れたのだが、開かない緞帳に向かって「(早く開演しないと)帰えっぞー(帰るぞ)」という野次が飛んで一時騒然とした。僕の連れていた人はこの声に怯えてしまって外に出るといいだして、一緒にしばらくロビーで休憩しなければならなかった。まあ、僕としてはそれでもいいが、楽しみにしていたのに可哀そうだった。
 それで一時間くらいして落ち着いたので会場に戻ると、サブちゃんがいろいろ話をしていて、話をしている最中に席を立つ人がいて、「おいおい、話の途中でトイレですか?」といってウケをとったが、驚いたことにその一言で、数十人くらいの人が立ち上がってトイレに行く人が続出した。恐らく言葉に反応して、俺(私)もトイレに行かなくちゃ、と思ったらしい。サブちゃんはさらに苦笑するしかなかったが、その後もちゃんと歌っていて見事だった。
 それにしてもこのコンサートの合間に携帯で写真を撮る人は普通にいるし、実際に電話のベル(というか着信音)が頻繁に鳴る。そうしてその電話に出る人が大声で話している。警備に立っている人も、もう注意するのも諦めている様子だった。
 他に車椅子の付添をしている職員(女性)の話だと、普通のコンサートなら車椅子で並んでいると障害者用トイレの前を暗黙に人の列が分かれて道をあけてもらえることが多いのだが、皆無視をするばかりでなく、我先に割り込んで障害者用トイレに入っていく人の波にあらがうことが出来なかったという。気づいていない訳では無くて、皆気になどしていないということらしい。
 僕らの集団は移動に時間がかかることは仕方ないと思っているが、人ごみが多いというだけの問題では無く、この時は本当に難儀してしまった。やっと抜け出してバスに乗り込めたときは、本当にほっとしてしまった。
 実はサブちゃんは以前に博多座でも観に行っていたのだが、同じご高齢であっても客層が違うというのがあるように感じる。その時はここまで疲れることは無かった。もちろん料金も違うのだろうが、特に名を秘すが場所で客層のマナーがぜんぜん違うということのようだ。夜の部では少し違う人たちが並んでいるようにも見えたので、平日の昼間っからこういうショーを観るような場合というのもあるのかもしれない。くわばらくわばら、である。
 まあしかしながら、これが高齢社会の現実なんだろうとも思う。いまどきの若い者は、なんていうのは可愛いもので、いまどきの年寄りは…、ということの方が目に余る社会が到来しているということなんだろう。
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重たくてつらい女という性   Strawberry shortcakes

2015-12-07 | 読書

Strawberry shortcakes/魚喃キリコ著(祥伝社)

 主に4人の女の群像劇といったところの漫画。主題はズバリ女心といえるだろうが、男の僕が読んだところで分からない訳ではない。いや、漫画だから分かるが、実際の生きている女がこんなことを考えているかは考えたことは無いので、分からなかった心情かもしれない。
 塔子とちひろは同棲というか共同生活をしている。塔子はそこそこ売れているイラストレーターで、雑誌の表紙を飾ったりしているが、彼氏にはフラれ、さらに仕事へのプレッシャーが大きく、過食症でそのために吐くような病的なところがある。ちひろはOLでちょっと可愛らしい感じかもしれない。しかしその女性性が強い為か時には同僚にも妬まれ、塔子と比べて特に才能が無いとか、彼氏がいても自分中心にならないことに苛立ちがあったりする。他人と比べないと自分がしあわせになれないタイプの考え方をする人のようだ(要するになんとなく不幸)。この二人は生活が近いせいか、友人でありながら心の中ではお互いに憎み合っている不思議な関係だ。
 この二人とはまったく別に、風俗で働きながら(それを武器として割り切って使い、それだけで生きていく強さがありながら)実は強烈に思いを寄せる男とは、単なる友達関係のままという秋代。ペットにヒョロリという魚(金魚なんだろうか?)を飼っている。そうして、この中では一番深刻でないけれど、彼氏もいなくてしかし強烈に彼氏は欲しくて、しかし休みの日には公園でたこ焼きを食べるようなことをしてのんびりしているような里子というのが出てくる。ストーリー的には関係ないようでありながら、これも女のリアルな姿の一形態ということなのかもしれない。
 イラストのようなシンプルな線の漫画で、ちょっとした浮遊感のようなものが感じられるのだが、恋に恋している心情や、女性ならではと思われる複雑な心境が見事に描かれているという感じだ。登場人物以外の男は、なんだかどうにも冷たい感じだが、女から見た男という生き物は、こんな感じなのかもな、とは思った。そういうものを女たちは激しく欲している訳で、男の僕から見ると、少し不可解だ。自分の性は使っているものの、やはりそういう欲求ということは薄いからかもしれない。まったくそれでどうして男が欲しいのだろう?それが本能的な感性なんだろうか。
 特に重たいのはちひろで、これは一番男にモテるだろう可愛い女でありながら、自ら不幸な考え方で、破滅してしまう感じだ。そういうどうしようもなさと、同居している塔子を同時に傷つけていく残酷さが(そうして自分も傷つくが)、何ともやりきれない感じがした。ひょっとすると身の回りにもいたかもしれない人物で、他の病的な二人とは少し違って普通っぽいからこそ、救われないような気分になった。相手に何かも求める人生とは、やっぱり不幸の始まりなんではなかろうか。もしも男が万能のいい奴であっても、自ら不幸の種を探し出して泣いてしまうのだろう。
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歌い継がれるということ

2015-12-06 | 音楽

 僕が中学生だった1980年は、ピーター・セラーズが死んだ年である。前年公開の「チャンス」という映画でゴールデングローブ賞を取ったことで話題性があり、もともと悪かったらしいが心臓発作で急逝したということもあり、日本でもそれなりに話題になって繰り返し映像が流れた。出世作ピンクパンサーは、多少お色気があるということで子供の頃にはあまり家庭で鑑賞することが許されておらず、改めてテレビで大量にそういう映像が流れるので、楽しんで観たように思う。まあ、実のところコメディとしてそんなに面白いもんかな、という子供らしい感想は持ったものだが…。
 この年には個人的にさらにショックなことに、その後9月の末にジョン・ボーナムが死んだ。ツェッペリンは前の年に「インスルー・ジ・アウトドア」というやや残念なアルバムを発表しており(でもまあ僕はそれでも嫌いなアルバムではない。ファンというのはそういうものなのだ)、それなりに盛り上がっていたのに、これで事実上バンドは解散ということになってしまった。ボンゾ無しにツェッペリンは成り立たないといわれると、そうだったんだな、と改めて残念でならなかった。
 そういう暗澹たる気分の中で年末を迎えるときに、ジョン・レノンが撃たれたというニュースが流れた。ジョン・レノンは長い間子育てのために活動休止をしていて、満を持してアルバムを発表したばかりで、巷間ではその中の曲「スタンディング・オーバー」が流れまくっていた。もともとビートルズは僕より少し先輩たちの音楽で、既に古典として聴かれているということはあったにせよ、世の中はパンクロックになっていて、若い人間にとっては、ちょっとオジサンくさいという感じはあった(もしくは軟弱という感じかもしれない)。それでもスタンディング・オーバーの曲のちょっと元気の出るような感じは新鮮で、やっぱりジョンは凄いよな、というような音楽仲間でもない奴からの反応も良好だったと記憶する。そういうタイミングで撃たれたというまさにショッキングな事件で、このようなことがあっても銃規制をしないアメリカという国は、何と野蛮なんだろうと改めて思ったものだ。
 そういうことで改めてビートルズやジョン・レノンの曲を弾くバンドが爆発的に増えた。ロックっぽい「ヘルタースケルター」をコピーするのも流行ったが、どういう訳かジョンがベン・E・キングの曲をコピーしたスタンド・バイ・ミーを歌うというのが、圧倒的に流行った。かくいう僕もその一人で、あんまり何回もこれを歌ったので、いまだにたぶんいつでも歌える唯一の曲である。ちなみにコード展開がRCの「スローバラード」やポリス(スティング)の「見つめていたい」と同じなので、まあ、その後も重宝したということもあるかもしれない。
 ジョン・レノンの声というのは、日本人男性の平均的な声の質とは少し違う感じの高さがある。細い感じも無いではないが、しかし細くなり切らず張っている。これが聴くものに心地よさを与えるのではないかという話もあって、ちょっと信じてしまいそうになるのだが、まあ、いい声なのだ。恐らく多くのモノマネがあるはずだろうけれど、なんとなくジョンのような感じにならない。そういうところをいろいろ工夫して歌うところに、この歌を歌うという、もしくは聴くという楽しさがあるように思う。ジョンのことを思うけれど、自分なりに歌うより無い。そういうところがスタンダードとして残るということになるんじゃなかろうか。いまだに時々やはりスタンド・バイ・ミーは聴かれることがあって、そのたびにこの息の長さとある種の新鮮さがあるらしいことに驚くことになる。僕が死ぬ頃までそんな感じなら、本当に凄いことだとまた思うのだろうな。
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理想主義がデス・ユートピアの道に   ドイツリスク

2015-12-05 | 読書

ドイツリスク/三好範英著(光文社新書)

 副題は「「夢見る政治」が引き起こす混乱」。
 夢見る政治とは、ロマン主義ともいえる理想主義を優先させる感情的な政治を指している。要するに現実的ではないということである。ドイツは政治下手といわれているらしいが、根拠としてこの理想主義的な思想が政治を左右しているということが大きいようだ。
 その姿勢が顕著に表れたのが他ならぬ原発への対応で、日本の原発事故に対してもっとも過剰に反応し、偏った世論一辺倒となり、早々に自国の原発廃棄の道を政治決定してしまった。これを評価する人も日本にはそれなりにいることは知っているが、なぜそうなったのかという原因を理解している人は少なかろう。そもそも原発に対しての強い思い込みのあった世論とマスコミが、極端に偏った、はっきり言って事実は違う報道を繰り返し国民に伝えぬいたということが、このような政治判断を導き出したという経緯を詳しく解説している。対照的に英国などの報道がいかに冷静だったのかということも含めて、国際報道の現実なども知ることが出来る。
 ドイツ人の多くは、日本の原発報道はまったく信用できず、福島に近い東京が多量の放射能に汚染されているにもかかわらず日本の無理な統制下に仕方なく国民が暮らしてると本気で信じているようだ(そういう人は日本にもいるけど)。東京に住むドイツ人などには、泣きながらドイツに帰ってくるように説得するような空気があるらしい。
 そのようなドイツ人の考え方と、ロシヤや中国などとの政治への協調や共感しやすい体質なども理解できていく。日本人は比較的にドイツ人に親近感を抱いている(勤勉さを尊ぶ倫理観やお互いに敗戦国である歴史背景など)国民が多いといわれるが、一方のドイツは、日本の歴史観や経済優先に見える政治(とりあえず自国は棚に上げて顧みないのだが)については、かなり厳しい考え方を持っており、ヨーロッパの中でも特に日本嫌いで有名である。そのような誤解が生まれてしまうのは、やはり中韓の歴史観への共感であるとか、理想主義的な、それをたぶん進歩的だとする共産思想などともシンパシーが強いということが言えそうである。環境保護、特に反原発を柱とする政党が有力政党になっている国はドイツ以外には世界には無い。それは理想主義者には確かに素晴らしいことだろうが、いかに異常な現実が成り立っている国なのかという証明でもあるのだろう。
 この本で書かれている通り、歴史認識というものは国内においてもそれなりに幅のあることの方が先進国としては当然である。むしろそれが開かれた先進国の特徴かもしれない。その点で日本は、米国や英国、フランスなどと極めて近い歴史認識を持っているに過ぎない。その上で、ドイツの隣国で友好関係にあるフランスのような国家が東アジアには存在しない。そういう背景の理解が無いままにドイツは、日本の置かれている東アジア情勢を半可通にしか理解しえていない。ドイツとポーランドの関係が日韓という関係に近いことを、あえて避けて考えているという嫌いがある。そうしたうえで、自国はホロコーストなどの戦争における犯罪に繰り返し謝罪し、新たな歴史を踏み出した優等生という意識を持っているらしい。そのような日本に対する優位的な意識が、ドイツ人の心の安寧にもつながっているのかもしれない。しかしながら歴史的に自明のことだが、日本が先の戦争においてホロコーストのようなことは行っていない。さらに日本が謝罪しなかったという事実も無いし、歴史の連続性として過去を断罪し現在の日本が無垢であるような欺瞞的な態度をとることが無いだけのことである。歴史の複雑さを単純化することなく向き合っているという点では、ドイツの方が一方的に思い込みを強めているだけのことのように見える。
 このようなドイツの姿を理解したうえで現在のEUの状況を鑑みると、やはりこの大国ドイツのロマン主義が、良くも悪くも大きく作用していることが理解できるだろう。また最近のVW社の排ガス偽装ソフト問題なども、関連して考えることが出来るかもしれない。苦悩に満ちた理想主義のドイツの実情を、非常に分かりやすく伝えている本である。
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枯れ木と蓼食う虫

2015-12-04 | ことば

 今更ことわざに感心するような年頃ではないが、しかし時には身に染みるという感じでことわざにふれることがある。恐らく共通の感情をその場に伝えることにおいて、やはりことわざというのはなかなかの優れものである。
 若いころに少し年配の女性(要するにおばちゃん)から、「枯れ木も山のにぎわいだからね」とよく耳にした。これは安易に同意はできないから、危ないトラップだとは思ったが、まあ、ニコニコしていればいいだけのことである。しかし心の中では、確かにそうかもしれないな、とは思っていた。人がたくさん集まるだけでなんだか楽しいものだし、特に自分好みであるとか、美人であるとかの人が居なくても、女の人がいるだけでも楽しいような気分にはなるものだ。極端に違う世代ばかりというのはそれなりに考えることもあるかもしれないが、例えそうであっても、いろんな人がワイワイやって集まったりするのは、山のにぎわい的に楽しいのではないか。
 また、そのような、枯れ木のような存在こそ、時にはやはり必要なのではないかとも思うのだ。何もかも自分好みで、何もかも一流のようなものに囲まれることが、本当にしあわせなことなんだろうか。もちろん、それが一番だというのは分からないではないものの、例えば幕の内弁当みたいなものであっても、本当は好きじゃない煮た人参なんかを食べることによって、玉子焼きの味が引き立つこともあるんではなかろうか。
 同じように人を馬鹿にしたようなことわざに「蓼食う虫も好き好き」というのがある。これは確かにそのような人を小馬鹿にしているには違いないが、そのような物好きな人がいることを、やはり認めざるを得ないことも、笑いを持って理解させられる。さらに本当は自分にはその価値が分からないだけことかもしれないという、意味としては含まれていない警句のようなものも感じさせられる。蓼食う虫がそれで満足ならば、別に放っておいてかまわない問題だけれど、そのある意味特殊な趣味性のようなものを、笑い飛ばしながら認めることで、自分なりの偏屈さの自戒を考えたり、時にはその物好きを尊敬したりする気持ちになる。個性は皆の違いを認めることにあるはずだが、しかし現実には滑稽さも含んでいるはずだ。そういうことは一旦笑い飛ばしておいて、しかし、面白いこととして認めてしまおうという精神が、このことわざの笑いの後には生まれるのではないか。少なくとも理解できないものをそのまま放っておけるような器量のようなものが必要で、理解できないから攻撃するようなこととは一線を画すような感じもある。
 ただし、このことわざが好きだとか座右の銘だとかいうことに選ばれるようなものではない。そういうことが、下手に気取った警句よりも、さらに優れたことわざたらんとするものではなかろうか。まあ、考えすぎなんでしょうけど…。
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罪を残して死ぬということ   死ぬまでにしたい10のこと

2015-12-03 | 映画

死ぬまでにしたい10のこと/イザベル・コイシェ監督

 10代で結婚出産して既に二人の娘がいる23歳の主人公のアン。夫はやっと仕事が見つかり働き出す。自分も清掃の仕事をしているようだ。母親の庭か何かにトレーラー(あちらの国では住宅規制があって動かせる住居にすると税金を取られないという抜け道があるようで、低所得者はコンテナやプレハブでなくこのようなトレーラーハウスに住むという図式がある。要するにトレーラーハウスに住んでいるということで、底辺の貧困層であることを表している訳だ)ハウスを置いてそこに住んでいる。ある日具合が悪くなって受診すると(ひょっとするとまた妊娠?と本人は思っている)、大きな腫瘍ができていて手術も不可能、余命2ヶ月という宣告を受ける。
 本人はその事実を誰にも話さない決心をし、余命で死ぬまでにしたいことのメモを作り、実行に移していくわけだ。ちなみにこのやりたいことのリストはごく日常的なものが多く、娘たちに毎日愛してるという、とか、酒や煙草を楽しむ、などがある。変わっているのは、娘たちの新しい母親候補を探す、だとか、娘たちが18歳になる毎年の誕生日のメッセージを録音するなどがある。その中でこの話の大きな軸になるのが、夫以外の人と付き合ってみる、というのがある。もちろん実行するわけだが、10代で出産結婚した若い女性として、恋愛経験を積みたいという欲求があるということなのかもしれない。もちろんしかし経済的な能力はともかく、若い夫は特に暴力的なところがあるわけでもなく、子供の世話だって最小限はやるような、いわゆるいい夫である。その中で浮気とはいえ、まさに夫以外の男と、真剣な恋愛に落ちていくのである。
 死ぬ前に自分を見つめ直し、家族の愛を確かめ、その後のことをひそかに準備していく心情は理解できるものである。着実に録音を残し、愛する娘や夫のことも考えているようには見える。そうでありながら、コインランドリーで知り合った男を誘惑し、着実に恋に落ちていく様子も、ある意味で大変に真剣である。このギャップが観ている人間を少なからず混乱させているようにも見える。死ぬことが分かりながら、その短い時間ながら、なんとなく大変に罪深いようにも思える。そのあたりは倫理観の違いがあるのかもしれないが、女性としての共感のある話なのであろうか。
 恐らく最後まで秘密は守られることになるんだろうが、このような不安が生きている人間には残るという印象だ。知らなければ無かったことかもしれないが、知っている人が約一名生きている。その人が心に秘めたまま死ぬだろうこともなんとなくは分かる。それは短いながらも本当の恋のようなものだったからだ。生きている間の自分が生きている証明のようなものが、死にゆく人にも必要なことだということなら、人間は確かに罪深い。それが許されるのは余命があるからのようだ。まだまだ僕らには余命がありそうだが、若さは失われていく。若いまま死ぬことというのは、だからそのような罪を残すということに意味がありそうである。それは既に罪を背負った人間には分かりにくい欲求なのかもしれない。
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ゲゲゲのしげる

2015-12-02 | なんでもランキング

 水木しげるが亡くなった。ご高齢だったのである程度は覚悟はしていたが、やはりそう聞くと大変にさびしい思いがする。僕も子供の頃から知ってはいたが、ちゃんと水木さんを知ったのは大人になってからという感じだ。正確にいうと、その本当に大きな存在としてという意味だが、もちろん普通の感覚で漫画を読んでも、作品自体が素晴らしい作家であったことが第一である。息子がゲゲゲを熱心に読み(最初はテレビだったのだろうが)、ついでに映画も境港の町にも行ってみた。そうしてやはり作品が素晴らしいと言っていたのが印象的で、水木さんにふれた多くの人は、そういう水木さん自体のファンになっていくものだと改めて思い知らされた。
 マスコミは仕方がないと思うが、水木さんの本質にはどうしても迫ることが出来ないでいるようなもどかしさを感じる。水木さんを掘り下げると、ちょっとマスコミ的な文法には向かない、かなり危うい面も同時に知ってしまうことになるからである。それは俗物的でもあるのだが、しかし落語のバカバカしさにも通じる普遍性がある。素直にそういうものを語ることは、ある意味で本当に勇気のいる世の中になってしまっている。しかしそういう障壁でさえ軽々と、いや、ひょうひょうと飛び越えて悠然と馬鹿をやってしまっている人が他ならぬ水木さんという存在で、これを素直に分かるような人というのは、実はごく少数派なのではないかと思われる。
 人間というのは、特に現代人というのは本当に厄介な存在で、自分たちの偏見の枠の中に納まらない人間を目の前にすると、どうしても落ち着かなくなる。結局水木さんが体験した悲惨な戦争体験などを持ち出して、それは確かにたいへんなものであったことは間違いなかろうが、勝手に納得して自分の気持ちを収めようとしてしまう。水木さんの本質は、そういう安寧さえ破壊しかねない強烈な毒を持っているからこそ成り立っているにもかかわらず、怖くてそこまで掘り下げることが出来なくなってしまっているのだ。結局は作品を読めていないまま、水木さんを表面から語ろうと、もしくは早く分かろうとし過ぎてしまって失敗に終わっているのだ。そういうことが本当に残念で、だからこそ、改めて水木作品を多くの人に手に取ってもらいたいと願うものである。
 水木作品には、誤解を恐れず正直に言うと、多少の不完全さがどうしても混ざっている感じがする。駄作といってもいい作品も少なくないと思う。一本の長い作品も少なく、再編集され、部分部分を断片的に伝えるものが多いようだ。そういう訳で、実際にはそういうもので何を読んでもいいとは思うのだが、やはり代表的なものをコアに読んだらいいのではなかろうか。

のんのんばあとオレ(講談社)
カッパの三平(ちくま文庫、ほか)
悪魔くん(ちくま文庫、ほか)
ゲゲゲの鬼太郎(ちくま文庫、ほか。墓場の鬼太郎なども)
テレビくん(短編、水木しげる妖怪傑作選1・中公文庫、など)


 テレビのみでゲゲゲに親しんだ人にとっては、実は漫画のゲゲゲ・シリーズは少し水木しげるの上級者向けという気もする。もちろん構わず読んでいいのだけれど、このダークな感じがどうしてテレビだと軟弱になってしまうのか、僕のような人間にとっては、少し理解に苦しむところだ。テレビでもこの漫画を素直にアニメ化してくれたらどんなに良かったことだろう(深夜枠で、そういうシリーズは作られたようだが)。
 また水木しげるに感化されて、その生き方そのものに影響を受けている人間というのも面白い人が多い。そういう人が愛を持って語る水木しげるも面白い。代表的なのは呉智英、荒俣宏、京極夏彦だとか。俳優だけど佐野史郎などもいる。今彼らが語りだすかどうかは分かりえないが、過去の解説を含め、耳を傾けてもいいのではなかろうか。どちらかというと著作以外での自分語りが下手だった水木さんに代わって(話すこと自体は好きだったようだが、ついふざけるので内容が理解しづらい)、それらの代弁者の声の方が理解しやすいかもしれない。
 人気作家でありながら不遇時代も長かったのは、本当に実力がありながら、やはり理解されるのに時間がかかったというのがあるのではないか。また人気が出ても、基本的には鬼太郎のダークさがそぎ落とされたのちのエキスのようなものになっている感じもする。もっともそれでも素直な子供は、その不思議さに惹かれて水木を慕ったのではなかろうか。手塚治虫は、自分の息子に自分の作品こそを読んでもらいたがったが、息子は水木作品を好んで読むので嫉妬した、というエピソードがある。もっとも手塚作品は別に孤高の存在として偉大だが、水木作品には、なんだか麻薬めいた不思議な味わいがあるものなのである。そうして繰り返すが、屈折した毒のようなものも含まれている。
 水木さんは戦争の時代と戦後の貧困を生き抜いた苦労人だけれど、しかし生き残るべくして人生をまっとうした人でもあるのではないか。存在自体に価値のある人として、長く記憶に残る日本人となることは間違いなかろう。
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