カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

プレシャス

2011-05-09 | 映画
映画『プレシャス』予告編



プレシャス/リー・ダニエルズ監督

 それにしても見事に太ってるな、というのが第一印象。ヒロインとして最も異質な存在という話も聞いたような気がする。確かに黒人のまるまる太った頭の悪そうなヒロインというのは聞いたことがない。途中では夢見る乙女の側面はあるものの、いつも不機嫌そうだし態度も悪い。おおよそどこに愛すべきところがあるというのだろう。
 しかしながら彼女の境遇というのが、実にすさまじい。十代で妊娠している(それも二度目らしい)のが明るみに出て学校を退学させられ、その子供の父親は母親の恋人(つまり父親なんだろうか)であることから、母親から激しい嫉妬と虐待を受けているのだ。母親は生活保護を受け続けることしか頭になく、どこかに預けている娘の一人目の子供すら利用している。そういう境遇で読み書きさえできないプレシャスは、代替学校というところで教える黒人女教師にどんどん憧れを抱いていく。
 それにしてもこの閉塞感は何なのだろう。実の母親から受ける虐待から逃れられないだけでなく、おそらくまともな仕事に就くことすらとても不可能にみえる。何しろまだ十代というだけでなく、二人の幼い子供まで抱えていくのだ。想像の世界へ逃避してみても、その一時に時間にどれだけの救いがあるのか。学校に来ている同級生(のようなもの)にしたって、どう見ても同じように問題のある人たちばかりなのだ。おそらく個人の力では切り開くことができない。牢獄のような閉塞感のみが現実を覆っているのである。
 しかしあこがれの先生はプレシャスに日記を書かせるだけだ。文字を書いたからといって何になるのか何も分からない。しかし何でもいいからといって書き続けることだけを強要する。プレシャスはその言葉を信じているわけではない。しかし確かに書くより仕方がないのかもしれない。徐々に何かを書くようになり、そして徐々に自分というものを正面から見つめるようになっていく。
 この物語が救いの物語であるのかどうかも僕にはよく分からない。映画が終わった後にも現実は続いていくだろう。プレシャスの子供は大きくなり、いったいどのような人間になるのだろうか。彼女と母親は違うとはいえ、同じようなふるまいをしないとは限らないではないか。ひょっとするとそのような連鎖の中に、深くはまりこんでいるのではないか。僕はスラム街というのはよく知らないが、そういう状態が人々をのみ込んで離さないのではないか。本当にその世界から抜け出すためには、逃げるより無いのだろうか。逃げた外の世界も、またなにも温かい世界である補償すらない。貧困というものが人間をとりこんでしまうと、人間というものはそう簡単に這い上がることなどできないのではなかろうか。
 家族というもっとも根源的な単位でさえも信じられなくなった世界。やはりそこが崩れてしまうと、人間らしい生き方が根本から崩れてしまう。しかしそこからでも個人は再生できる。おそらくそれは教育によって。そしてそれは教育を受ける個人次第なのだ。
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