カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ゆるいファンタジー   わたし出すわ

2015-07-20 | 映画

わたし出すわ/森田芳光監督

 なんで金を持っているのかは謎だが、以前の同級生を訪ねて、主にお金に困っていたら惜しみなく援助してくれる女の人の物語。一種のファンタジーだと思うが、こんな以前の友人あたりの人が金を出してくれると、何かと助かるのは確かだ。肉親ではかえって心配をかけるだろうし、個人的事情に対して、公的なものから借りるわけにもいかない。設定どおり、知ってはいるが最近の付き合いは特にないような以前の友人あたりだと、金を出してもらうことに、かなり抵抗が薄れるのではあるまいか。それでもやはり、なんでこんなに簡単に出してくれるのかは少し気味が悪い。誰も積極的に自分から貸してくれとせがんでいる訳ではない。友人として心配してくれた上に、気軽に大金を出していいといってくれる感じなのだ。特にお金持ちには見えないし、しかし、どういう訳か本当にお金は持っているらしい。最後には全財産という金の延べ棒を、比較的に彼女を妬んでいるような友人に全部あげてしまう始末だ。恐らくだが、これでそれなりに困ることにはなるんではあるまいか。しかしそういうことはお構いないようで、潔くお金を手放していく。以前の友人たちだから当然のことであるかのように、やはり実際に好意として、お金を出すことの方を目的化しているように見える。
 さて、しかしながらそうやってお金を手にした側には、それなりに問題が起こってしまう。思わぬ金が転がり込んだせいで、欲望に目覚める主婦が居たり、最終的には命を落とす者までいる。お金をもらって単純に目的を達成してハッピーそうな人もいるのだけれど、どうも歯車はくるっているような印象を受ける。身の丈というか、いわゆるあぶく銭というのものは、何か人々を不安定にさせてしまうのかもしれない。
 だからどうだということを、ことさら批評的に描いている訳でもなさそうだ。お金は欲しいが、やはりそれなりにまっとうに手にすべきだとか、そういう説教じみたメッセージがあるわけでもないのではないか。ただやはり、お金によって人生には一定の影響力が働くだろうことは分かる。それがダイレクトに人間の欲望のためなのかはよく分からない。人間は単にそういう生き物なんだということなんだろう。
 不思議な浮揚感のある映画で、最後までなんだか現実感が薄い。人というのは淡々と不幸になったりハッピーになったりするようだ。それは本来は近しかった友人たちであるはずなのに、やはりどこか遠い物語だ。まあ、実際にはふつう誰も金なんか出してはくれない。そもそもの成り立ちが成り立ちにくいからこそ、変なファンタジーになりえたという作品なのであろう。
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