カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

忙しいは偉いのか?

2022-11-09 | つぶやき

 挨拶のように、忙しい、忙しいでしょう、という言葉が交わされる。忙しいかと言われるとしかし、ちょっと考える自分がいる。何を自分は忙しいと考えているのだろう。スケジュールはそれなりに空いてない。空いていたら、埋まっていく。僕が相手に求めるときもあるが、たいていは先方が予定を埋めてくれる。空いている時間を教えてくれと言われる。じゃあこの日はどうですか? と答えると、その日は都合が悪いという。あれこれ調整が大変なのである。調整すると、当然それまでに何かをやらなければならないことにもなる。宿題ができる。そうすると目先の時間の使い方を、また変える必要が出てくる場合がある。結局詰め込み方の問題で、今日の予定がちょっと増える。またはもう明日に回して、明日苦しむことにする。もしくはもう時間が無いのであきらめる。現場で合わせるんでいいんじゃないかと思ったりする。そういうのは必ず後悔することになることを知っているくせに、そうしてしまう。だって忙しくて仕方が無いじゃないか。もう言い訳が用意されたわけだ。
 しかしながら忙しさにも波があるのも確かだ。いろいろ忙しすぎてただ時間に追われてその流れの中にいる時は、しかしあんがい時間は早く流れて、乗り切るとかなり開放感がある。目の前の予定が一つあるくらいなら、なんだか楽勝のような気分に浸れる。むしろ物足りないくらいに思うこともある。ワーカホリックは、中毒性があるのである。忙しい方がつらいのは確かなはずなのに、暇になって楽なままでいるのは快感ではない。何か物足りないので余分なことをして、周りに疎まれる。かえって失敗して余分な仕事が増えたりする。今度は自己嫌悪に襲われる。何度も繰り返しそのことが頭から離れない。暇な時間のはずなのに、その余裕が嫌な考えに支配される。そういうのはもったいないような気がするのだが、忙しいときはむしろ目の前のことに支配されて考えないだけのことで、振り返るとそうなってしまうのかもしれない。だからそういう妄想から逃れるためにも、仮の忙しさを欲してしまうのかもしれない。気掛かりだったり反省することが後回しで時間が経過して、もうどうでもよくなるような気もする。それは何らかの傷として残る場合があるのだが、痛みさえ忘れたら、それでいいのである。
 しかしながら忙しい話というのは、ちょっと張り合うような人がいて、聞いているのもつらいものがある。忙しい自慢をする人もいるし、忙しいから偉そうな人もいる。いわゆる今風に言えば、忙しさを語る上位者として、下位の者たちにマウントを取っている。忙しくてやりたいこともできないけど、実はジムに行っていて体も鍛えている。健康的でアグレッシブで、周りの人間よりできる人間で、自分は偉い! と言っている。そういうのはアメリカのビジネスマンでは昔いたような気もするけど、こんな田舎でも居たんだな、と思う。今じゃ都会では瞑想していいもの食って楽して働いていると聞くが、田舎では忙しい方がマウントを取りやすいのかもしれない。牧歌的な風景は何処に行ってしまったんだろう。
 ということで、実際のところ、僕はあんまり忙しくないんじゃないかとも思う。余裕はないが本当に忙しい訳ではない。少なくとも忙しい人種の上位者ではない。予定を埋めるくらいには空いているし、そもそも仕事もそんなに量をこなせるような技量が無い。できないことが多いから、人に頼んでやってもらっているだけのことである。ただ単に、暇だという勇気のようなものが無いだけのことなのだろう。
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