カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

村八分

2015-07-31 | ことば

 村八分とはいわゆる仲間外れのことだが、村の共同体の掟として、火事の場合と葬式を除いた一切を一緒にやらないということだといわれている。では残りの八分は何かというと、成人式、結婚式、出産、病気、新改築の手伝い、水害、年忌法要、旅行、だという。これに意見を言いたくもなるが、まあ、普通は火事なら延焼を防ぐためもあろうから消してはやろう。葬式は、死んだ者は仕方がないし、死体は腐敗するためかもしれない。というような理由かもしれない。もっとも「はぶく」「はじく」という言葉が転じて「八分」になったという説もある。由来のもっともらしさと、言葉の面白さもあって、現代でもなんとなく通じる言葉として残っているのではないか。
 確かに村八分にあうのは、村八分されたくない人にとってはこたえるものなのかもしれない。特に農村のような共同体であれば、村八分は死活問題だったという話もある。問題なのは現代で、しかしもともと孤立しているような人はそれなりにいる。孤立したくなくて、しかも自然に村八分状態になるような人は、社会問題化もされている。一人暮らしのご老人など、何かと心配も多いのではないか。
 さらにこれがいじめ問題だと、村八分ではないが、集団で個人を攻撃するものとしては、いまだに結構残っているのではあるまいか。村八分する側にとってもエネルギーはいるだろうが、同調の圧力を抜けることは、あんがい容易ではあるまい。そうして孤立する人の苦悩というのがあって、やはりこれは残酷な行為である。
 懲罰なので、相手が懲りるくらいでなければ意味が無い、ということもあろう。もちろんこれは本来の村八分のことで、何か掟を破るなど、懲罰に値することをしでかした場合、長老か何かから言い渡されるということがあったのかもしれない。直接手を下さないので、一見緩やかな感じもあるが、繰り返しになるが共同体で生きなければならない社会であるなら、これは死活問題である。じわじわと苦しめられるということで、反発して事件になるということもあったようだ。いや、現代でもそのような事件というのはあるらしく、近隣地域での個人の孤立は、大きな事件へと発展するということもあるという。
 村八分は陰湿さもさることながら、やはり実施されることには問題が多い。勝手に孤立する自由があるのはかまわないが、実際に完全孤立は、つまるところ人間としては、なされてはならないことに間違いは無かろう。
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