カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

心残りが減ってゆく

2007-09-09 | 雑記
 昼は淡々と仕事。土曜日だったので相手先が休みで連絡の取れないことが多かった。昨日までにやっとくべきだったとかなり反省。
 午前中は病院に行く人などけっこういて、半ドンのようなことはいまだに必要なのかもしれないな、と思う。平日に病院にいくのは気がひけるけれど、土曜日に通院するのはかなりOKという感じが確かにする。そんなに悪くないけれど気になる程度の具合の悪さには、土日に病院が開いていると非常に助かる。そういうニーズは少なくないはずだが、重篤な状態の救急医療しか開かれていないというのは、やはり構造的な問題だろう。医療関係は人件費が飛びぬけて高いので、改革の難しい分野なのだと思う。都市部では変わりかけているのだろうけれど、過疎地の医療はいまだに壊滅的な状態なのではないか。
 戦後すぐに地方の首長がまずやったのは、なんといっても医療と教育であったろう。どちらも現在は行政のものは財政的に悲鳴をあげている。大切だったのにそうでなくなったはずは無い。構造的にゆがんでしまって修正が効かないという問題があるのであって、どちらも不必要ではないのである。やはり改革がもっとも必要な分野らしい。

 夏越の議事録もさくさく。気分的に少し開放感がある。ひとつずつ片付くって、精神衛生上大切なことなのである。
 さて、もうひとつのこころ残り、子供提灯の撤去が行われた。夜からトラック持ちが集まっている。荷台班が登ってアーケードの両側のワイヤーにくくりつけてある子供提灯を粛々と取り外す作業をする。ワイヤーのような細いものでも、長年の埃で真っ黒に汚れている。飾ってある提灯(実際は厳密に提灯ではないが)も埃にまぎれてかなり汚れている。少し作業するだけで、手のひらを中心に真っ黒けになってしまう。うっかり額の汗もぬぐうことができない。
 K村事務局長が、撤去とはいえこの提灯を踏み潰す行為が心情的にしのびないとして改革を訴えていた。僕の作業中にも一人だけ提灯を取りに来た人がいた。せっかくの子供の作品を取っておきたいというのはまっとうな心情であろう。T田理事長も娘さんの作品を見つけて持って帰ったようだ。
 このような要望に厳密に応えるのは大変な労力であろうことは容易に想像できる。しかし、本当に不可能なのだろうか。いや、完全対応は不可能だろう。一般の人を作業に参加させるのも、やはり無理な相談だろう。役場なら、わずらわしいので止めるところだろうけれど(僕でも個人的には断固止める)、やはり思案のしどころではないか。また、実際には自衛隊に出てきてもらうなど必要なのだろうけれど、要請すると日時の問題も出てくる。頼んだからには、またなにか別の配慮も必要だろう。保管場所をどうするか。引渡しをどうするか。そもそもの材質はこのままでいいのか。破損はどう扱ったらいいのか。など問題は山積だ。
 しかしそうまでして回収しても、やはりほとんどは捨てられることにはなるだろう。捨てる前提で取り組んだほうが、やっぱり合理的なのかもしれない。今は合理的に撤去しているということなのだろう。
 根本的に違うけれど、訴えていた人が欠席でよかったのかもしれないと思う。この作業だってけっこう大変なんだよね。土曜の夜に粛々と参加している人の気持ちになると、センチメンタリズムは厄介だなあと思うのであった。
 ああ、そうそう。針金でくくる作業の前に、くくり方をしっかり指導したほうがいい。取り付け方がまちまちで、撤去の際に難航して腹立たしい。ある区間の針金をつけた人物を探し出して文句を言いたい気分になった。また、ニッパーなど補助の備品も必要かも。場所によっては格段に効率がよかった。
 さて、打ち上げは蛤亭でもうもうと煙に巻かれる。お疲れ様でした。
 二次会にも流れてカラオケ大会。E越君のロッカーぶりにはけっこう動揺した。本格派の登場である。それにしてもみんなよく歌う。知っている分野も幅広くて、興味というのは分散するものだなあ、と思った。
 そういえばカラオケ批判する人には、なんだかカラオケを歌う人を軽蔑しすぎるきらいがあるように思えてならない。とくに雑誌などで見る文化人という人たちは、カラオケはやらないと公言し、かつ辛辣に非難する人が数多い。カラオケを敵視することが、文化的水準の高さやインテリジェンスのある美的感覚だと信じているようでさえある。まあ、揶揄したくなるのも少しは分かるが、飲んで歌うほうが普通に楽しいから普及しているのだと単純に思う。飲まなくても歌うのは楽しい。それだけのことだ。知性など無くて、それでよろしい。
 いえね、選曲するのはけっこう知性があらわれるんですよ。この場にあった選曲ができるという社会性が試されているのです。歌の上手い下手でもない。その社会性が日本人の画一性でもあるのだけれど、世間の分かるリテラシーでもあるのだと思う。たぶん多くの文化人にはそこのあたりが欠如しているだけなのではないだろうか。
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2 コメント

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Unknown (takatosi)
2007-09-09 18:32:32
撤去お疲れ様でした

先にスケジュールが入ってまして
嫁の熊本の友人宅落成祝いに行っておりました
スイマセン

ちょうちんに関しては難しいですよねえ
いっそのこと子どもたちだけで設営から撤去までやってもらうとか・・・

まだまだこの祭りに付き合わなければなりませんから、ぼちぼち考えますです
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Unknown (korin310)
2007-09-10 09:02:44
難しいからチャレンジするという方向も否定はしません。引っかかりは大切にいたほうがいいとも思います。しかし現状がそんなに悪いのかなあという気もちょっとするわけでして…。ランタンフェスとかはどうしているんでしょう。あと、倉庫前のごみの処理も早く片付けないといけませんね。事務局もだけど。考えて見るとまだまだ終わってないなあ…。
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